対立と矛盾の弁証法(18)
矛盾と相互排除関係

人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司

 対立物の抗争という表現は、それが階級社会における諸関係にも用いられることができるがゆえに、問題として事態に対応している。シュティーラーは「矛盾の発展局面の意味における衝突といったような表現は、むしろ階級社会の諸事態を表示する。その表現がここで使用されているような抗争は、それがある弁証法的矛盾の発展関係における不一致、非和解性の局面を特色付けることによって定義される」(15)と述べている。そのことの意味は、それが矛盾の性格の展開を代表するから社会にあって矛盾の性格しだいで、逆行的な性格を持ったり非逆行的な性格を、持ったりするのである。逆行的な抗争については、毅然たる矛盾といった表現や一方の側面が他方のそれの桎梏となる、という仕方でもって明らかになる。現代社会においては、生産力と生産関係との間の抗争は経済システム全体の増大しつつある、不安定性を条件づけている。それらのことは、生産の発展の危機的な性格の深化や生産の可能性と、大衆の購買力とのあいだの亀裂の拡大など、生産能力の累積しつつある非持続性などの諸現象を、惹起することになる。

 こうした抗争は、それ以上の経済的な進歩を抑止する諸要素を含んでいるから、その解決についてはただ生産力と生産関係とが再び一致することによって、それだけで可能である。これらのことは、新しい社会体制とその関係の所有の創出によって、おこなわれるのである。新しい社会体制においては、自らを展開しつつある弁証法的な矛盾の両側面の抗争に、いたる場合がある。つまり、このようなことは、全く合法側的な発展を促進する出来事なのである。異なる社会においては、矛盾関係のうちで対立しあっている諸要因には異なった、発展的な意義がある。一般的な関係では、一方の側面の方が他方のそれに依存している側面よりもより能動的であり、より可動的である。シュティーラーによると「両側面の関係は、一方の側面の優位をともなった一つの交互作用的連関という性格をもち、そのさいこの連関は、しばしば内容と形式の相関関係となる。まさに、一方の側面が他方のものに依存しているという事態こそが、発展における両側面の抗争を生じる原因となる」(16)としている。実際に活動性や動的で指導的な側面は、発展を速めるような諸条件が与えられた時には他方の側面は、その諸要素に先行するのである。

 このような依存的な側面は、何らかの刺激が伝えられてそれに対応した質的な、形態変化がおきた後に初めて他方の側面に接続し、適応することができる。つまり、こういう場合には、それは主動的な側面の発展がそれに対して行使する、強制に従うのである。これによって抗争は、克服され両側面の一致が新しい基盤のうえで回復される。その場合は、自明のことながらその関係のどちらの側面の上に優位が現れるかは、条件が異なればその側面が異なるはずである。そして、従属的な側面は、絶えず諸々の作用を及ぼしておりそれは決して単に受動的なだけではない。このようなことは、実際に交互作用そのものの本性からして明らかである。先進的な側面と保守的な側面への適応は、後者が前者と共に無造作に同じように働くという仕方ではなく、後者が前者に応じた質的な変化によって前者のいっそうの発展を、能動的に促進し前者の展開に対して必要とされる、活動の余地を創出するという仕方でもって、生ずるのである。そして、こうした抗争については、これらの事態と並んで衝突という表現が当てはまる事態が、現存するのである。

 それにも関わらず問題は、特定の表現を利用する問題がもはや単なる用語上の問題の性質ではなく、認識に関わる意義を捉えるのである。根本的には、現実的な諸々の構造と合法則性との統一的かつ正確な理解が、問題なのである。衝突という言葉は、単なる区別の関係にあるか一つの交互作用を実現している二つの現象が、一定の諸条件によって先鋭的な対抗関係に陥るという事実を、示すために利用される。シュティーラーによれば「この種の事態は、問題とする諸現象の発展に対する関連でそのような性格がどんな場合にも必要不可欠であるわけではないことによって、抗争から区別される」(17)としている。その意味では、衝突という表現を利用するが一般に衝突は社会的な矛盾を除去する凝縮された、形式を表現するのである。この衝突の基礎には、人間社会の新しいものと古いものとの抗争による規定された、発展の合法則性がある。衝突という性格は、運動の矛盾にも発展の矛盾にも固有なものであり得るのである。その限りにおいては、抗争として規定される或る現象は同時に衝突の現象を、現わすことになる。

 しかし、抗争と衝突とは、両者の必然性の度合いにおいて互いに区別されるのである。シュティーラーによると「抗争は必然的な発展局面であり、これに対して、衝突はしばしば可避的である。どのダイナミックな、非逆行的対立関係もが衝突へと先鋭化せずにはおかないわけではない。むしろそれは、通常、ただ逆行的緒矛盾に対してだけ妥当する。この場合には抗争の局面に対してまた衝突という性格をも持つのである」(18)と述べている。このような諸々の衝突は、異なる社会構成体の社会で発展中に出現するし、当然新しい社会体制においても排除されない。諸々の衝突が生ずるのは、より高い要求を充分に正しく評価できない人達が、諸々の個人的で特殊な利害を社会的な利害の上に、置くときである。こうした衝突は、古い伝統がなお根強く人々の上にのしかかっている場合に、あらわれるのである。このようなことは、まさしく農業の社会的な改造の場合に様々に示されたことである。こうした衝突は、例え時間的には限定されたものであれ先鋭的な対抗関係として、規定されるのである。もちろん、そのことは、通常の社会的な衝突は非逆行的な性格を持つから原理的には、解決可能であることを否定するわけではない。とはいえ他面では、弁証法的な矛盾のこの形態の先鋭的な性格を、明らかにするのである。

 対立物の一体性が、現に存在することが矛盾の微表として問われるように見えることから、シュティーラーは「衝突は弁証法的矛盾とみなしうるかどうか、という問題が提起されるかも知れない。そして実際のところ、分極的関係を固定するある矛盾と、対立した両傾向の一時的な相互衝突として現象するある矛盾とのあいだには、たしかに非本質的ならざる区別が現存する」(19)と述べている。それにも関わらず両現象は、或る共通の現象が対抗しあう両極間の交互作用という現象に属している。ただ第一の場合には、この関係は一つの相対的に安定した状態として、確定されているし交互作用はいわば調和的に、遂行されていくのである。このような場合には、一般にその関係は時間の上で相対的に限界づけられているもので、それでも交互作用そのものは多かれ少なかれ激しく、進行してゆくのである。それだから衝突は、弁証法的矛盾の一つの特殊な現象形態と見なされるべきであり、分極性という意味での矛盾からも抗争からも、区別されるのである。もちろん、その境界は、しばしば流動的であるけれども確かに衝突の場合にその対立関係は、また交互に作用しあう対立項の関係と構造に相等しいのである。そのことは、この場合の対立関係が衝突の解決と共に消失すると言うことを、意味している。

 シュティーラーによれば「諸現象の単純な並立的あり方は、この衝突の場合には、弁証法的矛盾の特殊な形態へと転化したのである。衝突についての見方には、衝突を純然たる人間的な関係であると規定している。ところが衝突の本質的なこの捉え方は、この言葉の用法は名目的な価値と実質的な価値との間の衝突についての場合と類似している」(20)のである。だからそこでは、これらと対決させて適切な一致をはからなければならない。諸々の衝突は、人間的な事情と類似していると言うことの意味で、それらがただ社会の内部でのみ発展するという意味からして、少なくとも衝突を構成する両要素のうちに直接関係する人間的な、本質の現象なのである。自然現象のうちには、人間によって触れられもしないどんな衝突もないし、このような比較的一般に理解されている意味においてなら、衝突を持って人間的な連関を前提とする基盤とする一つの現象と規定する時は、この考え方に同意することである。われわれ人間は、現実に提起されている客観的な要請をもはや正しく受け止めないところに、成り立つ或る衝突が描写されている。ここで問題なのは、意識的に対立し合う行為ではなく主体の内的な前提なのである。

 衝突と矛盾との区別には、多くの注文をつけたい点が残されている。そこにおいては、両現象を同一のものと理解してはならないと強調することは、正しいことである。だが他方では、明らかに衝突的な弁証法的矛盾の特殊な一形態であるという点で、成り立っているが両現象の諸々の客観的な一致を取り除くために、腐心することにならざるを得ない。それだから衝突は、端的に社会的な矛盾の発展局面として理解すべきである、と言うことではない。われわれは、抗争として特色付けた現象に対して衝突という用語を、利用しているのである。シュティーラーによれば「衝突をもって、社会におけるダイナミックな対立関係の必然的・不可避的・普遍妥当的な現存形態と規定することを意味しているが、これは、疑いもなく衝突の本質を看過する」(21)ものである。こうした理解からすれば、社会における生産力と生産関係や生産と消費などの諸々の衝突は完全に、合法則的なものとされてしまうのである。しかし、諸々の衝突は、社会においてはダイナミックな諸関係の必然的な展開様相ではなくて、それらはむしろ相対的な媒介が不能性という性格を持っている。つまり、それらは、普遍的で発展的な矛盾の除去と解決の特殊な側面と様相として、出現するのである。弁証法的な矛盾は、一体性と差異性とにおいて明確に捉えてそこから社会的な衝突を、規定する道筋を探求するという具合に構想を、立てるのである。

【引用文献】
 (15) G・シュティーラー『弁証法と矛盾』福田静夫訳、青木書店、1976年p.99
 (16) 同上書、p.100
 (17) 同上書、p.101
 (18) 同上書、p.101
 (19) 同上書、p.102
 (20) 同上書、p.102
 (21) 同上書、p.103



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