対立と矛盾の弁証法(20)
矛盾の交互作用と発展

人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司

 このように対立は、統一であるから闘争は互いに対立している二側面がこの対立そのものの存否をめぐって抗争である。この対立と矛盾は、これが対立の否定と矛盾の否定のちがいである。見田石介は「この規定は、矛盾と単なる対立との区別は、単なる対立の否定が、たんに観念的な否定に過ぎず、実際は二つのものの相互補足性と調和を言うものに過ぎなかったが、矛盾における否定は現実的な否定、闘争であって、これがその対立そのものをめぐっての闘争であることを、よく示している」(29)だから、それと同時にこの現実的な否定関係は、決して偶然的なものでも無方向に動揺するものでもなく、自体の本性によって制約されて現在の統一の破壊とその事物の解消にまで発展するものである。こうした事実は、単に現実的な否定としての闘争があるだけでは真の矛盾ではない。対立的な二側面の一方は、この統一を破壊する方向に働き他方はこれを統一に引き戻す方向に働き、そこに統一をめぐっての闘争を許容するものであったが、それは偶然的なもので一定の傾向を持たないものと見られたから、矛盾ではなかったのである。

 そこで「矛盾の中心をなす闘争とは、対立的二側面が、その対立そのものをめぐって、これを維持する力とそれを破壊する力として互いに現実的に対立し、当面、前者は主要な側面、後者が主要でない側面をなしているが、必然的にこの関係が逆転するような関係である」(30)矛盾における抗争は、このように現在の統一の破壊に必然的に導くような抗争であるが、これが階級的な矛盾や剰余価値の生産を目的とする資本制的な生産様式における生産と消費の関係を、捉えることなのである。このような問題は、生産関係などの間にだけ限られたものでなく現実の事物において一般的であることの理由がある。それらのことは、統一という概念そのもののうちに問題があると見られるのである。二つのものの統一ということは、その二つのものの相対的な自立性と発展の独立性を必然とするものであることを捉えることである。そのための二つのものは、直接的には不統一であって統一が一つの傾向としてある。しかし、さらに、探求するならば二つのものは、統一されていて互いに一方の発展は他方の発展を必然としているのである。

 その内実は、他方の発展なしにはその発展はありえないものである。しかし、他方の発展は、その自立性の発展であり二つのものの不一致と抗争関係の発展に他ならない。だから、事物の発展は、その否定者を単に無方向に偶然的にではなく傾向的で必然的なものとして、発展させるのであって統一は統一の破壊を傾向的で必然的なものとして、内包しているのである。具体的事物における統一とは、そうした統一に他ならない。たとえば、生産と消費は、統一をなしていて消費の欲望によって生産が発展させられるが生産の発展がまた欲望を発展させ創造するということは、両者の統一を言うものである。だがしかし、同時にそのことは、二つのものが統一のなかにあって自立性を持っており、二つの間の不一致が生まれそれぞれ独自の発展を、とげることになる。このことは、これまでの統一と違った新しい統一を求めることやその不一致と抗争が発展の原動力であることをも、言っているのである。だから「生産と消費の矛盾は、資本制的な生産様式では特殊な形態と特殊な激しさを持って出現するがどんな生産力と生産関係の照応ということも同じようにその照応の偶然性と不照応の必然性を含んでいる」(31)のである。

 このように統一と対立は、統一と抗争が不可分であるように統一とその破壊は不可分の概念である。具体的な事物の関係においては、この二つの面を共に見ることでその事物の本姓としての矛盾を捉えたことになり、それがどの方向に転化するかを知ることが出来るのである。この対立の立場は、統一の破壊の面を捨象したものであり反対に抗争の必然性の面だけを見るのも一つの抽象的な態度である。階級社会における根本的な敵対関係を明らかにすることは、社会的な矛盾を捉えるための最も重要な一歩である。それ事態がすすむ方向と過程は、二つの側面の相互転化の必然性を示しえないのであるからそれは対立であるが矛盾とはいえないものである。だから「対立は一般的にものの互いに否定しあうような区別として概括されるが、それらに単に観念的な対立と現実的ではあるが、たんに統一だけを見る抽象的対立と、矛盾の三つの区別がある」(32)ことがわかる。だから、われわれは、一方では、矛盾を単なる対立に解消することや対立的認識の独自の意義を見落としてはならない。

 矛盾を捉えるには、なぜ抽象的で対立的な把握が独自の意義をもつかは一見しがたいことのように見えるものである。たとえば、原因と結果というカテゴリーは、単なる対立の立場かあるいはそれ以下の立場でのカテゴリーである。しかし、現実の諸条件の不均等発展とは、とくに自然現象に限らず社会現象においても永い期間にわたってあまり目立たない場合が少なくないのである。こうした領域においては、このようなカテゴリーも充分な問いに事物の本姓をよく捉えるものとして意義をもっている。しかし、対立の立場は、その抽象性のためにかえって独自の役割を果たしている。この対立的な統一は、それを一般的に言い表した連関の法則が独自の意義を持っていて、矛盾の法則のうちに解消されるものでなくそれと並べて弁証法の二つの方面を表すものである、ということには理由がある。個々の事物は、外部の他の多くの事物との不可分の連関のもとにおかれていると同時に、その内部に多くの側面を持ちしたがって多くの矛盾をもっている。

 見田石介は「単に事物の矛盾的な把握ということは、それだけでは、それらのあいだの連関についてはまだ何も言うものでないからである。矛盾論もそのはじめに弁証法を連関と運動において物を捉えるものだと述べているように、それはけっして何もかも矛盾に解消してしまったものではない」(33)と述べている。矛盾の関連を見ることは、主要な矛盾と副次的な矛盾を言ったものに他ならないのである。このことは、これが一般に矛盾を対立に解消することが許されないと同時に単なる対立の立場の独自性を見失うことも許されないのである。遡って非本質的な区別としての差異は、差異に対する対立と矛盾の関係についての本質的な区別としての対立にまで深めねばならぬものである。こうした差異は、本質において対立である。しかし、見られるようにすべての対立は、矛盾ではないのであるから差異は本質において矛盾であるということはできない。

 たとえば、プラスとマイナスとか差異的な区別は、矛盾的な区別にまで深めようとするのは不可能なことであって、それは観念的な否定と現実的な否定を区別しえない観念論の立場である。資本の根本矛盾は、それが剰余価値の私的取得を唯一の目的としながら同時にそれを無視することに繋がっているという関係なのである。また、社会的な生産力の発展は、その目的実現の唯一の方法としながらもそうすることが同時にそれを妨げるという関係にある。資本を措定することは、資本を生み出すそれ自身の存立を廃棄する前提となり条件となる様な関係なのである。そのことの意味は、肯定の前提や条件と否定の前提と条件とが別々のものでなく同時に同一の関係で同一の主体が現実の具体的な資本の本性を規定するのである。肯定の条件と否定の条件は、資本の外にそれとは別の他の何かのうちに離れてあるのではない。

 その生成の条件や死滅の条件は、資本そのものの内にその本性と同時に不可分に内包されているのである。われわれは、それらがこのような関係にあるからこそ資本の矛盾は本性からして論理的な矛盾そのものと捉えるのである。われわれは、一般にすべて現実の事物がそれ自身にとどまり得ない矛盾物であるのは生きた現実をその目的達成のためにその目的の達成を疎外するような手段とし、その弱化と死滅の条件となるものを捉えるのである。その強化と発展のための条件としては、統一しているものが単に自立しているだけでなく互いに排除しあっていることを、その本性としているからである。このようなことは、われわれの言う事物の本性としての論理的矛盾の実際的な内容である。論理的矛盾を本性とする資本は、系統的に捉えてみるとそうした相対的にせよ一定の安定性と自立性を持って発展するのである。その自己関係は、自己同一性が保たれその自立的な発展が促されるのである。

 そこにわれわれは、資本の本性と事物一般の本性を規定する同一律と無矛盾律の作用を捉えることができる。われわれは、資本の社会的な生産力と私的な取得形態との間には単に相互排除の関係だけでなく、互いに一方は他方を不可欠の条件としまた一方の発展は他方の発展を促すという相互前提的な反省関係が、作用しているのである。両極の二つの側面を合わせて一つの主体となるものは、資本の発展を規定するものである。こうした反省関係は、必然こそ資本の自己維持を可能にしてその自立的な発展を促すものであり、論理的矛盾と共に資本の本性を一面において規定し、現実にそこに働く同一律と無矛盾律に他ならないと、捉えるのである。それにも関わらず資本の唯一の目的は、私的取得の拡大に不可欠な社会的な生産力の発展が同時に、その目的実現を疎外する要因ともなる。この二つのものは、単に相互依存の関係にあるだけでなくその関係の発展が同時に他面ではそれらの相互排除の関係の発展ともなるから、資本は一つの自己矛盾なのである。


【引用文献】
 (29) 見田石介著『見田石介著作集』1巻「対立と矛盾」大月書店、1976年p.50
 (30) 同上書、p.52
 (31) 同上書、p.53
 (32) 同上書、p.53
 (33) 同上書、p.54



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