対立と矛盾の弁証法(19)
矛盾と交互作用

人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司

 ヘーゲルによると「交互作用は完全に展開された因果関係であり、実際また反省は、因果性の見地の下に事物を考察することが、前に述べたような無限進行のために不十分であることがわかると、普通それへ迷路を求めるものである。例えば、人々が歴史を考察する場合、人々はまずある国民の性格および風習はその政体および法律の原因であるか、それとも逆に結果であるかというように問題を論じていき、それから性格と風習および政体と法律を交互作用の見地の下にすなわち、原因はそれが原因であるのと同じ関係において同時に結果であり、結果はそれが結果であるのと同じ関係において同時に原因でもある、という風に理解するにいたる」(22)と述べている。一般にある一つのものが現実的なものとしてあると言うことは、それを元として何か他のものに能動的に作用して結果を生むものである、という点にあるだろう。そして、この場合は、この作用を受け止めるものがなくては原因が結果を生むことはできない。また原因となるものは、必ずその作用を受けるものからそれに応じた一定の反作用を受けるこの関係が、交互作用なのである。

 たとえば、病院の廊下で車椅子に乗った人が手摺を使って壁伝いに前後に、移動することが出来るだろう。そして、力強く壁を手で押すことに寄って、反対方向の壁への力を得て反対の壁へ接近することが可能となる。つまり、手で壁を押す力が原因として能動的に作用し、その作用を受けた壁から反発力という反作用を受けて車椅子は、反対方向の壁に向かって接近するのである。この場合は、他に作用を及ぼす原因となっている現実的なものを、能動的な実体という言葉で表現し作用の受け手として、この能動的な実体から自立して存在する他の現実的なものを、受動的な実体と言うのである。だがしかし、能動的な実体は、受動的な実体から作用を受けて変化するから同時に受動的な、実体なのである。したがって、交互作用にあっては、この関係にある二つのものは区別されながらもその区別において同時に、同じ一つのものとしてある。そこにおいては、同一性と区別は共に含まれるという表裏一体の関係にある。そして、このような矛盾した関係については、区別されながらも対立物の一体性と交互作用として、表現されるのである。

 こうした認識では、交互作用の視点から現実的な物の間の同一性と必然性を、見たことにはなってもこの認識はどこまでいってもその根源的な原因を、捉えることはできない。そのことは、原因と結果を繰り返す循環論に陥るだけである。これが交互作用という認識の不十分な点である。そして、そこにおいては、現にあるものがやがて滅びるという死滅の必然性の側面については、充分に考察されてはいない。現実というのは、今それを現しているものとそれを否定するものとの二つの本質を、包含している。このような現実は、二つの本質のあいだの抗争を含んでいることによって新しい現実となる。この矛盾の関係は、前者の場合には対立は無頓着な関係であり後者の場合には、解消へと駆り立てる関係なのである。この定義に叶えさえすれば、すべての対立関係が矛盾という形をとると言うわけではない。諸々の現象のうちには、二つの対立的な側面や過程はそれが交互的な刺激という能動的な、関係のうちにはじめて矛盾となる。

 同じように矛盾は、それ自身のうちに対立の契機を含んでいる。こうした矛盾は、ともかく対立し合う両契機の或る一定の関係だからである。シュティーラーは「この矛盾の関係は、いっそう厳密には、対立物の一体性と交互作用として表現されるが、その場合にも、これら両契機は、様々の矛盾のうちで相異なった地位、部分的には零に帰すこともありうるような相異なった地位をもつ。それゆえに、諸現象の弁証法的矛盾と交互作用との間には或る密接な連関がある」(23)としている。ここにおいては、全くの同一性が問題になることを意味しているわけではない。すべての交互作用は、この連関を弁証法的な矛盾概念の基に包括することは決してできない。さらに彼な「社会的交互作用のうちには、矛盾という概念を当てはめられないように思えるものがある。たとえばマルクスは、信用と生産過程の発展との交互作用を追及したさい、全く正当にも交互作用という概念を使用したが、矛盾という概念を使用しなかった」(24)のである。交互作用の連関は、交互作用している諸現象が交互作用の連関を超えて初めて、弁証法的矛盾として規定される。

 交互作用の両極は、互いに反対し合っていると言うことでは充分ではなくその交互作用は一時的で、消滅的であることもある。したがって、弁証法的な矛盾は、初めは交互作用によってではなく交互作用をする一対の項の反対しあう根本的な、性質によって構成されるのである。或る見方では、この意味における弁証法的な矛盾を反対しあう両側面の能動的で、交互的な影響力によってそれ自身の自己否定へと駆り立てられる、対立物の強力な関係と定義したのである。このような定義は、弁証法的矛盾のうちに定義がただ限定つきでだけ妥当するような、タイプのものがあることを考慮していない。だから、シュティーラーは「これらのタイプのものを一緒に定義のうちに掴み込むためには、一般に、つねに異なった仕方で一体性と闘争とを実現するところの対立物の関係として矛盾を規定しなければならない」(25)のである。この場合には、或る関係のある特定の様相としての矛盾を無視し、交互に作用し合っている両対立要因の関係として、捉えることになる。

 そこでは、運動の矛盾と発展の矛盾とを区別できる。後者を特色付けているものは、そこでは一方の側面が新しい物の発展的な進歩の傾向を提示する、と言うことである。これに引き換え運動の矛盾のうちでは、両側面は同等な発展水準を持っていて新しいものと古いものとの交互作用と、抗争が展開される。両タイプの区別は、流動的であり運動の矛盾が発展の矛盾となることもあるし、また発展の矛盾は一定の条件の元ではそれに属するシステムの単純運動を、呼び起こすこともある。対立物の可動的な関係としては、矛盾の両タイプのうちにさらに立ち入った類型的な区別が、出現するのである。この場合に注視すべきは、カントが歴史のパラドックスと名づけた現象である。一般に資本は、われわれが貧困を措定すると同じくそれを廃棄しもする、と言うようなことを確認した時に矛盾はダイナミックな、関係として取られている。こうした事実としては、二つの無媒介的かつ直接的に反対の微表が、ある一つの現象に即して出現するという事実として、現象するのである。こうした問題は、ある現象が自己矛盾しているという事実である。

 つまり、矛盾は、外的な形式的な規定性として現象学的に出現するのである。もちろん、このような場合に対立物は、関係しあうことなく並列的に現存するのではなく様々な仕方で、交互作用がおこなわれるのである。シュティーラーによると「対立物の動的関係としてのもろもろの矛盾は、こうして、自然、社会、思考の諸現象のうちに対立しあう諸傾向が出現することによって規定されている。もろもろの対立しあう過程や運動傾向は、互いに相手との生きた、能動的な関係のうちへ入り込み、互いに作用しあい、それによって運動と発展の基盤を形成するのである」(26)と述べている。これら両側面の性格は、原理的には同じであることがあるけれどもまた一方の側面は、運動と発展の動因となりそれにひきかえ他の一面がそれの限界として、現象することもある。だから彼は「これまでの説明においては、弁証法的矛盾はさしあたり交互作用しつつある対立物の関係として規定された。矛盾をそうした関係の発展の一つの局面として研究するとき、新しい諸契機が明らかになる。肝要なことは、ある発展的関係の相補的な契機である二側面の交互関係のうちに、一定の時点で不一致が登場する」(27)と述べているのである。

 見られるように、その時には、或る現象と他の現象とは相互矛盾に陥っているのである。明らかにここでの問題は、対立物の一体性および交互作用という契機へは還元され得ない弁証法的な、矛盾のある形式である。もちろん他面では、この二つの形態には関係が成立している。その関係は、つぎのことから明らかである。すなわち、二つの対立的なこの現象は、他の現象とシステム全体の内部での両者の異なった役割のために一般に、調和的には発展せずに一方の現象が、或る一定の時点では他方の現象するものを、リードすることになる。その時には、遅れた側面を進んだ側面に適応させて前者と後者の水準に高めるために必然性が、成立するのである。そうしなければ、それ以上の交互作用は、遂行され得ないのであろうからである。われわれは、社会の物質的な生産力が社会発展の一定の段階で現存する生産関係と、矛盾するにいたると理解している。その自己運動は、社会の物質的な生産力が社会発展の生産関係と矛盾するのである。

 シュティーラーによると「これらの諸関係は生産諸関係の発展的諸形式からそれらにとっての桎梏へと転化する。ここでマルクスが明らかにしたのは、両側面の不一致、両者の衝突として出現し、一方の側面が他方の側面のあとにとり残されることによって特色付けられる、分極的関係の特殊な発展段階であった」(28)と述べている。生産力と生産関係とは、対立物の一体性と交互作用として常に一つの矛盾を表現するところで、両者が矛盾するようになる。と言われるからには、これによって矛盾の或る特別な形態が考えられていることは、明らかである。これら異なった事態に対しては、同じ表現を用いることで或る事態が矛盾するようになると言うことは、不都合なことである。こうした事情に対しては、抗争という表現を用いたが抗争という表現をこの意味で用いている。われわれは、主として矛盾という表現を用いている事態に対して、矛盾という表現を用いて場合に対して抗争という表現も、使っているのである。ここでは、抗争という表現がある交互作用という関係の一定の発展段階として、弁証法的矛盾を特色付けるのに役立っている。

【引用文献】
 (22) G.W.F.Hegel Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften T Suhrkamp taschenbuch Wissenschaft§.156.
    邦訳、ヘーゲル『小論理学』下巻、松村 一人訳、 岩波文庫、昭和39年p.113
 (23) G・シュティーラー『弁証法と矛盾』福田静夫訳、青木書店、1976年p.84
 (24) 同上書、p.84 (25) 同上書、p.85 (26) 同上書、p.86 (27) 同上書、p.97 (28) 同上書、p.98



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