対立と矛盾の弁証法(16)・対立物の相互浸透

人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司

 M・コンフォースによると「社会的過程の本質的矛盾は、それぞれの特殊な社会構成体において特殊なあらわれ方をする。生産力と生産関係の間の矛盾は、種々の社会構成体において特殊な形態をとる。こうして資本主義社会においては、この矛盾は生産の社会的性格の増大と私的占有の持続との間の矛盾という特殊な資本主義的形態をとるのである」(1)と述べている。このことの意味は、あらゆる生物はその環境がなければ生きていけないが同時にその環境は、その生命に対する脅威を含んでおり生物は絶えずこの脅威に、打ち勝なければならないのである。或る種の生物とその環境の関係は、矛盾した関係なのである。こうした矛盾は、人間と自然の間の特殊な矛盾した関係という形態をとるのである。そうして、この関係そのものは、人間の社会的な発展の各々の段階でそれは特殊な形態を、とることになる。周知のようにわれわれ人間は、自然の一部分であり自然がなければ生きていけないし自然を人間の意志に、従わせて生きていくのである。

 この矛盾した関係は、関係そのものが発展し人間の発展につれて特殊な形態をとるのである。だから、こうした矛盾した関係は、各々の特殊な社会構成体において特殊なあらわれ方をするものである。或る発展過程を理解し把握するには、このような過程をどのように吟味し認識するかを学ぶために、われわれはその本質的な矛盾を知りこの本質的な矛盾が、特殊な場合においてとる特殊な形態を吟味しなければ、ならないのである。寺沢恒信は対立物の相互浸透について「変化、発展を全体的に認識するためには、思考形式の流動性、可変性、屈伸性が保証されなければならない。これを保証するのが対立物の統一の法則であるから、この法則こそが弁証法的論理学の基本法則である」(2)と述べている。このような思考形式は、弁証法的な論理学の全体を通じての基本法則であるから、全体に先立って取り扱われるべきものである。だから、対立物の統一という相互浸透の法則は、はじめに弁証法の基本法則として注意深く考察することが、求められている。一般的に対象を捉えるには、対象である事物の反映する事態を把握することにある。

 事物や事柄の変化や発展を認識するには、客観的な実在の変化や発展をありのままに反映することを、捉えることにある。それだから、事物の変化や発展を認識するには、われわれはまず客観的な実在の変化や発展はどのようにおこなわれるかを、考察しなければならない。事物の変化や発展は、最も抽象的に捉えてみれば或るものが他の物になる、と言うことである。だからこの他の物は、或る物でないものであってまた或るものは他のもので、ないものである。したがって、事物の発展過程における変化は、或る物が或る物でないものになることを他の物でないものが他の物になること、これが変化なのである。こうして寺沢恒信は「変化のなかには、その最も抽象的な形態のなかにもすでに、自己の対立物への転化、対立物の相互移行が見出されるのである。つぎに、発展とは変化の一種類である。変化の過程で、変化する前には存在しなかったような質的に新しい状態が生まれてくるような変化がある」(3)このような、事物や事柄の変化が発展なのである。

 事物の発展とは、単純なものから複雑なものへの運動であり新しい質の発生をもたらすものである。だから、事物の発展は、自己運動と否定性による自己発展であり事物の萌芽からそこに存在する諸要素が、内的必然的に現出する過程である。発展過程における否定性とは、ヘーゲル哲学の根幹を成す概念である。事物の変化と発展の関係は、変化する前には存在しなかったような質的に新しい状態が発生するという、このような変化が発展なのである。変化の過程においては、或るものから他のものへまた逆の過程への状態に戻るような変化もある。こうした変化について寺沢恒信は「変化は発展ではないから、すべての変化が必ずしも発展ではない。質的に古いものから質的に新しいものが生まれてくるような変化だけが、発展と呼ばれる。発展においては、対立物は古いものと新しいものと言ういっそう具体的な形態をとる。したがって、発展の中には、古いものの新しいものへの転化という形態をとって行われる対立物の移行が見出される」(4)と捉えている。

 自然における生物の各個体は、われわれの目の前で新しく生れて生きていた個体が死んでいくのである。このことは、生命のないものから生命のあるものへまた生命のあるものから、生命のないものへの移行である。このような、固体の内在的な対立物の移行は、単なる変化であるがしかしこの変化を生物学的に吟味すれば、非常に長い時間のあいだに古い種から新しい種への発展が、行われていることが見出される。このような事例は、生物の進化論によってよく知られていることである。生物の進化の過程は、歴史的に溯ってたどっていき最初の種に到達することで、生物が何から発生したものであるかを捉えることが、できるのである。地球上での生命の起源に関しては、古くは他の天体から胞子のようなものが移ってきたという説もあったが、今日ではこのような仮説が認めがたいものである。したがって、生物の最初の種は、地球上で無生物から発生したもので無生物の有機的な化合物から、生物への移行過程は次第に解明されてきている。このように、われわれ人間は、地球上でごく古い時代に行われたであろう無生物の有機化合物から、生物への移行という極めて根本的な対立の移行に、行き着くのである。

 客観的な実在の変化や発展は、事物に内在する矛盾や否定性を包含する自己運動であって、これらの変化や発展の原因を捉えることにある。だから、事物の発展の原動力は、事物に内在する矛盾や否定性の作用であって、それが発展の原動力なのである。事物が発展することは、単純なものから複雑なものへの運動であり、事物の萌芽からそこに潜在する諸要素が内的必然的に現出する、過程なのである。寺沢恒信は「自然の一部分をとって考える場合には、その部分の変化の原因がその部分の外にある、という場合がある。たとえば、庭の樹木が風で吹き倒されたり、海岸の岩が波に侵蝕されたりする場合にはそうなのである。しかし、これら変化の原因である風や波は、やはり自然の一部分である。だから、自然の全体をとって考えれば、原因は自然の内部にあり、自然の各部分がたがいに作用しあって、他の部分を変化させているわけである。これがすなわち自然の自己運動である」(5)と述べている。だから、自己運動とは、或る物が自分自身を止揚して他のものに変化することであり、事物自身の内在的な超出のことである。そこで、自然全体の自己運動は、何によって起こるかその原因は自然の内部にあるのかを、捉えることにある。

 実際に自然の自己運動は、その各部分が互いに調和しあって互いにつりあった、全体ではない。それとは反対にわれわれは、自然の諸現象や諸過程のなかに生と死・化合と分解など互いに対立する傾向を、見出すのである。このような対立する傾向には、作用と反作用・引力と斥力・膨張と収縮・過熱と冷却・融合と分裂など、きわめて多様な形態がある。そして、互いに対立する諸傾向がある場合には、自然の各部分の相互間で矛盾し排除しあう自然がそれ自身のうちに変化し、発展しているのである。このような、互いに矛盾し互いに排除しあう自己関係は、これが自然の自己運動なのである。そうした、自然の変化や発展の原因は、自然そのものに内在して互いに矛盾し互いに排除しあう対立した、諸傾向なのである。このような意味で自己運動による発展と否定とは、社会に関してもまたその変化や発展の原因が社会に内在する、対立物の相互浸透でありこの原因によって社会は自己運動している、と言うことが明らかになる。

 事物に内在する対立物の相互浸透は、必ず対立物の統一と抗争を伴っている。対立物に関しては、矛盾を伴わない統一はありえないしそのことを明瞭に表現することは、対立物の統一と相互浸透という表現でもって対立物の矛盾を、把握するのである。対立物の相互浸透は、簡潔な表現として矛盾という言葉で表現されている。対立物の相互浸透は、今までに考察してきた様々な互いに対立する側面が、相互に排除しあいながらしかも相互にまったく切り離されることができずに、互いに結びついて統一している。ということは、対立物が如何に対立的な性質を持っていても相互に切り離すことのできる場合には、両者は互いに無関心でいることができる。したがって、両者の抗争は、必ずしも生じないが対立物が切り離しがたく統一されている場合には、対立物は互いに無関心でいることではなくそこには、必然的に矛盾が起こるのである。このように対立物は、その一方だけで相手なしには存在できないものであり、互いに対立しながらも切り離しがたく統一されているのであるが、このことがまた対立物の抗争を必然的なものに、しているのである。

 寺沢恒信よると「例えば、作用と反作用は、ニュートン力学の第三法則によって明瞭に示されているように、必ず相伴っており、一方だけが存在することはできない。化合と分解にしても、もしも地球上でこれが一方的にのみ進行すれば、地球上における化学反応は遅かれ早かれ行きづまってしまうが、実際にはそのようなことはなく、ある場所で化合がおこなわれていれば、必ず他の場所で分解がこれに伴って行われている」(6)と述べている。このことは、一つの生物体に関しても明瞭に認められる。即ち、対立物の相互浸透は、矛盾する対立物がその一方だけで相手なしには存在できないことを、意味するものである。このような存在関係は、互いに対立しながらも切り離しがたく統一されているのであるがこのことがまた対立物の抗争を、必然的なものにしている。対立物が如何に対立的な性質を持っていても相互に切り離すことのできる場合は、両者は互いに無関心でいることができずに両者の矛盾は、必ず対立物の抗争を伴うものとなる。こうした対立物に関しては、抗争を伴わない統一はありえないのである。

【引用文献】
(1) M・コンフォース『唯物論と弁証法』小松摂郎訳、理論社1963年p.181
(2) 寺沢恒信『弁証法的論理学試論』大月書店、1963年p.25
(3) 同上書、p.26
(4) 同上書、p.26
(5) 同上書、p.28
(6) 同上書、p.32

総合社会情報研究科ホームページへ 電子マガジンTOPへ