大震災を乗り越えて
文化情報分野 郡司 郁
記憶が曖昧になってしまいましたが、2011年3月5日に後期課程の合格発表があり、7日には新年度の転勤の内示、そして11日の午後に地震がきたのです。ですから、私の総合社会情報研究科での研究生活は震災と自主避難生活とともに始まったようなものでした。
保育園にいた娘を連れて自宅に帰った途端に揺れはきました。揺れはしだいに激しくなり、全く立ってはいられませんでした。唯一できたことは、落下物に当たってはいけないと思い、娘を傍の押し入れの中に押し込めたことでした。あとはただ、部屋のシャンデリアが天井にぶつかるほどの勢いで左右に激しく揺れている光景を恐い思いで眺めながら、キッチンの方で繰り返し響いてくるガッシャーン、ガッシャーンと食器が割れる音を聞いているだけでした。
その後余震が続く中、自宅から5キロほど離れた小学校へ車で息子を迎えに行き、帰りに何か少しでも食べ物を買おうとスーパーやコンビニに立ち寄りましたが、既に食料品は買い尽くされて店内には何も残ってない状態でした。途中、住宅の塀は崩れ、マンホールは隆起し、中には電柱が倒れかかっているところもあり、今思えばよく車を運転できたものだと思います。
夕方、近所の小学校に避難しましたが、頻繁に起きるひどい余震と雪のちらつく寒さのため体育館で過ごすことができずに、結局真っ暗な自宅に戻りました。電気、ガス、水道すべてが止まっていましたが、幸いにも奥にしまっておいた石油ストーブで暖をとることができました。
しかし本当の困難さは翌日からでした。近くの給水所から帰ると、母は私に「原発爆発したって。なんで3時間も水汲みに外にいたのよ!」と言いました。私は少しの間言われたことの意味が理解できませんでした。それは、私の頭の中に「原発」という言葉は全くインプットされていなかったからでした。ましてや「原発」と「爆発」という言葉が繋がるのには若干時間がかかりました。それほど、福島県に生まれ育っていながらも生活の中に「原発」という言葉が登場することはなかったのです。おそらく、福島に住む人々の多くは私と同じだったかもしれません。
しかし、間もなくして繋がらなかった携帯電話が通じるようになり、息子の友人のママたちからメールで様々な情報が入りはじめると、大変なことが起きたのだと実感し始めました。広島、長崎、チェルノブイリの事故、どれも一般的知識としてはありましたが、自分たちに振りかかるとは思いもよりませんでした。子供を連れて県外の実家や親戚の家に行く友人たちもいれば、遠くに親戚がいない友人はホテルや旅館に行く人もいました。私は子供二人と近くに住んでいた両親を連れて、沖縄の兄のところへ行くことになり、どうにか辿り着くことができました。他の友人たちも皆そうでしたが、夫は仕事を離れるわけにはいかず自宅に残っていました。
こんな状況であったので、大学院入学の手続きをするのは無理かもしれないと思い始めていました。というのは、それまで高校教員として働いていましたが、ライフラインが止まる生活を経験し、原発事故という状況の中、幼い子供たちと老いた両親の世話をするには自分は退職せざるを得ないと考えていたこともあります。しかし何より、先の生活が見通せない中で、研究することに一瞬価値を見出せない心境になっていたというところが本音でした。3月初めに合格の知らせを恩師から聞いて喜んでいたのも束の間、その月の下旬には大学院での研究が遠のいてしまっていたのです。
しかしそんな時にいただいた竹野先生からの電話は大変有難いものでした。とにかく、大変な状況ではあるけれどもせっかく合格したのだから入学してとりあえず研究をしてみなさい、という内容の電話でした。地震、原発事故、沖縄への一時避難と生活が予想を越えて目まぐるしく変化する中で、一人研究に対する気持ちに後ろ向きになっていましたが、電話で先生のお言葉を聞き、私は勇気づけられ、人生進むしかないのだなという前向きな気持ちに切り換えることができたのです。こうして私はようやく博士後期課程のスタートを切ることができたのです。
入学後も生活がすぐに落ち着いたわけではありませんでした。4月に沖縄から福島の自宅に戻ったものの、自宅は窓も開けられず、換気扇も回せず、庭があっても草も木も土も触ってはダメよと子供たちに言い聞かせる生活でした。もちろん公的には「大丈夫な放射線量レベルです」と言われていましたが、簡易的なガイガーカウンターを自前で購入し、家の周囲や生活空間を測定し、せっせと飲料水を箱で購入する毎日でした。とうとう7月には息子を山形の小学校へと転校させ山形での母子避難生活を始めるに至り、それと同時に私の博士論文執筆へ向けての道のりもいよいよ始まったのです。
竹野先生から何度もお聞きしていたとおり、博士後期課程はかなり険しい道のりでした。電子紀要への投稿、学外の学会誌への投稿など、なかなか時間的余裕をもって仕上げていくことができずに締め切りに追われてばかりいたように思います。また中間発表会や学会での発表などでの緊張感や挫折感をも経験し、学年が進むにつれて、研究していくということ、研究者になるということとはこういうことなのだなと肌で感じ、「研究者って大変だ」と思ったのも事実です。もちろん、自分の関心あるテーマを追求していくという他では得られない知的な喜びがベースにはありますが、それだけではありません。研究の厳しさや孤独といった側面をはじめて感じることができたのも、この博士論文執筆の期間においてでした。研究とは楽しいだけではない、それでも研究していくという覚悟を決めるという重要な期間であったように思います。
そのことを思い知らされるもう一つの出来事がありました。それは3年目で博士論文合格とはならずに、もう1年延長して論文に取り組むことになったことでした。論文の主なテーマはシェイクスピア悲劇の女性たちとキリスト教でしたが、4年目のときはいっそう頭を悩ませて、どうやってオリジナリティーを出すのか、より良い論文にするにはどうしたらよいのかと四苦八苦しました。竹野先生にも何度もご指導いただきながら、シェイクスピアの悲劇だけではなく新たに喜劇をも研究対象として加え、さらにキリスト教的検証もより詳細にし、題名を「シェイクスピア劇の女性たちにおけるキリスト教的描出の様相」とすることにしました。そしてようやく結論の方向性が見えてきた時、すでに夏休みも間近になっていました。最後の2ヶ月は一心不乱にパソコンに向かい何とか博士論文を提出できたわけですが、未熟ながらも論文執筆をやり遂げることができたのは、折に触れていただいた竹野先生の励ましの言葉があったからこそに他なりません。
このように入学から修了までの4年間、私は人生の紆余曲折を経験し、同時に常に論文締め切りに追われていましたが、それでも私にとって博士論文執筆に向かって進んだこの4年間は、研究することの充足感と覚悟を考えることのできる意義深い充実した期間だったというのが率直な感想です。そして、他の修了生方も言っているように、博士論文執筆を終えて修了した今、ようやく研究生活のスタートラインに立ったと感じているところです。3月25日の学位記授与式で階戸先生が言われたように、「ネクスト、ワン」を求めてさらなる研究をし続けていきたいといと思いを新たにしています。
そしてこの博士論文奮戦記を書きながらもう一つ気づいたことは、論文執筆に最も必要なことは「諦めない」という気持ちの強さかもしれません。私の場合、研究一本に没頭できたわけではなく、諦めそうになったこともありました。しかし誰しも、研究のことだけを考えて生活できるとは限りません。人生があって、生活があって、その上での研究なのだとしたら、困難に遭遇しても諦めずに工夫しながら柔軟にやり続けることが大事なことなのではないか、と思えてくるのです。研究とは覚悟をもって諦めずにやり続けること、修了して早や半年が経とうとしていますが、この博士論文奮戦記を書きながら改めて気づいたことです。
最後になりましたが、入学から竹野先生には大変お世話になりました。心から感謝申しあげます。また、松岡先生や眞邉先生をはじめ多くの先生方には中間発表会など折に触れてご助言をいただき大変有難うございました。先生方のお言葉を噛みしめながら、また研究をしたいと思いを新たにしているところです。