アダム・スミスによる感官と知覚[スミス知覚]

人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司

 アダム・スミス(1723−1790)の経済思想の基調をなすものは、利己的な人間の本性であり利己心と利他心のうちにあるだろう。そこにおいては、理神論的に裏打ちされた神の見えざる手に導かれた、個々人の利己的な行動がかえって社会全体の福祉に繋がる、という考え方の内にスミスの経済思想の特徴が、見られるのである。さらにスミスは、経済学のみならず哲学論考を著しそこでは、われわれ人間の在り方のうちに対象を捉える感官と知覚について、詳述している。そこにおいてスミスは「私たちがそれによって外的諸対象を知覚する感官は通常の数え方では、5つとされている。視覚、聴覚、嗅覚、味覚および触覚である。これらのうち最初に掲げ4たつは、それぞれ、身体の特定の部分ないし器官に局限されている。視覚は目に、聴覚は耳に、嗅覚は鼻孔に、そして味覚は口蓋に、局限されている」(1)と述べている。ひとり触覚だけは、特定の器官には局限されず頭髪と手足の爪とを除けば身体のすべての部分に、拡散しているのである。

 視覚についてスミスは「視覚の諸対象がこれらを知覚する器官に抵抗するもの、あるいはこれを押圧するものとして知覚されないことは、充分に明白である。それゆえ視覚の諸対象は、その現実存在の外在性と独立性を、少なくとも触覚の諸対象と同じ仕方では、示唆することはできない」(2)のである。われわれは、自分たちから隔たっている諸々の事物を見るのであって、これらの事物の現実存在の外在性は視覚によって直接に、知覚されるのである。だがしかし、目から事物までの距離は、線分のようなものであってその対象の一方の端は、目に接しているこの線分は当の目にとっては一つの、点にしか見えない。このことを考慮すれば、目から事物までの距離は視覚の直接の対象ではありえないことが、かえって可視的な事物はすべて当の器官に接しているものと、捉えられるのである。より正確に言えば、他のすべての感覚と同様に事物を知覚する器官にあるものは、自然に知覚されるに相違ないことをわれわれは、感得しうるのである。

 視覚の対象は、すべて同種の対象が暗室のうちに像を結ぶのと同様の仕方で、目の奥の部分にある網膜のうえに像を結ぶことは光学を理解していれば、誰にでもよく知られていることがらである。そして、おそらくは、知覚の原理が根源的に対象を当の器官の部分のうちにあるから、しかもその部分のうちにあるものとしてもとより感覚的に、知覚するのである。その光学者のうちには、視覚の本性に相当程度の注意を払ったことがある者や、目から事物までの距離が視覚の直接の対象であると主張する者は、誰もいなかったのである。視覚の対象は、色にとって本質的でありこれから切り離し得ないと同様に、われわれが見なす色の様態・有色の延長・形状と分割が、可能なものである。われわれが目を開くときは、我々の現前に出てくる可感的な有色の諸事物はすべて或る種の延長を、持っていなければならない。換言すれば、われわれの前に現れてくる可視的な視界のうちには、そこには或る一定の部分を占めていなければならない。そして、これらの事物は、すべてにおいて或る一定の形状を持っていなければ、ならないのである。

 スミスは「触覚の諸対象は、これらを知覚する身体の特定の部分、あるいは私たちがそれによってこれらを知覚する身体の特定の部分を押圧するものとして、あるいはこれに抵抗するものとして現前するのが常である。私がテーブルに手を当てるとき、手がテーブルを押圧するのと同じ程度にテーブルは手を押圧する、あるいは手が一層強く押圧すればこれと同じ程度にテーブルは手の動きに抵抗する。しかし押圧あるいは抵抗は、押圧する、あるいは抵抗する当の事物の外在性を必然的に前提する」(3)と述べている。このテーブルが、自分の手の外に存在しなければテーブルが手を押圧したり一層強く、押圧する手の動きに抵抗したりすることは、ありえないのである。したがって、われわれは、テーブルを単に自分の手の感触であるにすぎないものではなくて、自分の手の外に在りそれから独立しているものとして、感じとるのである。確かに押圧による感覚は、これは自分が強く押圧するか穏やかに押圧するかに応じて快くもあり、痛くもありまたいずれでもないような自分自身の手のうちに感触として、感じとるのである。

 われわれは、押圧し抵抗する当の事物をその感触とは全く異なったもとして、自分の手の外にありこれから全く独立しているものとして、感じとるのである。われわれは、テーブルに当てたまま手を移動していくとどの方向へ行っても、間もなく手はこうした押圧あるいは抵抗がなくなる地点に、達するのである。この地点は、テーブルの境界あるいは端なのである。テーブルの範囲と形状は、この境界あるいは端をなしている線の長さと面の広がりと方向に、よって決定される。だから、視力を失った人は、そのようにして自分自身の身体のすべての異なった部分の手で、触れて調べる機会を持つ他のすべての可触的な事物の広さと形状の最も判明な、観念を形成するのである。われわれは、自分自身の手を自らの足に当てるとき手が足からの押圧と抵抗を、感じるように足は手からの押圧と抵抗を、感じとるのである。そこでは、手も足も互いに外にあり相互に外在的であるがしかしそれらはいずれも自分の外に、在るのではない。われわれは、それらのいずれにおいても感覚を覚え自分が自然に手と足を自分自身の部分と、知覚するのである。

 聴覚についてスミスは「音はすべて、聴覚の器官である耳の内に在るものとして自然に感じられる。音は、当の器官に抵抗したりこれを押圧したりするもの、どの点においても器官の外に在り、これから独立して在るものとして自然に感じられることはない」(4)と述べている。われわれは、音を自分の耳の感覚として全く耳のうちあるものとして、耳のなかで感じる知覚の原理の内にのみあるものとして、自然に感じるのである。ところがこの感覚は、われわれが相当遠く隔たった物体によって頻繁に喚起され、嗅覚の感覚を喚起する物体よりもはるかに遠距離にある諸物体によって、喚起されることもしばしば経験から学ぶのである。われわれは、この音を聞く耳の内なる感覚はもとよりこれを惹き起こす物体の距離と、方向に応じてさまざまに異なった変様を被ると言うことをこれまた、経験から学ぶのである。当の物体を知覚する感覚は、より強く感じ音はより大きく物体がある程度の距離にあるときの感覚は、より弱く感じ音は小さく感じる。

 われわれの聴覚は、物体が右手に置かれているか左手におかれているか、さらに前にあるか後ろにあるかによって音あるいは感覚は、いくらか変化する。通常われわれの聞く音は、遠くからか近くからかまた右手からあるいは左手の方からそして前から、あるいは後ろから聞こえてくる。さらに、われわれ人間に聞こえる音は、遠くからの音や近くからの音などまた右手から左手の方から、音がすると言うこともある。しかし、実際の音は、自分自身の耳のうちの感覚はただ耳のうちでしか聞くとか、感じることができない。それらに関係する感覚は、音を聞く位置を変えることができないし運動することも、できないのである。だから、音が右手や左手の方からは、前方や後方からも来ることができるはずがないのである。音を聞く人々の耳は、ただその位置でしか感じるあるいは聞くことができず、その知覚の機能を遠距離や近距離にも右手や左手の方にも、伸長することができない。こうしたすべての言葉によってわれわれは、実際に表現しようとするのは音の感覚を喚起する物体の距離や方向に関する、我々自身の私念だけなのである。

 スミスは、味覚について「何らかの個体的実体あるいは液体的実体を味わうとき、わたしたちは必ず常に二つの別個の判明な知覚をもつ。第一に、固体あるいは液体の知覚であって、固体・液体はこれを感じる器官を押圧するものとして、それゆえ当の器官の外に在り、これから独立して在るものとして自然に感じられる。第二に、固体・液体が口蓋あるいは味覚の器官の内に喚起する特定の味、風味、あるいは香味の知覚であって、この味は当の器官を押圧するもの、これの外に在り、これから独立して在るものとしてではなく、まったく当の器官のうちにあるもの、ただ器官のうちにのみ、あるいはこの器官のなかで感じる知覚の原基のうちにのみあるものとして自然に感じられる」(5)と述べている。われわれが食べる食物は、すべての部分において快いや不快な味をもつと言うときに、我々が捉えることは食物がどの部分において味を感じる、感覚をもつかである。ということは、そのすべての部分において自分の口蓋のうちにある感じは感覚を、喚起する機能をもっていると言うことである。われわれは、この場合に感覚とその感覚を喚起する機能と両者を同じ知覚によって、指示するにもかかわらず知覚のこの両義性のために人類の自然な判断が、この場合にはほとんど味覚を感じないのである。

 臭覚についてスミスは「臭いあるいは香りはすべて、鼻孔の内にあるものとして自然に感じられる。当の器官を押圧したりこれに抵抗したりするもの、どの点においても器官の外に在り、これから独立して在るものとしてではなく、全く当の器官の内にあるもの、ただ器官の内にのみ、あるいはこの器官のなかで感じる知覚の原基の内にのみあるものとして、感じられる」(6)としている。われわれのこの感覚は、何か外に在る物体によって喚起されるのが普通であって、花が取り去られると感覚は消えまた元のように前に置かれると感覚は戻ると、言うことを経験から学ぶのである。われわれは、この外在的な物体をこの感覚の原因と見なし感覚と外在的な物体が、それによってこの感覚を産出する機能と両者を同じ語で、呼ぶのである。だがしかし、花の臭いは、花の内にあると言うときそのことでわれわれが意味することは、花そのものが我々の感じる感覚を感じると言うことではなく、花は鼻孔の内と鼻孔のなかで感じる知覚の原理のうちにこの感覚を、喚起する機能をもっている。感覚を喚起する機能とは、こうして同じ語によって指示されるにも係わらずこの両義性のために、われわれの自然的な嗅覚の機能で感じ取るのである。

[引用文献・注]
(1)アダム・スミス『哲学・技術・想像力』佐々木健訳、勁草書房、1994年、p.143
(2)同上書、p.163(3)同上書、p.143
(4)同上書、p.155(5)同上書、p.153
(6)同上書、p.154




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