大いなる(?)学問渉猟の果てに

国際情報専攻 教員 小林 世治

 今年4月から本研究科・国際情報専攻(経営・経済コース)の担当教員として参りました。前任のグローバル・ビジネス研究科(3月末で16年間の幕を閉じる)での所属は、「中小企業&ベンチャー・ビジネス経営コース」です。しかし元々は国際経済、とくに多国籍企業の実証研究から学究生活をスタートし、主として製造業の国際展開(グローバル産業)と、産業集積(サプライヤー)を調査対象としてきました。
 その後の転機には2つあって、1つは「ビジネス・エコノミックス」――当時の担当科目――のベースである「応用ミクロ」を、遅まきながら勉強したことです。その先駆としての取引コスト論を、多国籍企業の理論的基礎として追いかけてきましたが、1990年代以降の「応用ミクロ」の発展とともに、その全体像を見通せるようになりました。もう1つは、外部出講先(経済学部生対象)において、開発経済学のゼミやはては発達心理学の卒論指導をしたおかげで、視野が広がったことです。そうすることで、「社会経済学」的な枠組み(ポランニーなど)や、より広く自然科学・人文科学からのアプローチの必要性を、強く意識するようになりました。ここでお伝えするのは、主として後者の方です。

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 多国籍企業論の出発点に「内部化」説があり、その基礎に取引コスト論があることは、私の「多国籍企業論特講」を受ける際には、ぜひ勉強してほしいのですが、ここでは省略します。もう1つの担当科目「中小企業論特講」に関して、日本の中小企業研究がこれまで中心的に扱ってきた「下請問題」を、私も実証・理論の両側面で研究してきました。そこで最近、「社会経済学」アプローチの必要性を感じるようになりました。
 下請け制度が往々にして公正取引上の問題、具体的には買いたたき・受け取り拒否・支払遅延といった「下請いじめ」を引き起こし、今日でも根絶できていないことは、よく知られています。さらに、情報制作物(ソフトウェアや映像コンテンツなど)やコンビニエンス・ストアに代表されるフランチャイズ・チェーンの問題など、新分野へも広がりを見せているところです。日本にはいわゆる「下請法」があり、こうした問題の法的規制を図っていますが、もともと限界をもったものでした。自由市場経済において、個々の取引は「私的自治」に服し、契約に至ったのには双方の合意があったから、という建前です。「下請法」を補完法・特別法とし、こうした市場秩序の維持を目的とする独禁法――「経済法」の中核――も、本来は、市場を構成するさまざまな構成員間の格差是正をめざす、「社会法」的な側面をもっていたのですが、今日では、上記のような市場における私的自治の形成に重点を移しています。「市場原理主義」と呼ばれるものですが、それには経済学の伝統的な規範理論および最近の「応用ミクロ」の考えが影響しています。
 経済学には規範理論として、市場・自由競争による効率と社会利益を両立させる、「厚生経済学」という分野があります。その代表的な考えが「パレート効率」と呼ばれるもので、他者の既存利益を侵さないぎりぎりまで、資源配分・消費することが効率的=効用最大であるとします。これを公共哲学では「帰結主義・功利主義」と呼び、功利的な動機に基づき、効用という結果のみに着目する考え方です。最近の「応用ミクロ」になると、市場の秩序形成には「自生的」な、つまり取引プレイヤーの相互作用(ゲーム理論)によって、制度設計がなされると考えます。これも「帰結主義・功利主義」であって、むしろ厚生経済学よりさらに、規範そのものの形成や維持について語ることが少ない、と感じられます。
 一方、より広く社会における「信頼」(山岸俊男)や、それを担う「社会関係資本」(パットナム)の役割を重視する、社会心理学・政治学の考えに、私は注目しました。いずれも、経済システムがその時々の社会に「埋め込まれる」という、ポランニーを始祖とする社会経済学の考えに親和的です。それらによって社会規範がいったん成立すれば、「応用ミクロ」でいう取引コストの節約はもちろん、いざという時の対応能力(レジリエンス)の向上も期待できるでしょう。
 しかし私の関心はさらにその先にあります。確かにそれらは政府規制と区別されますが、中央・地方を問わず政府の果たす役割はないのか、社会規範がそれとどのような照応・発展関係にあるのか、ということです。社会規範と政府、また司法の役割です。これには、「法と経済学」や最近の「リバタリアン・パターナリズム」の議論が関連しますが、省略します。

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 これまで、経済学は原子論的個人主義に立ち、個人から出発して社会構成を論じてきました。そして、個人の私益は市場をつうじて社会の公益につながる、と古典派いらい考えてきました。今日では市場以外に、私益を公益に結びつける広義の「制度」があるという、新制度派の議論も有力となっていますが、次の点で共通です。つまり、「市民社会」であれ「企業社会」であれ、その時々の政治・経済・社会そのものが、そうしたシステムを生み出したということです。つまり、今日の経済学が考える個人とは、利己心=私益追求のみを動因とする存在なのです。しかし、古典派経済学の始祖アダム・スミスは、出発点に個人の「共感能力」を置いて、それに基づく人々(市場では「商人」)の相互作用をつうじ、「神の見えざる手」による調和が導かれるとしました。はたしてスミスのように、市場をふくむ社会総体を維持・安定させる根拠が、人間の「生得的」な心性に存在しないのか、上記の社会規範の存在理由を考えるうち疑問に思いました。確かに社会規範は、家庭・学校・地域のさまざまな社会レベルで教育し習得されますが、それを受け入れる基盤=個人レベルでは利己心と同一なのか、と。
 これまで、アリなどの社会動物が群れの中で示す協力行動は、いわゆる「相互利他主義」、つまり他人の利益に資する行動は自らそうした利益を受ける機会を増やすという、非常に限られた目的によって説明されてきました(内藤淳『進化倫理学入門』光文社新書2009年)。しかし私は、生物進化と脳神経科学についての最新の研究から、道徳なり公共善を求める心性が、人間には生得的に備わっている、ないし脳に定着してきたという可能性を感じています――以下は素人理解で怪しいのですが。これまでダーウィン進化論によれば、自然淘汰によって獲得した形質は、遺伝子(DNA)自体が変化しない限り、次世代に伝えられないとしてきましたが、「DNAによらない遺伝」の存在が認められ、形質遺伝の可能性も論じられるようになった、と思います(太田邦史『エピゲノムと生命』講談社ブルーバックス2013年)。もちろんそのプロセスは、社会・文化との相互作用によって起動・発展し、また脳そのものの発達(「社会脳」の存在)にも影響を及ぼし、両者の「共進化」として表れるのでしょう。こうした理解が間違っていないか、専門家の教えを乞いたいのですが、人間の人文的要素についても――社会動物としての共通性から――同じく自然的基盤に支えられている、と考えています(戸田山和久『哲学入門』ちくま新書2014年)。

 長々と書いてきましたが、これは大いなる「寄り道」であって、これから研究者を志し、また現場での実践に結びつけようとする皆さんにとって、余りお薦めできないやり方です。そうしたらどんな目に合うか、反面教師の役は果たせるかもしれませんが…。ともかく、私の学究生活の「中締め」として、人文・社会・自然の3科学を「綜合」ないし「クロス・オーバー」できる場所、本研究科に来た幸せを述べて、自己紹介とさせていただきます。



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