対立と矛盾の弁証法(17)
対立物の相互浸透と矛盾

人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司

 客観的実在の発展する過程は、或る事物の発展過程のどの一部分をとって見ても対立物の相互浸透が、見出されるのである。そして、またこの発展過程の法則は、普遍的なものであり客観的な実在の弁証法の基本法則なのである。なぜなら、この発展過程は、法則を認めることによってのみ客観的な実在の変化や発展を自己運動として、捉えることができるからである。寺沢恒信によると「あらゆる客観的実在は発展過程のうちにあるから、この法則はあらゆる客観的事物にあてはまる普遍的な法則である。ある事物の発展過程のどの一部分をとってみても、そこには必ず上記の意味での対立物の統一が見出される」(9)と述べている。このようにわれわれは、客観的な実在の変化や発展を全面的に認識するために矛盾を、考察するのである。対立物の統一という相互浸透の法則は、互いに排除と対立している事物や事柄を意味している。あらゆる事物の発展過程には、事物に内在する対立物が互いに排除しあい対立している傾向が見出され、しかもこれらの対立傾向は一つの事物のなかに統一されて互いに抗争してもいる、と言うことを示している。

 あらゆる事物や事柄の発展過程には、このような対立物の相互浸透と矛盾が事物や事柄の発展の原因であり、そしてその発展過程で古いものの新しいものへの移行という形態をとって、対立物の相互浸透がおこなわれると言うことを、示しているのである。そのことについて寺沢は、客観的に実在する「弁証法の基本法則が対立物の統一の法則であることを見出した。このことからわれわれは、客観的実在の反映である思考の弁証法の基本法則もまた対立物の統一の法則であると結論する」(10)のである。なぜなら、こうした思考は、客観的な実在の反映であるから思考の構造は反映される、対象である事物の構造に基本的には一致していなければならず、両者の基本法則は従って同一でなければ、ならないからである。だから、弁証法的な思考の基本法則は、反映される対象の基本法則に一致していないならば、そのような反映は正しい反映ではなく従ってそのような思考は、誤謬におちいる。こうした思考の基本性格に関しては、対象との一致こそが強調されるべきであり従って基本法則に関しては、いかなる独立性も存しないのである。

 客観的に実在する事物は、相対的に静止した状態にあることもある。この場合には、感覚にとって事物は発展過程にあるものとして捉えられず、かえって逆に完結した統一のある事物として調和や停滞と平衡の状態に、あるものとして捉えられる。事物の変化や発展は、顕著に変動する姿を捉え比較的に短い時間のうちに進行する場合には、その変化や発展は感性的な認識によっても、捉えることができる。しかし、事物の変化や発展は、必ずしも常にこのような姿をとるとは限らない。事物の変化や発展を認識することは、比較的に容易な場合もあれば比較的に困難な場合もある。しかし、思考にとって重要なことは、このような統一的なものとして感覚に写る事物のなかに、対立的な傾向を発見しこの対立物の相互浸透と矛盾によって、生じる変化と発展を相対的な静止の状態にある事物のなかに、すでに予見することである。事物に内在する変化は、こうすることによって始めてあらゆる状態にあらゆる事物を発展過程にあるものとして、捉えることができる。

 対立物の統一の法則が、思考の弁証法の基本法則であると言うことはこの法則が、どのような事物の発展過程の認識にも適用することのできる普遍的な、法則であることを意味する。したがって「あらゆる事物を対立物の統一として認識せよということは、弁証法的方法の最も重要な指示でもある。対立物の統一として認識することによってはじめて、われわれは、その事物の真の発展形態を把握することができる」(11)のである。なぜならば、対立物の統一と相互浸透として把握されたものは、この時に始めて事物の外見上の安定性・固定性・統一性・調和性・平衡性が破壊され、事物の流動性・可変性・過程性が明るみに引き出され、その事物を新しい形態へと変化し発展していく可能性を持つものとして、認識することができるからである。或る一つの形態をとって現れている矛盾は、この対立物の統一という相互浸透と矛盾の結果が解決されそこに、事物の発展が起こるのである。しかし、矛盾が解決されると言うことの意味は、対象である事物に内在する対立物の統一という矛盾がなくなる、と言うことを意味するものではない。

 事物の発展は、新しい変化と状態が生まれるがこの新しい状態のなかには、新しい形態の矛盾が存在するのである。この新しい変化と状態のなかには、新しい形態の矛盾が存在しこの対立物の相互浸透の結果において、再び発展が起こるのである。このように、次々おこる不断の発展は、それによって次々生みだされる不断の矛盾の形態を、追求していくことによって始めて複雑な事物の発展の全体を認識することができる。したがって、このような長い努力を要する認識の過程では、対立物の相互浸透の法則を何回も繰り返して、適用しなければならない。そのことは、矛盾の発展を追及すると言うことを意味する。そうしたことは、事物を生動的に捉える弁証法的な把握の仕方であり、あらゆる認識と理論が実践への指針となり得るためには、極めて重要なことである。人類の認識は、客観的な実在の多かれ少なかれ正確な繁栄であったのである。その限りにおいては、人類の思考のなかには客観的な実在の発展の基本法則である、対立物の統一と相互浸透の法則が無意識的にせよ反映されていたのであって、その意味で弁証法の法則である。

 現存するものの肯定的な理解のうちには、同時にまたその否定の意味を包含した必然的な崩壊の理解を含み、その生成させる形態をも運動の流れにおいて、捉えるのである。したがって、またそれの非恒常的な側面からは、理解し何ものによっても伏せられずその本質上は批判的かつ、進歩的である。この弁証法の革新性は、またあらゆる事物を対立物の相互浸透として認識することによって、保障されている。世界のすべての認識過程は、その自己運動と自発的な発展においてその生きた生命を、確認する条件はそれを対立物の相互浸透として、認識することである。だから、われわれは「客観的実在の変化、発展を全面的に認識するためには対立物の統一の法則に従わなければならない。すなわち、この法則を意識的に適用しなければならない」(12)のである。しかし、対立物の統一の法則が意識的に適用されるのは、歴史的にも比較的新しいことであり今日においても必ずしもすべての人が、これを意識的に適用しているわけではない。

 一般的に対立とは、事物や事柄のうちにある両極端な区別を言うのである。寺沢恒信によると「対立物の統一は、まず概念のなかに反映されている。われわれは対立概念とか相関概念とか呼ばれるものを持っている。親と子・兄と弟・夫と妻・男と女------等々から、さらに抽象的なものに上と下・右と左・東と西・南と北・プラスとマイナス・高いと低い・大と小・長と短等々がある。これらすべて、客観的な実在のなかに見出される対立物の統一を何らかの程度に抽象的な形で反映しているところの概念である」(13)と述べている。したがって、またこれらの概念は、互いに切り離すことの出来ないものであり一方だけで相手なしには、意味を持つことの出来ない概念なのである。たとえば、上と下という概念は、上とは下に対して始めて意味を持つ概念であり下から切り離された上とは、意味を持つことができない。対立物の統一という相互浸透の法則は、これらの概念の各々がすべて自己の対立物との相互浸透のなかでのみ、意味を持つものでありその一つを切り離して固定的に取り扱って、はならないことを教えている。

 そういう矛盾を含んだものは、すでに自分自身を否定しているのであるからそれはもはや自分自身に、とどまり得ないからその矛盾を解決そるために何らかの仕方で、運動せざるを得ないからこうした矛盾が自己運動の原動力と、なるのである。そういう自己運動するものは、また自分自身の運動によってその矛盾を解決してゆくのである。これが矛盾の止揚(Aufheben)という矛盾の解決の仕方なのである。ヘーゲルにおいては、すべてのものはそれ自身において矛盾しているという命題は事物について、真実や本質を明確に表現している。このような人間の認識は、客観的な実在の運動や発展に応じておこなわれるとしているからである。ヘーゲルは、矛盾とその解決が運動の大いなる転換になると言うのである。このように運動とは、或るものが自分自身を止揚して他のものに変化することである。つまり、対象である事物自身の内在的な超出こそが運動なのである。だがしかし、対象である事物が他の物になるためには、事物のなかに自分を他のものへ追いやる否定性のモメントが潜在して、いなければならないのである。

 見田石介によると「具体的事物の具体的統一と運動の全面的把握としての矛盾は、やはり対立一般としては、互いに否定しあうようなものの区別であるが、この否定が現実的な否定であること、そしてこの闘争する二側面が主要な側面と主要でない側面にわかれていることが、たんなる対立と区別される中心点である」(14)と述べている。このような主要な側面は、単にこの対立物の抗争ということの意義について考えて見ると、その内容が明らかになる。こうした矛盾は、このように現実的な事物の二側面が互いに統一に、あるべきであるのに現実的に排除しあっているから、矛盾と呼ばれるのである。このようなことは、こうした互いに抗争するものが一定期間に現実的に統一を保って、共存することが現存するのである。何故かといえば、それはこの互いに抗争する二側面が実はこの統一を維持する力とこれを抗争のうちに破壊する力として、対立しているからである。そして、当面この統一を維持する力は、優位を占めて主要な側面をなし統一を破壊する力が、まだ自分を実現しないで主要でない側面として留まって、いるからである。現実的な否定と抗争というのは、このように二側面が現実的な統一をめぐってそれを維持する力と、破壊する力となって拮抗していることである。

【引用文献】
 (9) 寺沢恒信『弁証法的論理学試論』大月書店、1963年p.34
 (10) 同上書、p.35 (11) 同上書、p.38 (12) 同上書、p.39 (13) 同上書、p.40
 (14) 見田石介『見田石介著作集』1巻「対立と矛盾」大月書店、1976年p.50



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