看護哲学の実在性

人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司

 看護学に哲学が存在するかという問題は、看護師と他者である患者との関係において看護師の在り方を吟味し、看護学における哲学の対象と方法を、把握することにあるだろう。そうした問題を捉えるには、看護学のうちに哲学の要素となる存在論と世界観そして認識論の実在性をとらえ学として成り得るかを、吟味することにある。看護の倫理学に詳しい石井トクは「看護師は健康上の問題を持った人々が心身ともに自律することを支援する専門職である。患者の苦痛を軽減し、安楽、安全を保障することが看護の基本原則である。ところが、看護師が患者の苦痛を増加させたり、時には苦痛を与えることもある。------そして看護の基本が遂行できるための哲学を持つことができる学問を本書では看護の倫理学と定義したい」(1)と看護師の倫理規定に基づく倫理の在り方を、提示している。さらに、石井トクは「患者の擁護者である看護師は、日々の倫理的問題に敏感に反応してほしい。そうして培われた倫理的思考力により------悔いのない意思決定の支援ができる」(2)と述べている。だが、この看護師の倫理規定に基づく倫理の在り方は、看護規約に沿った技術的で実践的なものであるが、看護師の自律的で理性的な倫理としては不充分である。

 現在の看護師と患者との関係は、生命倫理と医療技術の急速な進展に伴い看護師が多忙な日々の業務に追われ、残念ながら患者に耳を傾けることができずに、対象である個としての人間の尊厳ある生命を軽視する過ちに、陥りやすい状況にある。さらに、看護師は、チーム医療など高度の医療を求める社会的な要望の高まりと、利潤を追求する成果主義が横行するなかで、労働環境の悪化する条件の下にあって患者に適切な看護を提供することが、できない状況にある。だがしかし、われわれ人間は、誰でもが人生の成長過程において社会的に培われてきた倫理観を基底とした、人間の本質たる思考する能力である理性的な知識を持っている。看護哲学を成立させる理性については、生命科学や医学と生命現象の客観的な認識を基本としているが、近年の状況は終末医療や尊厳死に見られるような人間の存在との関わりを、現実問題として考えなければならない。このような人間の生死をめぐる世界は、日常的な人間関係を必要とされる看護の世界においてあると考えられる。こうした看護の世界では、F・ナイチンゲール(1820―1910)以降に見られる医療従事者としての人間の身体を、物質として捉える冷徹な目で見る理性的な知識と共に、人格を持った一人の人間として感性という能力を持つ人間性が、求められている。

 看護学は、看護師と他者である患者との関係において看護師が患者を看護することにあるが、その時に尊守するものとしては看護師の倫理綱領という客観的な規律を、守ることにあるだろう。この看護師の倫理規定において「看護師の基本的責任は、人々の健康を増進し、疾病を予防し、健康を回復し、苦痛を軽減することである」としている。さらに「看護師は、人間の生命を尊重し、また人間としての尊厳および権利を尊重する」(3)と叙述されている。このような客観的な看護師の規律は、すべての医療行為で守られなければならない高次の規律であるが、それが低次の規律となってはならない。つまり、現実の看護倫理学は、人間としての確固たる理念ではなく看護師の業務責任とか任務とかが問われ、労働環境の悪化するなかで日常的な激務に追われ内容的には、形式的なものになっているのが現状である。近年の看護倫理は、看護師と患者の関係する諸問題に対して本質的な面からの対応が希薄で、医療行為における現象界のみを対象とした消極的な誰でもが守らねばならない、低次の倫理である。しかし、このような消極的な看護の倫理では、終末医療や尊厳死に見られる生死に関わる問題に対応することは、難しいだろう。

 こうした看護哲学の在り方を、本間司は「法学に法哲学があるように、看護学に哲学からの提案をなさんとする一つの試みである。この試論をまとめようとした理由は、一つには現代哲学において存在論を考察するときには、必ず生命科学と伝統的精神文化との乖離を如何に関係付けるかの方策としての生命倫理が考えられているが、この倫理とは現象界における生命を対象としており、現象の背後にある人間存在そのものに対しては判断停止のままであり、生命の哲学的考察が必要であるという理由からである。そして、現に生きていて死を迎えつつある存在に提案することは哲学を学ぶものにとっては一つの責務であろうという理由からである。また一つには、生老病死の四苦という、人間存在の最終の、そして最先端の現場は看護にあると考えるからである」(4)と述べている。こうした近年の医療技術の発展でもたされた社会では、このように人間の生死に大きく関わるものとして看護の世界が、看護師と患者の関係する理論について単に学をつけるのではなく、看護の認識対象が他者である患者との相互関係にあることを捉え、自律した意志の自覚と認識方法に合意を得られる時に、看護哲学となり得るだろう。

 さらに、本間司は「看護師は看護師であると同時にひとりの人間であり、人間としての看護の立場に身をおいたとき看護哲学の必要性も生じるだろう。換言すれば、看護学の自己反省が看護哲学であり、看護学の良心といわれるべきものである。看護を単に客観的に考えるだけならば看護学でよいが、人間としての生き方をも含めて看護を考える時、つまり主観的にも看護を考えるならば看護哲学は必要不可欠であるだろう」(5)と述べている。このように看護学は、成立するが看護哲学としての成立条件として各人の持つ人間の在り方を捉えることが、求められているのである。一般に看護哲学を認識するには、その哲学を構成する要素からして存在論と世界観そして認識論の三要素を、把握することにあるだろう。看護の倫理については、これまで倫理という言葉を使ってきたが哲学の三要素から言えば存在論である、と言うことになる。だがしかし、この倫理の意味は、社会的な存在の局面に対応されるだけの消極的な倫理であり、人間の在り方としての看護哲学に見られるこの主観的で自律的な要素を、取り入れることが求められている。

 看護哲学は、看護師と他者である患者との関係を捉え吟味することで現象の背後にあり、現象を起こさせている本質を把握することで理性的な世界に入って、初めて積極的な倫理が生まれてくる。看護倫理の限界は、生命倫理の医療行為という現象界に限定された新しい客観的な規律の解釈や、それも本来的な解釈への回帰を示唆している。看護倫理において客観的な規律に欠けているものは、本来的なものとして倫理に含まれなければならない看護師の主観的な規律が、含まれていないことにある。たとえば、看護師の倫理綱領では、看護師は人間としての尊厳や生命を尊重するとされている。だがしかし、それを担うべく個々の看護師が、自らの自由と尊厳を有する人間としての自覚が看護の現場において、尊重され自律した看護師としての看護哲学を有しているとは、云えないだろう。看護師の主観的な自律なくしては、客観的な規律であるべき看護師の綱領は本来的な意味をなさない、低次の規律にならざるを得ない。看護の理念とは、人間としての看護師の理念と医療従事者としての普遍的な理念と一致することが、求められているのである。

 心ある看護師は、人間の本質が自由であると言うことを自覚することのうちに、看護する他者である患者が各々の可能性と成長する欲求を捉え、見て感じ取るのである。そこにおいて看護師は、他者である患者が健康回復とその成長のために自分を必要としている、と感じ取るものとしながらも看護の世界においては、自律的な看護が如何にあるべきかの哲学的な思索が、求められているのである。それ故に、心ある看護師にあっては、客観と主観の狭間で苦悩させられまた感性的な主観に目をつぶり悟性的な理性と、経験的な知識に基づいた客観的な看護理論や看護方法論の隆盛が、乖離となって現れているのである。そこで本間司は、人間の本質としての自由を自覚し自律した看護師についてその在り方を「主観格律と客観的綱領が自らのうちに一致せる看護哲学を自覚したときに、そのとき看護師は、人間としても自由な存在となるであろう。この自由な、そして人間として自律した自覚が個々の看護師には必要であると思われるのである」(6)と述べている。このような看護の世界のうちには、自由な人間として自律している看護師が他者である患者に対して、自律的に意志決定をするように見守ることが、できるようになるのである。

 自由な人間として自律している看護師は、他者である患者からより人間的に生きることを求められるならば、理性的な知識に基づいて助言ができるようになるだろう。しかし、そのことの内的な意味は、決してカントの言うような定言命令のようなものであってはならず、形式にのみにとどめなければならない。なぜならば、こうした助言を受ける他者である患者は、自由を持った一人ひとりの人間であることを決して忘れては、ならないからである。それだから、看護師は、こうした看護の行為を通して人間として自ら尊厳を持った人格となり、患者である他者も尊厳を持った人格となり得るものであって、人格の相互関係のうちに相互承認がなされるのである。このことの意味は、看護師と他者である患者との関係を相互的に捉える終末医療や、尊厳死など自律した看護師の行為は看護師のすべての現場で、必要となる自律的な態度なのである。そのことは、看護学の中心的な理念としての看護哲学にも通じる思想でもある。医療行為を通じての看護の現場においては、人間としての自律した看護師として看護哲学を認識することは、医学の発達に伴う新たな人間が生きるという問題にも対処可能となるだろうし、永遠に解決されることのない「生老病死」の社会からの付託にも、対応可能なものとなるだろう。

【注】
(1)石井トク『看護の倫理学』丸善株式会社、平成20年、p.5
(2)同上書 第2版まえがき
(3)日本看護師教会 『看護師の倫理規定』1988年、前文・第一条
(4)本間司「看護哲学試論」日本大学通信教育部通信教育研究所『紀要』20号2007年p.1
(5)同上書p.5
(6)同上書p.10・看護師は、高度の医療を求める社会や利潤を追求する成果主義が横行するなかで、多忙な業務に追われ労働環境の悪化の下で看護師はひとりの人間として、自律的な医療行為をすることができずにおり、こうした課題の克服がなければ看護哲学も水泡と帰してしまうだろう。




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