3.11後の世界へ、時を超えて届いた熱いメッセージ
水戸巌著 『原発は滅びゆく恐竜である ―水戸巌著作・講演集』
(緑風出版・2014年3月)
文化情報学専攻 15期生 相原 夕佳


真実は時を超えて
 原子核物理学者、そして反原発運動の「草分け」的存在であった水戸巌博士の遺稿集。科学者としての情熱、そして地球のすべての生命への愛が伝わってくる熱い本である。この本に込められたメッセ―ジは、3.11(2011年3月11日、東日本大震災)後の世界に生きるわれわれにとってタイムリーであり、またリアルである。
 当然のことではあるが、遺稿集であるこの本の著者は故人であり、水戸氏が逝去されたのは四半世紀以上も前のこと。しかし、時を超えて伝えられた言葉の一字一句が真に迫っており、また実際、科学的な事実である。真実というものは時を経ても色褪せたり陳腐化したりすることはないのだということを教えてくれる。
 3.11後、原発廃止論は正論として肯定された。と、私は理解している。しかし、水戸氏が活躍したのは「世界中が原子力発電の夢に酔っていた時代」だった。そんな時代の最中に、水戸氏は原子力の危険性をいち早く暴き出し、原発反対運動を理論的に支え、自らの足で各地を巡り尽力した。世論や体制に迎合することなく真理を貫いた闘士であった。
 チェルノブイリ原発事故が起きた1986年の年末、芝浦工業大学教授だった水戸氏は剱岳北方稜線で消息を絶ち、そのまま帰らぬ人となった。53歳の働き盛り、反原発運動の志半ばの突然の幕切れだった。科学者の卵として将来を嘱望されていた双子のご子息、共生さんと徹さんも一緒だった(享年23歳)。何という残酷な運命だろう。
 しかし、この本はそんな感傷に浸って読むべきではない。それよりまずは読んで欲しいと言う著者その人の声が聞こえてきそうだ。この本には工学部の学生や大学教員など専門家向けの講演原稿もあるが、全編を通して非常に明快でわかりやすく、行間に溢れる著者の熱意に導かれ一気に読み通すことができる。

「原発はいらない」―その科学的根拠と論理
 遺稿の冒頭に登場する「17の質問にこたえる 原子力発電はどうしてダメなのか」では、「原子力発電のしくみ」といった基礎的なことから、炉心溶融や非常用炉心安全装置のこと、放射線と放射能の違いなど、3.11後の私達が今まさに知りたいことに回答を示してくれている。そして、原子力発電は火力発電に比べ多くの点において非常に劣っていること、地震国で人口密度も高い日本に原子力発電所を建設することの恐ろしさなどが、科学的に実証されたデータや図解とともに実にわかりやすく解説されている。さらには、「新しい技術と世界観を!」とう現代の我々にそのまま通じるメッセージを投げかけ、太陽エネルギーに代表される「クリーン・エネルギー」の利用を提言している。(14-61)
 このQ&Aが収められた『反原発事典シリーズT』(現代書館)が出版されたのは1978年4月。東関東大震災どころかスリーマイル島原発事故(1979年3月)よりも前であることを知り、愕然とした。こんなにも早くからこんなにもわかりやすく原発の危険性について警告が出されていたのに、水戸氏が最悪の事態として予見していた炉心溶融=メルトダウンが、3.11で被災した福島第一原子力発電所において現実のこととなってしまったのである。
 全編を通じて水戸氏が事あるごとに強調しているのは、原発の「巨大なる潜在的危険性」である。知識がないので「一部の専門家にまかせておけばよい」という考え方は間違いであると否定し、「原発の危険性を理解するのに必要なものは知識ではない(中略)論理である」と断言している。その根拠は「原子炉の中にはヒロシマ原爆1000発分の死の灰が内蔵されている」ということ。そして、このような「巨大な潜在的危険性」に対して、「判断の基準を最悪の事故がおきたときの結果に置く」という明確な論理をもつ必要があると主張している。(172-75)

 ここに述べられているのは全て科学的根拠が示された事実であり、原子核物理学者である水戸巌博士による言葉なので説得力がある。単なる言説ではなく、紛れもない真実であると理解することができる。しかし、これほどまでの正論を提示しながら、水戸氏が原告団に加わった東海原発裁判は敗訴に終わっている。戦後、原爆記念日の度に原子爆弾廃絶が叫ばれてきたのに、原子力発電は積極的に推進されてきた。そして、水戸氏の警告を無視した原発推進の果てに3.11の福島原発メルトダウンが起きてしまった。
 このような事態に至ってしまったのは何故なのか? この本にはその答えも明確に示されている。

新しい真の科学技術の時代へ
 この本は、@水戸巌博士の著作・講演集と反原発運動の遺志を継いだ科学者たちによるまえがき、あとがき、注釈、A七人の友人たちによる追悼文、B未亡人である水戸喜世子さんの特別寄稿の三部構成となっている。まずは@を読み、水戸氏自身の熱い言葉に耳を傾けることをお勧めしたいが、A、Bの部分を読めば、水戸氏は研究熱心な科学者であると同時に、反戦運動など反原発以外の社会運動にも関わり、正しいと信念を抱いたことに対して社会の圧力に屈せず生涯闘い続けた闘士であったことがわかる。また、当時の反原発運動には危険も伴い、テロまがいの脅迫や妨害を受けていたことを知る。水戸喜世子さんの特別寄稿によると、メディアや裁判所からは「被害妄想のオオカミ少年」(p.322)呼ばわりされていたという。
 3.11後、原発安全神話が虚言であったことがついに暴き出されたといえるだろう。しかし、原発推進の時代には、体制側によって政治的に捏造されたこの言説のほうが正論であると信じるように仕向けられてきた。その巧みなレトリックに加担した科学者や文化人、政治家たちを水戸氏は実名を挙げ、文例を示して批判している。
 例えば、原子力船「むつ」の放射能漏れ事故に対し、ある大学講師が「『物理の次元』では全くのナンセンス」といえるほど無害なのに「社会真理の次元」で「噂」が広まり不安感を仰ぐ結果となったと分析しているが、これは全く逆であると水戸氏は指摘する。重大な欠陥については語らず、「物理の次元」で根拠のあることを「全くのナンセンス」にしてしまうという虚言がまかり通っているといのである。(228-32)
 また、原発推進派であるワインバーグが語る人類は「原子力エネルギーと引き換えに放射性廃棄物を受けとる」という「ファウストの取引」をしたという、必要悪として容認せよと主張するような説に対しても、水戸氏は異議を唱えている。(252-54)
 原子力発電の本質に気づかず、ただ享受してきた我々は、結果的に原発安全神話という政治的に捏造された言説を鵜のみにするという衆愚に陥っていたことを認めざるを得ないだろう。この本のタイトルである「滅びゆく恐竜」という言葉で、水戸氏は、原発を次のように定義している。

 原発は、原水爆時代と工業文明礼讃時代の結末を飾る恐竜(亡びゆくもの)である。原発は、古い時代の科学技術―自然と人間の敵対、民衆の手に届かぬこのとして民衆を支配する手段としての科学技術のシンボルである。(の215)

 恐らく原発全盛時代とぴったり重なる、私が子供時代を過ごしたあの時代、一見豊かだったあの時代は、実は統制された恐ろしい時代だったのかも知れない。その思いから、唐突ではあるが、水戸喜世子さんの特別寄稿からの一節を引用する。

 スカーフの一枚に至るまで発見し尽くした捜索だったが多くの謎は残ったままである。テントのファスナーは閉じていて、谷に向いた面だけにT字型の破れ目があって、そこから谷筋に向けて体が放り出されたと思われる。この破れ目は何が原因でできたものか、(中略)頭部の血痕の原因はなにか、(中略)詳細は稿を改め「捜索報告書」の形で発表、解明されることを願っている。(314)

 3.11後、原発廃止論は正論として肯定されたと私は理解しているが、そのように断言できるほど社会は単純ではないかも知れない。恐ろしい時代はまだ継続しているのかも知れない。
 しかし、この本が教えてくれたように、時を経ても真実は決して滅びることはない。真実さえも否定するような言説が捏造され、社会が脅かされることは今後も起こり得るだろうが、必ず暴かれるときがくると信じたい。
 水戸巌博士は、研究に没頭しつつ闘いに身を投じ、怒りも絶望も味わっただろうが、人類の未来について希望を抱いていた。

 いま、原発とそれに象徴される工業文明総体への批判の中から新しい真の科学技術の時代が始まろうとしている。それは、自然と人間の調和、そして民衆一人ひとりが制御できる科学技術の時代である。(215)

 現時点においてまだ実現はしていないが、そのような時代をつくっていけるように取り組むことが3.11後に生きる我々の最優先課題だろう。科学者だけに任せておくのではなく、誰もが参加できる課題でもある。この本の最初の方で語られている通り、「エネルギー消費量の問題は自然科学法則の問題ではなく、人間社会の問題であり、政治文化の問題」(57)なのだから。

付記: 1987年、春
「お父さんと双子の弟が遭難しちゃったの」
 1987年春、私はまだ子供だったが、水戸巌博士の令嬢でデザイナーの水戸晶子さんと出逢い、親友になった。晶子さんは明るく仕事熱心だったので、そんな悲劇の渦中にいることには誰も気づかなかった。私には話してくれたが、彼女の明るさに、まだ生存救出の可能性があるのだと勘違いしており、ちぐはぐな励ましの言葉をかけてしまったかもしれない。お母様である喜世子さんの特別寄稿によると、その頃既に生存救出が断念され遺体捜索に入ってから3ヶ月が経過していた。その後、剱岳から一人ずつ見つかっていった頃も、私たちは毎日一緒だった。あの頃の彼女の強さ、自分のあまりの子どもっぽさを思うと切なくなってくる。
 晶子さんが反原発の立派な活動をしていることは知っていたが、私は何の協力もしなかった。それでも私たちは親友だった。しかし、私が東京の方に引っ越してからは会う機会もなく月日が流れ、連絡が途絶えてしまった。
 そんな私達の友情が復活したのは、昨年、大学院に入学して間もない頃のこと、松岡直美先生の公開講座「核の災禍をめぐる言説 ヒロシマからフクシマダイイチまで」の資料を目にしたことがきっかけだった。「反原発」というキーワードで晶子さんのことを思い出し、反原発運動の先駆者だった水戸巌博士の長女として何か発言しているかも知れないと思いついた。そこでネット検索をしてみたところ、彼女のfacebookにアクセスすることができた。そして、会えなかった日々などなかったかのように友情が復活したのだった。
 晶子さんの装丁によるこの本を読みながら、彼女が1987年春に(秋だったかも知れないが)ふと語った言葉を思い出した。
「私のお父さんはね、父親としてというより、一人の男性として本当に魅力的な人だったの」



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