ゴータマ・ブッダの実践哲学

人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司

 シャカの教えの出発点となったものは、中道の宣言である。シャカは、かって出家したときに人間の苦に直面してこれを徹底的に追及するため、快楽の生活を捨てたのである。だがしかし、沙門に身をやつしたシャカは、苦しい修行の生活を送りながらついに自ら人間としての問題の解決には、至らなかったのである。その修行の結果彼が到達したのは、快楽に偏ることではなく苦行に偏することのない中道を進むべきである、としたのである。こうした快と苦は、人生の両極端であるからそのいずれに偏らないところに、人生の真の生き方があるとしたのである。だがしかし、われわれ人間が生きてゆくうえで快楽にも苦行にも偏らない中道を進むには、厳しい実践が必要とされたのである。そこにおいては、どのような心持でまた如何なる態度で人生に臨むかについて、それは八つの正しい道である[八正道]を実践することが、必要とされたのである。漢訳経典では、この八正道の内容について正見=[正しくものをみること]であり、正思=[正しく思惟すること]であって、正語=[正しく話すこと]、正業=[正しく行動すること]、正命=[正しく生活すること]、正精進=[正しく努力すること]、正念=[正しく心をめぐらすこと]、正定=[正しく心をおくこと]にある、と詳述されているものである。

 このような四諦八正道のうちに「仏陀は自らの教えを中道と呼んだ。唯これのみが人を解脱に導く」1のである。その教えは「四つの聖なる真理[四聖諦]と八つの聖なる道[八正道]からなっている。四つの聖なる真理とは、第一に、苦悩とは何であるかについての真理[苦諦]。即ち、出生、老、病、死は、苦悩である。好ましくないものに出会うのは、苦悩であり愛するものと別れるのも苦悩である。望みの叶わないのは、苦悩である。第二に、苦悩は何によって起こったかについての真理[集諦]。苦悩は、渇愛、すなわち、本体でなく、決して完全な満足の得られないこの世の事に悦び、これに楽しみを見出す欲望によって起こる。渇愛が輪廻の原因である。第三に、苦悩の滅却、即ち欲望をくまなく滅ぼし、欲望に何らの活動の余地も与えなくすることによって、渇愛を消滅させる真理[滅諦]。最後に、苦悩の滅却に至る道・方法についての真理[道諦]である」2と述べている。苦悩は、三つの特徴で示されそれらは悩みあるいは苦しみ・はかなさ・空しさである。このような苦悩は、生きとし生けるものが輪廻のなかを流転するという意味で、悲惨でありまたそのような状態を惹き起こす原因という意味でも、悲惨なものである。

 このような思想は、人間の生活態度の問題であり信仰体制を築き上げるために、人間が行動する実践的な項目である。さて、われわれは、人間生活を快苦いずれへも偏ることのない中道に保つためには、この人間生活のありのままの姿を捉えなければならない。そして、人生が幸福のうちに在るためには、日常的な変わりがない社会生活であるからそうした人間生活に障害となることが、起こらないことを願うのである。だがしかし、実際にわれわれ人間の生活は、生・老・病・死という苦に悩まされているのである。それだから、憎いものに合わねばならないのは、苦であり愛するものに別れるのも苦である。自ら求めるものが得られないのは、苦であり人間生活を構成している精神的で肉体的な要素は、すべて苦でないものはないのである。そこにおいて人間は、このような人生の苦と取り組みこれを解明して苦の問題を、解決するにはどうしたらよいかという問題が発生し、それを説明するのが四諦の思想なのである。この四諦の思想は、苦集滅道という四つの人生の在り方であるその真理諦を示すものであり、上述したような人生における苦とその原因とそれを取り除く態度であって、その苦を克服する四つの道なのである。

 このような思想は、人間の存在をすべて苦に取り巻かれているとする[苦諦]を把握し、それは一体どこにその原因があるのかを吟味し、何が苦を感じさせるものであるのかを捉えることで、このような苦によって集まるところの原因を考えるのが、[集諦]なのである。ところで、一切の存在が苦であるのは、人間の心のなかに様々な欲望が潜んでいるからである。そのなかには、感覚的な欲望もあれば生きたいと願う欲望もある。そこにおいては、逆に生きることを断絶したいという欲望もありこれらの欲望は、無限に続くのである。このような欲望は、人生の執着となり煩悩の炎となって燃えさかるから、それらは現実の人間生活の上に苦という形となって、現われるのである。こうした欲望は、限りがない故にそれが解決できない現実の世界は苦に、満ちていることになる。そこにおいては、苦の原因である欲望を取り除くことができたならば、人間生活におけるさまざまの願望を捨て去り滅ぼしさることが、できたとき人々は何ものへの執着もなくなり、苦は取り除かれるはずである。こうした[滅諦]は、このような真理を解明するものなのである。

 ところで、このような欲望を滅ぼし去ることは、中々容易なことではない。そのためには、欲望を克服するための正しい実践が必要とされる。そこにおいては、先に述べた八正道を行うことにあるとする[道諦]があり、こうしてはじめて快に偏らず苦に悩まず正しいものを、把握する知恵を得ることで無我の境地である涅槃寂静の世界に、到達することができるのである。人生の根本的な態度は、このように解明されることによって人間の幸福を求める道が、教示されたのである。人生の真層を正しく把握すると言うことの意味は、根本的にはこの人間存在の世界の在り方をどのよう捉えるか、と言うことである。こうした事柄は、世界観の問題であり同時に人間の在り方の問題でもある。このような仏教の世界観を、三法印とよんでいる。われわれ人間の世界を捉えるその思想は、諸行無常ということである。諸宗教で世界の在り方を捉えるには、さまざまの角度からの考察があるが仏教では世界を造物主によって、造られたものとは考えない。仏教の捉え方は、世界における一切の現象は因縁によって造られ常に生まれては、消えてゆく一つの流れを形成し一刻も同じところにとどまることは、ないとする思想なのである。

 そこにおいては、仏陀の実践哲学が導き出されるのである。四諦説の最後の道諦説は、悟りを得るための方法論であるからこれが具体的に展開されなければ、仏教徒は教説を理解することができても実践を会得することは、できないことになる。それらの事柄を、明らかにするのが八正道説である。このような教えは、人間の全身全霊の修業を八つに分けて説くものであって次のように分けて、見てゆくことができる。初めに理性の鍛錬を目指す三つの正しい道としては、正見・正思・正語という人間としてものの見方や考え方である世界観が語られている。そこでは、この順序も大切な点であるとされているから、まず語るという現代の風潮に対して大きな警告となる。それらの事柄は、まず対象である人間としての社会生活の在り方を見て次いで考えて、最後に語れとされている。その意志の鍛錬を目指す正しい道としては、正業・正命・正精進という人間としての実践的な行為が述べられている。それらの最後には、情緒の鍛錬を目指す二つの正しい道としての正念は、正しい精神に集中するためのものであるから正定に、正しい心の安定がある。こうした八正道は、人々の日常的な生活における倫理を目指したものである。

 仏教の教説では、この世界に生まれ出たものはそのままに存在することはなく、必ず滅び行くものとしている。このような諸現象は、常ならぬものなのである。この現実世界に恒常であるものは、一つもないという事実が人生における苦を導き出すのである。すべての現象が無常であることは、人間存在がなすべきところ苦に帰してしまうことになる。人々の楽しいことは、これを続けたいという人間の根本的な願いも常に変化するから、諸現象の前ではやがて苦となる。富に栄えた人も必ず衰えてゆき美貌の若さは、やがて老境が訪れてくる。これがこの世の実相であり人間存在の在り方である。そうした教説は、諸法無我でありその基底をなすものは仏教の根本をなす、真理である法なのである。このような法は、真理でありそれはまた色々の意味を備えているものであり、根本的に求めるものは永遠の真理をあらわす究極の境地であるが、ある場合には法則の意味に用いられる。そこでは、仏陀の教えそのものを指し法と呼ぶ場合もある。また、存在するものについては、これらの事柄を法という場合もある。いずれにしてもこうした法は、どの場合も根本真理ということを中心として相互に、関連し合っているのである。

 諸法無我の法は、存在するもの一般の事と考えられている。存在するものは、すべて無我であると言うことがこの考え方である。そうした人間の存在は、自分自身にとって正しい考えを極めるときその在り方が、諸行無常という境地に至ることになる。だから、人間存在は、流れゆく一つの現象と共にこの社会関係のすべてにおいて、常なるものとしては存在しないのである。ところが、こうした人間は、普通自分の存在にだけは確信を持っているのである。このような人間は、そのいずれにおいてもそこに人間存在を見ると考えているのだが、それは人間の迷いである。人間存在は、肉体のどの部分についてみても精神のどの作用についても、われという存在はないのである。やがて人間は、このような現象を把握することができればすべての人間的な、苦悩を脱して煩悩の燃え盛る火を消して理想的な境地に、達し得ることになる。これらの教えは、仏の最高の境地である涅槃にあるとされているものである。そこに至る思想は、人々が抱えている問題の解決策であり人間の幸福を捉えるものであるから、それは最高の理想的な境地なのである。そこにおいて宗教は、人間の本質である疎外において成立するという関係にある。そこでの仏教思想は、人間の主体性の自覚と人間的な主体制を貫く生命の普遍性を、自覚することにあるがこのような事柄は四諦八正道に見られた、主体的な人間の実践的な思想が薄められ非合理的なものを包含した、観念論的な仏教の思想が強調されたものである。


[引用文献]
 (1).J・コンダ『インド思想史』鎧 淳訳、中公文庫、1990年、p.95 
 (2).同上書、p.95
[参考文献]
 ・『ブッダ最後の旅』中村元訳、岩波文庫、2002年・三枝著『仏教入門』岩波新書、1990年
 ・岸本英夫編『世界の宗教』大明堂、平成13年・岸本英夫著『宗教学』大明堂、平成3年
 ・総解説『世界の宗教』自由国民社、1996年




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