看護哲学と世界観性

人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司

 看護の世界において人間の本質が自由であると言うことは、自由を自覚し自律した看護師と他者である患者に関係する、日常的な生活過程において相互信頼と相互扶助という関係のなかで、自由を認識することにある。そこで自由を認識した看護師は、自律した意志を自覚しながら現実の医療行為をとうして、看護師と患者の関係する日常的で基本的な生活の立場から、主体的に捉えるところに可能性を現実に変えることのできる、道があるわけである。こうした看護哲学は、自由の意味を自らの問題として捉え看護師と患者が日常生活のなかで自由の法則を、主体的に把握しこれを実践的にこなす自由を、認識することなのである。だから、看護師と患者の関係は、各々において自由を自覚し自律した医療と看護の行為を相互信頼のもとに、行うことなのである。看護師と患者は、こうした意味において自由を自覚すると言うことのうちに、各々の相互関係を認識することで看護師が現実的な医療環境のなかで、自律を求めるものである。そのような看護哲学は、看護師が医療的な行為のうちに彼らを取り巻く社会環境のなかで、客観的な法則を認識することでそれを社会生活のために意識的に、活用することを意味している。

 看護哲学は、看護師と他者である患者の各々が人間的に生きるという自由を自覚し、各人の意識において様々な意味内容を与えるものである。各人の自由の内容は、看護師と患者の関係において社会的な規範としての社会的な自由を自覚し、人間としての自律した個人的な自由が存在しているのである。看護哲学は、看護師と患者の関係する行為のうちに理性的な人間を求めているが、本能や感情の赴くままに生きる人間的な存在であると同時に、その本能的な衝動を抑えて社会的な規範を作る知的存在であると共に、自らの理想的な生き方を探求する理性的な存在者なのである。したがって、看護哲学の存在と世界観性は、看護師と他者である患者との関係における人間存在の関わりのうちに、成り立ち得るものである。人間としての自由の考察は、看護師と他者である患者の関係を捉えることで、経験的な認識や知性に対応した社会的自由と、理性に対応した世界観性と規定することができるだろう。つまり、人間的な自由は、われわれが理性的に生きることで自由を自覚し、人間らしく生きることなのである。カントにあっては「自由はたしかに道徳法則の存在根拠であるが、しかしまた道徳法則は自由の認識根拠である」(1)として自由を知るには道徳法則を、介さねばならないとしたのである。

 看護師と患者を繋げる人間の生命は、一度失われてしまえば二度と生まれ変わることはできないものであり、かけがえのない生命は他に譲り渡すことも他に代償されることもできないことは、自明のことである。こうした人間のもつ生命の本質は、このかけがえのなさを捉えることによって人間の生命に絶対的な価値を、見出すことができる。かけがえのなさと言うものは、人間の尊厳という思想を根幹とする他に取って代わることも譲り渡すことも、できないものである。われわれ人間は、生命のかけがえのなさを本当に自覚し認識する時に生命の絶対的な、価値を見出すことができる。したがって、人間らしく生きるという世界観性と看護哲学は、その生命のかけがえのなさについての思想的な根拠が、存在していることになる。この思想的な根拠は、看護師と他者である患者の一人ひとりの人間の持つ生命のかけがえのなさを、われわれ自身が自覚し認識することにある。われわれが、このようなかけがえのなさを本当に理解し自覚する時に、どんな人間の生命も絶対的なものであることを、認めるのである。

 われわれ人間は、常に行為をしなければ生きてゆくことが出来ない。こうした課題は、看護師と患者であるわれわれ人間が自らの事由によってその行為を、選ばなければならないことを示すものである。だから、人間的な行為のうちにその看護師は、医療と看護の関係する人生の営みのなかに自らの看護師としての行為を、選ぶ自由を持っている。自由を自覚した看護師は、このような行為を選ぶ自由を持っているわけであって、それによって看護師としての自律的な意志と自覚した行為を、選択していると言うことである。こうした看護師が、自らの事由によって行為を選ぶものであるならばそこには、自分の行為を選ぶための根本的な原理である世界観が、存することになる。人間らしく生きるという世界観性と看護哲学は、人間が何らかの看護との関係する行為を選ぶ場合にその原理である世界観を、捉えることよって行為を選ぶことになる。看護師と患者の関係は、何らかの事由によって行為している以上はある程度のまとまりのある、見方や考え方に基づいた看護師としての行為を選ぶことになる。そして、看護師と他者である患者は、自らの生き方を決定する根本的な世界観性を持つことによって、看護師は常に自由を自覚し自律した人間としての医療行為を、することで生きてゆくのである。

 看護師の立場からは、人間らしく生きるという世界観と看護の関係を吟味するにはまず哲学的な、世界観の問題について把握することで看護哲学の客観性と世界観とは、統一されるべきである。そのことは、客観的な世界観としての看護哲学の観点から問題を把握し、その内的意味を捉えることにある。このようなことは、学問的な要求と世界観的な要求との統一への思索であって、客観的に考察するという立場と科学的に思考する立場と結びつけて、客観性と世界観は統一されなければならない。しかし、客観性と世界観との統一の観点は、看護哲学を吟味するがただちに客観性の立場を捉えると言うことは、科学性の立場とは同義ではない。哲学的な認識方法であるこのような考察の仕方は、それ自身がその必然性に従って把握されなければならないし、またその対象を認識することが立証されなければならない。このような、客観的な世界観性を把握することは、看護哲学の対象や方法を規定する在り方の問題である。こうした看護哲学の方法は、哲学的な世界観と最も密接に関係しているのである。本間司は「看護哲学の本質を探究することによって、看護の認識論と看護の存在論が確立されることにより、看護の世界観も導かれ、看護哲学の三要素が確定されて」(2)より良い看護が可能となるとしたのである。

 看護哲学における客観性と世界観性の統一という観点は、論証的な方法という前提から哲学の世界観性と客観性や看護哲学と個別科学との関係について吟味し、考察する必要があるだろう。だがしかし、論証的な方法は、全てが科学的な方法であるとすることは問題がある。分析的方法や綜合的方法などは、それが科学的方法であるとされるのは論証されたものが同時に、事実によって確証され得る時だけである。だから、人間らしく生きるという世界観と看護哲学を認識するには、われわれ人間の経験的な感覚によるところの直観は、しばしば認識の飛躍をもたらすが科学にとって直観されたものは、後から論証される必要性が求められることになる。また、われわれは、直観を唯一絶対化する直観的な方法を否定もするが科学の発達において、直観の果たす役割を否定するものではない。こうした哲学的な世界観は、人間の思惟によって理論的な体系にまで形成されたものとして、その他の世界観や人生観とは区別することができる。哲学における世界観性と言うこの論理学の特徴は、形式論理学とは違ってそこに登場するすべてのカテゴリーについて、その意味と相互の関係が捉えられなくてはならない。

 人間らしく生きるという世界観性のうちには、二つのモメントがあるだろう。その一つのものは、われわれ人間を取り巻く自然や社会という世界に対する統一的な見解であり、それは価値意識に基づくものである。もう一つのものは、それが人間の価値的な意識に基づく考え方である世界観の総体であって、価値判断によるものである。前者のものは、世界観の基底にある認識論的な世界把握であり、それは後者を根拠づけているが逆に後者によって、制約されてもいるものである。こうした世界観は、二つのモメントよる相互制約が世界観を単なる理論にとどめずに人間の主体的な、思想として捉えられている。それ故に世界観は、認識論的な機能だけでなく主体的にそれ自体が各人の行為を、含む価値的でイデオロギー的な機能を保持するものと、なっているのである。人間らしく生きるという世界観性は、看護哲学のこのような世界観的な把握を根幹としたものであって、人間の価値観や道徳的な見解を形づくっているものが、看護哲学の世界観なのである。われわれ人間が、何らかの価値意識に基づいて価値判断をおこなう行為をする場合に、各々の局面においてこの世界観が様々に対応して、機能することになる。

 人間らしく生きるという世界観性と看護哲学は、看護師の価値としての人間的自由の問題と価値意識に基づく世界観性を、捉えることにあるだろう。このような思想としての看護哲学に求めるものは、人間らしく生きるとする人間的な自由と人間の権利という思想である。この人間らしく生きるという思想のうちには、人間の生きる権利である生命・自由・幸福追求の権利という思想を包括している。それだから、看護哲学の世界観は、看護師と患者の関係においてわれわれ自身が人間らしく生きるという考え方と、生命・自由・幸福追求の権利という世界観性によって、根拠付けられた人間の尊厳という思想を包括するものとして、捉えることになる。看護哲学における人間の尊厳という思想には、人間の自由という側面があり人間の自由は人間の権利であるばかりではなく、理性的な人間として人間性と人格を兼ね備えた人間の存在そのものを、求めるものである。すなわち、われわれ人間は、本来的に自由であり世界観に基づく行為を選択し意志を決定し、その行為をすることによって主体として行為に対する責任を、負うのである。だから、看護哲学に求められる思想は、人間の権利としての自由を拠りどころに人間らしく生きるという世界観と、自律した人間としての自由が存するわけである。

【引用文献】
(1) カント『実践理性批判』波多野精一、他訳、岩波文庫、2002年p.18
  カントによると、道徳法則が自由に先立って明確に考えられていないとしたら、
  我々は自由なるものを想定する権利が我々にあるなどと思いはしないだろう。
  しかしまた自由が存在しないとしたら、道徳法則は我々のうちに決して見出されはしないだろうとしている。
(2)本間司「看護哲学試論」日本大学通信教育部通信教育研究所『紀要』20号2007年p.1




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