アダム・スミスの哲学論考

人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司

 一般に哲学の発生は、紀元前6世紀頃のギリシャの植民地であるミレトスであるとされている。そうした哲学の起源についてアダム・スミス(1723―1790)は「法の秩序と治安が確立される以前の初期の時代の社会においては、人類は見かけ上どう見てもばらばらな自然の諸現象を、結び付ける出来事の隠された諸連鎖を探り出そうとする好奇心ないし、探究心をほとんどもたない。状況次第の不安定な生存を強いられ、自分の想像力に対して自然という劇場を一層内的な連関のある、景観たらしめること以上には何の目的にも役立たないものを、探り出して楽しみたい気持ちを抱かない」(1)と述べている。このようなことは、比較的繋がりのない現象が事物の行程に現れ人々を、困惑させるがそれらの多くはまったく古代人の関心を捉えることには、ならないのである。不規則的な諸事象では、その壮大な現象を看過するはずがないような大規模なものとなれば、驚嘆の念を呼び起こすのである。月食・雷鳴・稲妻などの気象現象は、規模の雄大さのため自然に人々を威圧し彼らは恐れにも似た愚敬の念をもって、それらに目を見張るのである。

 スミスは「それらをめぐる一切のことに関する彼の未経験と不安、それらはいかにして生起したのか、これからどうなるのか、それらに先んじて何が起こったのか、それらに後続して何が生起することになるのか、ということに関して経験がなく不安がつのることのために彼の感情は苛立ち激化して恐れと驚愕の狼狽とに変わる」(2)としたのである。われわれの情念は、すべて例外なく自己を正当化するものであって、即ち情念自身を正当なものと認める臆見的な思念を我々に、示唆するものである。それ故に、それらの現象は、人々を怖がらせるにつけその現象をめぐって人々はそれらの現象を、彼らにとってますます恐怖をもって向き合うべき対象へと、転じ得るものであればすべてを信じたい方向に、傾くのである。われわれは、こう思い描くがそれら異常な現象の目に見えないが知性を具えた、いくつかの原因から生じる。この異常な現象は、これら存在者の復讐の念と不興を表示する符号であるかそれから生み出された、結果であるかである。

 スミスによると「こうした思念こそ、他のすべての思念にまして恐怖の情念を強める力を持つのであり、それゆえ、彼はこうした思念を最も抱きがちである。しかも、おじけづいて臆病な態度をとるいくじなさは、未開の状態にある人間にとって極めて自然であり、彼がまたそうした思念へといよいよ彼を仕向ける」(3)のである。そこで彼らは、社会的な法によって保護されず身の危険にさらされ無防備であって、あらゆる折に自分の弱さを感じるので自分の強さと安定を、感じる機会などない。だがしかし、自然の不規則的な現象は、ことごとくこのように愚怖すべき怖い類のものばかりであるとは、限らないのである。それらのうちには、申し分なく美しく快いものもある。それ故に、先に述べたのと同じ心の無能と無力のためには、これらの現象は情愛と安らかな充足感とをもってさらに、我をも忘れんばかりの感謝の念を以て快感を惹き起こす原因となるものは、何でもわれわれの自然本性からして感謝の念を、呼び起こすからである。

 スミスによれば「自然の現象のうちのいくつかが彼に抱かせる尊敬の念は、これらの現象は尊敬と感謝の適正な対象であり、それゆえ、知性を具えたいくつかの存在者たち、しかも、彼らはこの二つの感情を外へと表わした諸表現を悦ぶ存在者たちである」(4)としたのである。それ故に、古代人にあっては、自然の事物はことごとく自然の事物は押しなべて美しいか壮大であって、有用であるか有害でありそうであることによって、人々の注意を引きつけるのに十分なほど顧慮するに、値するものである。しかも、すべての事物の作用は、完璧に規則的であるわけではないから何か目に見えない企みを抱いた、機能によって作動すると考えられるのである。さらにスミスは「火は燃え、水は気分を爽快にし、重い物体は下降し、軽い方の物質は上昇する。それらの本性に従って必然的に、そうならずにいないのである」(5)としている。そこでは、こうした事柄に介入することに使われるのではないかと、懸念されることもない。だがしかし、雷鳴・稲妻・暴風雨や日差し等そうした不規則的な出来事は、自然的な好意と不興に帰せられるのである。

 そこにおいては、ひとり人間のみが望みを抱いた機能を有する者で、古代人らがよく知っていた唯一の存在者であり、その人間は自然の出来事がそのまま放置されれば、辿るであろうと思われる行程を停止するか、変更するかそのいずれかのためにしか能動的に、行動することができない。古代人が想像して思い描いたものは、知ることのなかった人間以外の知性を具えた例の存在者たちは、同じように行動するものと自らひとりでに進行する事物の行程を、ひたすら支えることにかかりきるのではなく当の行程を停止し、これに立ちはだかりこれを乱そうとして、行動するものと考えられた。しかし、法が秩序と治安を確立したことは、生存条件も安定してくると人類の好奇心や探究心が増大し、諸々の恐怖は減少するのである。こうして人類は、閑暇を享受するようになり閑暇のおかげで人類は以前にもまして、注意深く自然の現象に視線を向け自然を、観察するようになる。さらにそこでは、不規則的な出来事でももっと注視して観察しそれらすべてを、結び付ける連鎖となるものを知りたいという欲求を、ますます抱くようになる。

 古代の論理学についてスミスは、このような哲学の発祥と起源のうちに「ある元素から他の元素への変質であれ、ある複合的な物体からこの物体を構成している諸元素か、他の複合的な物体かのいずれかへの変質であれ、およそあらゆる変質において、旧い種と新しい種との両方のうちに、何か同じものと、何か異なったものとがあることは(古代の哲学者たちにとって)明白であるように思われた。火が空気に、あるいは水が地に変えられるとき、この空気の、そして、この地の素材ないし基底的質料は以前の火、あるいは水のそれと明白に同じである」(6)と述べている。しかし、これらの元素を示すのは、新しい物体の本性と形相はすっかり異なっているのである。同じようなことは、新鮮な緑色の芳香を放つ花が何本もまとめて捨てられ山のように、重ねておかれると花はほどなくして本性をすっかり変え、腐ってむかつくような悪臭を放ち始め分解して雑然とした、花が変化した肥料の塊となるのである。こうなると花の塊は、その可感的な性質とこれが及ぼす結果といずれの点において花が前に呈していた、美しい外観との類似性はない。

 スミスによれば「形相がどんなに異なっていようとも、花と肥料の基底的質料は、この場合にも明らかに同じである。それゆえ、単純な物体であれ混合的な物体であれ、すべての物体には二つの構成原理があって、この二つが結合した合成体が当の特定の物体の全本性を構成することは明白である。第一のものは、物体が作られる基底となる素材ないし質料である。第二のものは、当の物体の形相、個別的本質」(7)なのである。このようなものは、すべての物体において同じであると思われる何らかの種である形相や、本質的な形相と合体することによって限定される。性質的に規定され可感的にされるまでは、どんな種類の性質も機能ももたずまったく活動的でないものであり、諸感官のどれによっても知覚が不可能であるように、思われるのである。物体の性質と機能は、すべて当の物体の種ないし本質的な形相に基づいている、ものと思われる。火・空気・地・水などは、それぞれの結果を産み出すことができるようにするのは、これらの元素の素材ないし質料ではなくてそれぞれの元素に固有のものである、本質的な形相なのである。

 スミスは「火は火を火たらしめている当のものによって火の諸結果を産み出し、空気は空気を空気たらしめている当のものによって空気の諸結果を産み出すこと、また、同様に、他のすべての単純物体および混合物体も、それらをこれこれの規定された物体として構成する当のものによって、すなわち、それらの種別的本質ないし本質的形相によって、それぞれの諸結果を産み出すに違いないことは明白であるように思われるからである」(8)と述べている。このような元素に見られる物質的なものは、質料ではなく固有な形相である。しかし、物質的な世界においては、一切の変化や変転が生ずるのは物体が互いに他に及ぼす、結果からである。それ故に、こうした結果は、当の物体の種別的な本質に基づいているのであるから、それらの事物の種別的な本質が何処に存するかを決定して、その本質からどんな変化や変転が可能性として予期されるかを、予見することができるのである。このようなことは、哲学の世界において生起する様々に異なった変化とすべてを、結び付けるようにと努める学問の任務で、なければならないのである。

 スミスによると「個別的な事物の種別的本質は個物としての当の事物に固有のものではなく、当の事物ならびに同じ種類の他のすべての事物に共通するものである。こうした次第では、いま私の前にある水の種別的本質はその水がこれこれの特定の温度で火によって熱せられて、あるいは空気によって冷やされることに存するのでも、その水がこれこれの形態をとった、あるいはこれこれの大きさの容器に入れられていることに存するのでもない」(9)としたのである。こうしたことは、水の一般的な本性によって外在的で無関係であるような付随的な状況であり、この水としての結果どれひとつとして基づくことのない偶有的な、事情なのである。それ故に哲学は、水の一般的な本性を考察するに当たってこの水に固有なものと、個々の個別的な事情には留意せずにすべての水に共通であるような、諸々の事柄に自己を限定する。たとえば、その探究が前進するなかでは、哲学がそうした個々の個別的な偶有的な事情によって様態を、限定された水の本性を考察するところまで下降して、くることになる。このような哲学は、なおこの容器に入れられ火によってこのように熱せられるこの水を考察し、その本質を捉えるのである。

[引用文献・注]
(1)アダム・スミス『哲学・技術・想像力』佐々木健訳、勁草書房、1994年、p.27
(2)同上書、p.28 (3)同上書、p.28 (4)同上書、p.29 (5)同上書、p.30
(6)同上書、p.124(7)同上書、p.124(8)同上書、p.125(9)同上書、p.125
[参考文献] アダム・スミス『国富論』玉野・田添・大河内訳、中央公論社、昭和43年




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