ソクラテス・メソード

人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司

 マイケル・サンデルは、ハーバード大学で討論形式による正義についての講義を行った。その模様を日本のテレビでも「ハーバード白熱教室」として紹介され、次いで東大において行われた「東大特別講義」が放映されたのである。そうした講義の仕方が、対話法というソクラテスの弁証法的な方法であったことから、かなり話題を集めた。そこで本稿では、その対話法すなわちソクラテス・メソードとはどのようなものなのかを吟味し、その方法と仕方が現実的な諸問題にどう対応してゆくかを、考察したのである。周知のように、ソクラテス(前470―399)は、古典期アテナイに新たな哲学を確立して哲学史・思想史に決定的な、影響を与えた哲学者であった。そうした彼の思想は、極めて倫理的であってそれ故に彼の真理探究の方法が対話法にあったことは、周知のことである。当時の古代アテナイの社会においては、ソフィストと呼ばれるプロタゴラスやゴルギアスたちが市民に対して、相対主義や懐疑論を主張するなど詭弁を吹聴するなかで、ソクラテスの出現において真理の認識に対しての問題は、新しい局面を迎えたのであった。

 ソクラテスの倫理思想の根幹をなすものは「悪を悪としりつつ悪を行う人間はいない」という彼の主知主義的な考えに見られるものである。普通われわれ人間は、何か或ることを悪いと知りながらついやってしまうから、悪いと知りながらあえてそれを行うと言うことを、認めている。ソクラテスによると、それらはわれわれが本当にそのことを悪として捉えていないことを、示しているのである。なぜならば、普通われわれは、自分にとって絶対に悪だと分かっていればそれを行う者は、誰もいないからである。そこでソクラテスは、肉体ではなく魂こそが人間の本質とみなして「大切なのは単に生きることではなく、善く生きることだ」と宣言してさらに彼は「人に不正を行うか、自分が不正を受けるかどちらかが避けられないとしたら、不正を加えるよりも加えられる方を選ぶ」と示している。そしてソクラテスは「人は、自分が不正を受けることを警戒するよりも不正を働くことのほうを警戒して避けなければならぬ」としたのである。

 われわれ人間は「すぐれた人間だと思われることではなく、実際にすぐれた人間である」と言うことを求めるのである。そうして「汝みずからを知れ」ということでソクラテスが自己と他者に対して知者であることを要請したのである。ソクラテスは、決してソフィストのように自ら知者と称したのではなく、自らの無知を知って真の知に到達するために他者とともに、対応しようとしたのであった。ソクラテスの哲学の中心的な問題は、魂の配慮ということであった。この魂とは、人間をして人間たらしめるところのもの人間の人格性と、いうべきものである。この人格性は、魂をできるだけ善くしようと配慮することがソクラテスの最大の関心事と、なったのである。われわれは、ここにおいて明らかに人間に対する考え方の転換を見出すのである。そこで魂の善さを配慮すると言うことは、如何にして、なされ得るであろうか。この問題に対する真剣な考察が、ソクラテスをして始めて厳密な意味における倫理学の創始者と、されたのである。

 ソクラテスによる人間の魂の善さと徳とは、もとより各個々人によって異なるようなものではなくて、全ての人に対して普遍的なものでなければならないから、それは普遍性を有する知識・識見の上に基づいたもので、なければならない。それ故、ソクラテスにとって最も重要なことは、徳がなんであるかを知ることである。ここで徳は、知であるという彼の根本思想が生じてくる。ソクラテスによれば一切の徳は、その根底において知と識見に依存しているのである。真実の識見を有する人は、けっして不徳な行為をなすはずがない。全ての誤った行為は、識見が欠けているためになされるものである。故意に誤った行為をする人は、いないから実際に人が不正な行為をする場合に、その人は真に識見を持っていたのではなくてその場合その人の識見は、不明瞭であったのでそのために欲望などによって、誤まったのである。すなわち、ソクラテスのいう識見とは、それを持ったならば人が必ずよい行為をするような、実践知なのである。

 それ故に無知の自覚は、いわゆる知よりも優れたものと言わねばならない。われわれは、まず自らの無知を自覚することによって始めて真の知を求めようと、することができるからである。こうしてソクラテスは、アテナイの街頭に出てあらゆる人々と問答することによりその人達に、自らの無知を悟らせて真の知を自覚することを自己の天職と考えたのであった。ソクラテスは、われわれはまだ誰一人として真の知に達していないと言及し「まだ自分は何も本当のことを知ってはいないのだという自覚・無知の知」こそが最も大切な、知だとしたのである。そして、ソフィストたちに対して「弁論術とは説得を作り出す術のことであって、その行う仕事のすべては、------結局はそこに帰着するのだと。それとも、この聴衆の心に得心を植え付けるということのほかに、弁論術の効能としてもっと何か上げることがおありですか」と詰問している。さらに「弁論術のもたらす説得と言われるのはどのような説得であり、何に関する説得なのですかと」したのである。

 ソクラテスによるとこうした「弁論術とは、法廷その他、大勢の人間が集まる場で、正と不正に関する事柄について人を説得するということですか、それは、いったい、どちらの種類の説得なのでしょうか」と述べている。ソフィストたちが主張する雄弁術は、知識を抜きにして信じ込むことだけが説得なのではないか、それともその説得の結果として知識も与えられるものなのか、と批判したのである。それだから、また「弁論術とは、法廷その他、大勢の人間の集まりを相手にして何が正しく何が不正であるかを知識として教える人ではなくて、ただ、それと信じ込ませるだけの人だと言うことにのもなりますね」として逆説的に言及し「何が善であり何が正しく何が不正であるかといった事柄そのものに関する知識なしに、ただそうした問題についての説得法だけを工夫して、それによって無知な人々のあいだで、実は自分はその知識を持っていないのに、識者よりももっと知識があるように見せかけると言うわけなのでしょうか」と論破している。

 ソクラテスによれば「われわれは善い事柄こそ望むのであって、善くも悪くもないことや、まして悪しきことがらは、われわれが望む対象とはならない」のだから「どうしても人に不正を加えるか、それとも自分が不正を受けるか、どちらかをしなければならぬとしたら、僕は不正を加えるよりも加えられる方を選びたい」と主張したのである。そうした行為が正義にかなっている場合には、身のためになり不正である場合には身の害になる。少なくともこの意見によれば、男でも女でも「立派な善き人間は幸福であり、不正で邪な人間は不幸だというのが僕の主張なのだから」とソクラテスは述べている。このような人間の魂いの善さと徳とは、もとより各個々人によって異なるようなものではなくて、すべての人に対して普遍的なものでなければならないから、それは普遍性を有する知識・識見の上に基づいたもので、なければならない。それ故にソクラテスにとって最も重要なことは、徳がなんであるかを知ることであったのである。

 こうした対話法によってソクラテスが捉えようとした真なる知は、徳がなんであるかを示すべきものであった。ところが一般に事物が何であるかは、その事物の概念を確定する定義においてのみ求められる。したがって、ソクラテスにおいては、始めて哲学的な定義と言うことを発見したのである。そうしたソクラテスは、定義を求める方法として多くの特殊的な場合から出発して、その中から一般的な結論を導くという方法である帰納法を、取ったのである。このような識見の内容は、何であるかと言うこの問題に対してソクラテスは決して明確な解決を、与えたわけではなく深く自己の無知を自覚していたのである。しかしながら彼は、社会的に知者と言われている人々もまた彼と同じように真の知を、持っていないことを見出したのである。普通の人々は、徳とは何であるかを知っていると信じている。しかし、われわれがさらによく吟味してみるならば、実はただ自ら知ってもいないのに知っていると、思い込んでいるだけなのである。

 ソクラテスによると自分は、自分が真実には何も知らないと言うことを知っているとする「無知の知の自覚」を座右の銘としつつ「勇気とは何か」と唱えつつ「正義とは何か」と倫理的な事柄に関して普遍的な定義を求めて、人々と対話を繰り返し真理を探究したのであった。ソクラテスによれば、対話法を繰り返すことこそが独断や勝手な思い込みを排して、真理にたどり着くために欠くことのできない最も重要な、方法であった。人々の意見や見解は、対話による吟味を得ない限りそれは決して真理・真実とは、認められないのである。真理に近づくためには、対話法により問いと答えを繰り返して言説を吟味するという、ソクラテスの対話法の仕方はもっぱら相手に答えさせて、それをやり込めるという方法で対話の相手が真なる知識を、獲得するのを助けるのである。ソクラテスは、最初は下手に出て無知をよそいながら問答を進めるのであるが、対話が進行するにつれて最後には相手の方が自らの無知を、露呈する結果に終わるのである。

 その他者との対話法は、次のような方法によって行われる。そこでは、まず対話の相手の論拠を承認しそれから熟達した仕方で問いを提出し、相手をしてそれに答えさせる。そこからは、このような手続きを繰り返すうちについに相手が、自らの初めの説を撤回しなければならいようにさせて、自分は知っていると思っていた事柄について、実は何も知らなかったということを、自覚させるのである。この方法が、ソクラテスの対話法に見られる弁証法である。なぜなら、ソクラテス仕方は、自ら自己の無知を告発しつつ他者から真の知を、学ぼうと考えて対話を始めたのにその結果はかえって、自分の無知を知るソクラテスの方が智者であることを、示すからである。この対話法は、対話の相手が無自覚的に自己のうちに抱いている思想を、ソクラテスの問いによってその相手に自覚させることが、できるのである。このような対話法は、相手の意識のなかで眠っている真理を呼びさましそれを取り出すことから、これらの対話法を助産術と呼ばれたのである。
[引用・参考文献]プラトン『ゴルギアス』藤沢令夫訳、中公バックス・世界の名著、1997年



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