『C.S.ルイスの贈り物』発刊に寄せて
博士後期課程・修了 山田 敦子
本書は、ルイス没後50年を記念して、本大学院の竹野ゼミでルイス研究を行った方々の論考とルイス協会発足時からの研究者による論考を、竹野一雄教授が編纂してまとめた記念論集である。この論集には注目すべき点が2つある。ゼミ生によるルイス研究を一同に集めて書籍化したことと、これまであまり見られなかったアプローチでルイスの全体像に迫ったことである。一つ一つの論考の内容の密度は濃い。
「序にかえて」の「アスラン 息」は、竹野ゼミ修了生でもある詩人柴崎聡氏が『ナルニア国物語』のアスランを詩に詠んだものである。詩の11行目「息は伝承を託されて命になる」と、最終行の「身内に秋の実りを成就させようとする」に注目してみると、記念論集第一部、第二部を合わせた12の論考はこの間の諸相を考察したものといえる。
竹野一雄教授の「C.S.ルイスの記念碑」は、その冒頭で、ルイスの命日(11月22日)に、ウェストミンスター大修道院においてルイスの特別記念礼拝と記念碑の除幕式が行われたこと、さらに「ポエツ・コーナー」や記念碑が据えられた文学者などが紹介されている。
竹野教授は、ルイスの「ポエツ・コーナー」入りの理由を、キリスト教の偉大な擁護者、優れた物語作家、不滅の〈憧れ〉の探求者と認められたからであると述べ、それはクリーフトの明察に出会ったからだと説明し、クリーフトの明察三つを引き合いに出している。第一、現代人のためにキリスト教教義と倫理について『キリスト教の精髄』よりもすぐれた要約を行った人はだれもいない。第二、イエス・キリスト自身が弟子たちの内に引き起こした畏怖と驚異と愛と同じ反応を、読者のうちに喚起するよう描いたものは誰もいなかったが、ルイスはアスランにおいて不可能事をやってのけた。第三、全ての人の心の奥にある天国に対する不思議な憧れ、神からの匿名のラヴ・レターである〈憧れ〉についてルイスほど明確かつ力強く描いた人はいない。
続いて、これらについて詳しい解説がなされているが、ここでそれを要約するのは難しい。この解説自体ルイスの業績が簡潔に要約されたものであり、一語一語にルイスの特質が凝縮されている。どの言葉、どの行も貴重で削るわけにはいかない。是非、実物を手にとって読んで頂きたい。
なお、竹野教授によるこのルイス論を一読した後、『C.S.ルイス歓びの扉―信仰と想像力の文学世界』、『C.S.ルイスの世界―永遠の知恵と美』、『想像力の巨匠たち―文学とキリスト教』等を読むとC.S.ルイスをより良く理解できるであろう。
川崎佳代子氏の「詩人ルイス」は、ルイスが散文を書く前に出版された詩集『囚われの魂』、『ダイマー』、その他長詩三篇と、ルイス死後フーバーによってまとめられた『物語詩』、『詩集』を紹介し、ルイスの詩のテーマが後に散文に集約されていく過程を追っている。
『囚われの魂』は、無神論時代のルイスの詩で、戦争体験を含んだ青年ルイスの精神生活が窺えるとし、不条理な世界への反抗と超絶的な霊または美の世界への逃避が詩集全体の通奏低音になっていると指摘している。長詩『ダイマー』はルイスの野心作で、イエーツを彷彿とさせる魔術師の登場や理性と感性の葛藤など自伝的要素が見られるという。
『ダイマー』の後に書かれた長詩は三篇あり、その内「名もなき島」は『魔笛』に触発された神話的二項対立の世界だが、最後に対立が和解によって解消し、全てが美しいものに変えられていく。川崎氏は、ルイスの意図は、それを神話的に描くことではなかったかと推論し、詩の中のいくつかのイメージは、後に散文の物語に活用されていると述べている。
「ランスロット」は未完の詩で、アーサー王伝説に関する詩である。マローリーの「聖杯探求」のエピソードでは聖杯探求失敗後のランスロットの変容は語られていないが、ルイスは聖杯探求にヌミノーゼという概念を見ており、従来のアーサー王伝説とは異なった切り口の「ランスロット」を完成させていれば優れたアーサー王関連の詩の仲間入りをしたであろうと、川崎氏は詩の未完を惜しんでいる。
「ドラムの女王」のテーマは、合理的領域と想像力の領域に引き裂かれる精神的対立であり、『囚われの魂』や『ダイマー』に通底するテーマだと見ている。この詩では、想像力はさらに二つに分かれており、それを『天路退行』と対比させながら詳細に検証し、「ドラムの女王」は、受洗しない想像力が辿る道を示していると解釈している。
最後に川崎氏は、ルイスの詩の特徴を四つ挙げて評価しているが、彼の本領は散文に発揮されていて、詩の中で展開されたテーマはすぐれた小説に集約されていると結んでいる。ルイスの詩を詳細に検証したこの論考は、ルイスの散文理解に大いに貢献するであろう。
櫻井直美氏の「『天路逆程』詳解」は、登場人物の名前に付与されたアレゴリーを解読しつつ、主人公の少年Johnがピューリタニアの国から憧れの島を目指す旅の足取りに沿って、ルイスの思想遍歴を丹念に追っている。
ジョンは、旅の途中19世紀合理主義者を表象するエンライトメント氏やフロイトのもじりであるジーギスムンドに惑わされるが、女騎士リーズンに助けられる。ジョンの前にヴァ―チューが表れては消えることを繰り返す。櫻井氏は、ヴァ―チューはカント的道徳律を暗示させていると解し、ルイスが理性によって19世紀合理主義やフロイトに代表される時代精神の呪縛から解き放たれたと読み解いている。
ジョンは大渓谷から北へ向った先で、ペイルマン三兄弟の小屋にたどり着くが、三兄弟は、カトリシズム、ヒューマニズム、クラシシズムを表していると解釈し、三兄弟の暮らしぶりや言動にルイスの痛烈な批判が込められていると説いている。
南へ向ったところで、自由主義的キリスト教を具現するブロード氏に出会うが、ルイスは、自由主義的な神学的見解を持った聖職者を厳しく批判していると、櫻井氏は指摘する。さらに南に向かったところで、ジョンはヘーゲル哲学を暗示させるウイズダム氏の小屋に辿り着く。ジョンは、ウイズダム氏の講話に導かれながら、絶対精神を受け入れて一元論へと導かれるが、ルイスが神を受け入れる直前にヘーゲル哲学と対峙したことを読み取っている。
本論考は、ジョンの旅の意味を解読することで、ルイスが無神論から哲学的観念論を経て〈絶対的善である神〉を受け入れた過程を明快に浮かび上がらせている。櫻井氏は、この作品が翻訳されていない理由に、不明瞭で難解なアレゴリーの使用を挙げているが、この論考にはその難解なアレゴリーに果敢に取り組んだ跡が読み取れる。『天路逆程』を詳細に検証したのは、我が国では本研究が初めてであろう。
松山献氏は「『キリスト教の精髄』に見る回心をめぐる問題」で、『キリスト教の精髄』はキリスト者にとって必携の書で、バイブルに次ぐバイブルだと述べ、その理由を、語りの技術の卓越性と内容面の明快な凝縮提示にあると指摘している。
語りの技術面としては、難解な言葉を用いない平易な分かり易さ、身近な例を引き合いに語る譬え話的技法、直前の内容を要約して次の話題に移る進め方、論理的な解説と合理的な分類整理、反論を想定した回答と弁証を挙げている。内容的な理由としては、さまざまな教義、教派、教会など、上物を取り去って最後に残る土台部分をこの一冊にわかりやすく提示していると説いている。
松山氏は、『キリスト教の精髄』は特定の概念について神学的に規定はしていないが、いくつかの神学的概念を明確に説明しており、その一つが回心だとのべ、回心はパウロのように劇的な一回的なものだけではないと説明している。ルイスが「変態」という語で説明する「新しい人間」は漸進的、無自覚に完成されて行く場合もあると指摘し、回心の意味と回心の始まりについて詳説している。その上で、『キリスト教の精髄』は、キリスト者が常に立ち帰るべき原点が示されていると論じている。
そして、キリスト教的土壌のない日本で『ナルニア国物語』を読む場合、キリスト教的意味が見逃されがちなことに言及して、ナルニアの風景や人物描写、語りや登場人物のせりふに含まれるキリスト教的意味合いを追求するためにも、『キリスト教の精髄』は有益だと述べている。
最後に、氏はルイスと相いれない点があると述べ、第一に時代制約的な部分、第二にルイス自身の限界と思われる部分、第三に信条的に筆者自身と相いれない部分があることを挙げ、その例として、フロイト理解、同性愛理解、女性理解を挙げ、民族や女性への偏見、戦争肯定的思想、キリスト教の絶対化に問題を感じなくもないと指摘している。
松山氏は、『キリスト教の精髄』の特徴は、平易で読みやすい点に収斂されると捉えているが、氏の語り口もまた、平易で分かり易く、ゆったりとした包容力があって無理がない。
高橋清隆氏の「痛みの問題を読む」は、ルイスが当初『痛みの問題』を書くことに躊躇したことに注目し、『痛みの問題』の中で、ルイスが受け入れた「生一本のキリスト教」の弁証をどの程度現実のものにすることができたかを考察している。
一章では、ルイスが宗教の起源ならびに宗教の発展段階について自説を提示していることに対し、高橋氏は、霊魂の段階はまだ生まれていないが、無生物でも天然現象でも神秘的に見えるものは全て生きていると感じ、そこに畏敬と恐怖を抱くことを宗教の起源とする考え(祖父江孝雄著『文化人類学入門』)は、ヌミノーゼ的な経験を宗教の起源の一つとするルイスと一致すると述べている。以下同様に、二章で「神の全能」、三章で「神の善」、四章で「人間の悪」、五章で人間の堕落、六章と七章で人間の痛み、八章で「地獄」、九章で「動物の痛み」、十章で「天国」をそれぞれ論じている内容を要約し、それに応答する形で考察を進めている。
これらの検証の結果、ルイスの「神の全能」に関する見方はシーセン等の神学者と一致し、人間の堕落に関する考え方は、自由意志に起因するというアウグスティヌスの考え方と一致していることを導きだし、それに基づいて、『痛みの問題』は「生一本のキリスト教」を提示することに成功しているという結論に達している。
高橋氏は、各章を詳細に読み解いて要約し、それに応答するという形で論を進めている。このやり方は時間がかかるので忍耐を必要とするが、あとで利用するときに便利である。これから研究に取り組もうという方の参考の一例になるであろう。
山村結花氏の「『悪魔の手紙』−悪魔の誘惑と現代日本社会の思潮の一端」は、ルイスとグレアム・グリーンとの比較を試みたジョン・D・ヘーグ(John D. Haigh)の見解を基に、ルイス文学の特質を提示し、『悪魔の手紙』におけるルイスの試みと「悪魔の誘惑方法」を整理分類した先行研究を確認し、それらを踏まえたうえで、山村氏にとって最も身近な問題として「恋愛と結婚」の本義をねじ曲げる悪魔の策略が記された10信、18信、26信に着目し、現代日本社会の思潮との関係を考察している。
山村氏がヘーグの論文で注目しているのは次のようなことである。グリーンの『ブライトン・ロック』の主人公が、人生は牢獄のようなものであり、生きることはゆっくりと死に向かうことであると言及することから、グリーンは「暗い神学」を描き出しているのに対し、ルイスは、暗い社会の現状を取り扱わない。ルイスのフィクションにおいて、「暗い穴」は「甘美な願望」によって相殺されるが、グリーンの登場人物にとっては、人生そのものが「暗い穴」であり、神のほのかな恵みが薄暗闇に浸透するに過ぎない。グリーンの作品には、慈愛と同義語ではない憐憫が用いられていて、憐憫は登場人物の鍵となるが、ルイスの『ナルニア国物語』にはこうした感情は描かれていない。
このようなヘーグの見解から、山村氏は、グリーン文学の特質が、社会に存在する悪と、カトリシズムの教義と社会的道徳との矛盾を描くことにあるのに対し、ルイス文学の特質は、社会の悪に直接触れず、宗教の教義と社会における道徳が矛盾することなく描かれ、地獄を描き出すことで天国を描き出すことにあると説いている。
グリーンの作品をさらに検証した上で、グリーンの作品では悪を経験し死を経た先に救済が示唆されるが、ルイスの作品では悪と善が同線上の対極に位置し、人はその線上を移動すると指摘している。
次に、悪魔の誘惑方法を、四つに大別し、第10信と「摂食障害」「少子化」問題、26信と「離婚率の増加」「結婚条件にみる外面的特権の重視」問題、18信と「家庭崩壊」「幼児虐待」問題を関連付けて検証している。最後に山村氏は、ルイスが70年前に描いた『悪魔の手紙』を基に、人が悪魔を信じようが信じまいが、人間の心のあり様、人間の営みの誤りと愚かしさ、人間の数々の苦境は、今も昔も変わらないと結んでいる。
安藤聡氏は「ナルニアの風景―理想的世界としての過去」で、ナルニア国に最も顕著な特徴の一つは日常性と非日常性の対照をなした共存であり、『ナルニア国物語』の面白さは、人間、言葉を話す動物、小人、妖精、神話上の神話的存在が違和感なく同居する世界にあると述べ、ルイスの喜びはそのような世界にあることを風景を媒介に論じている。
安藤氏は、ルイスが自伝で「家庭的なもの(親しみのあるもの)とよそよそしいもの(非現実的なもの)が鋭い対照をなして並置されている状態」に強くひかれていたこと、幼いころからファンタジー的な要素を多く含む空想的な文学を好んで読んでいたこと、15歳ころからオースティンなどファンタジー的要素を含まない小説をも好んで読むようになったこと等を挙げて、ルイスにとって「家庭的なものとよそよそしいもの」や「現実と非現実」の対照によってもたらされる「喜び」はオースティンの小説を」触媒として意識されるようになったことを明らかにしている。
そして、物語における風景を具体的に取り上げながら、ナルニアはさまざまな要素が混在する多様性と対照に富んだ世界であり、この現実と非現実、家庭的なものとよそよそしいものが共存する「雑多な」世界こそが、作者ルイスが幼いころからあこがれていた世界を具現化したものだと説いている。このような風景は必ずしもルイスと同時代の現実の一般的な田園風景と同じではなく、ナルニアは古きよき時代のイングランドあるいはアイルランドを思わせる世界で、ナルニアの田園風景が生垣によって区切られていないことからも、18世紀の第二次囲い込み以前の風景ではないかと推測し、ナルニアがある程度以上古い時代に属することの重要性を強調している。
ルイスが好む文学とは、古い物語文学の伝統に則った、想像力に訴えかける力を持った空想的な小説であると安藤氏は捉え、ルイスがナルニア国物語を執筆した理由は、同時代に自分が好む種類の文学作品が書かれていなかったことと、同時代に対するアンチテーゼだと説明している。それは、『ライオンと魔女』第5章で、教授の「近頃の学校では一体何を教えているのか」という科白に集約されていると指摘している。
ルイスが警鐘を鳴らした、想像力の衰退や伝統の喪失は「人間の根源的悪」と無関係ではなく、人間の傲慢さによって引き起こされると論じ、想像力の弱体化も伝統の喪失も「傲慢」と密接に関係すると捉え、現代的問題と関連付けて締めくくっている。
安藤氏の論考は、ナルニアの風景を通して、我々人間は、多様性と対照に富んだ雑多な世界で神と紐帯して実在していることを読者に確認させてくれる。
堀いづみ氏は「ナルニア国物語と香り」で、『ナルニア国物語』は、近代以降に時代が見落としてきた要素を回復させる物語となっていることを、ナルニア国と香りを結びつけて論じている。
はじめに、植物がもたらす香りは、豊かで奥行きがあり、人の心身に影響を与えることを香り成分で説明し、19世紀初頭から人は植物から成分を抽出するようになり、今日ではアロマセラビーとして知られるようになった歴史を語り、ルイスとアロマセラピーの関係は不明確だが、近代文明に対する逆の流れという共通項を持つと指摘している。
次いで、物語と香りとの関係を、脳の大脳辺緑系と呼ばれる生命を維持する本能的な部分と、大脳辺皮質と呼ばれる人間特有の論理的思考との関係で説明し、ナルニアの物語がルイスの本能的な部分に近いのと同じように、香りの感覚も本能的な部分に最も近い感覚であることを説明し、衣装ダンスの中を進む時の香りや感触に関連付けて説いている。
別世界との関連では、ルーシィが三度目にナルニアを訪れた時、本当の出来事だと彼女に確信させるのは海の匂いだということに注目している。海の匂いと共にナルニアという別世界が取り入れられているのであり、香りは切り替えのスイッチとなっていると指摘し、物語に出てくる、樟脳、ペパーミント、タイムにも香りのスイッチが働いており、これからナルニアに向かうという時に香りが背中を押していると語っている。
そして、香りは、こちらの世界と別世界をつなぐ役割も果たしているとして、リンゴに注目して論を進め、リンゴの香りは、ナルニアを守る防波堤として機能していると指摘している。次いで、『魔術師の甥』のアスランの言葉の中に、香りの持つ意味の大きさが表現されているとし、リンゴの香りが〈命〉を意味していることを提示し、香り高い別世界の要素が、こちらの世界で意味を持ち続け、再び二つの世界を繋ぐと論じている。さらに、ナルニア人にとっては〈命〉を意味するリンゴの香りが魔女にとっては〈死〉を意味しており、リンゴの香りの両義性も説いている。
堀氏は、香りと最も関わるのはルーシィで、〈憧れ〉を最も強く持つのもルーシィだと指摘する。香りはアスランと人々との関係だけではなく、人と人とのつながりもルーシィの香りの感受性を通して表現されていると指摘し、「ルーシィ―香り―アスラン」という図式以外にも、香りが急接近する場面を取り上げ、物語に点在する香りは、究極の癒し、究極の対照であるアスランを示し続け、良い香りの根源がアスランであることが物語に示されていると論じている。
最後に堀氏は、ナルニアの物語の中で、香りは根源的に大切な誰かを予感させ、確信させ、アスランを示す「しるべ」と機能しているとし、ルイス自身の神への探求にも「憧れ」が「しるべ」となっていることを提示して論を終えている。
今日、アロマセラピーは一般的であり、香りはさまざまな商品に取り込まれている。この論考で引き合いに出される香りは、間接的に読者の脳と嗅覚を刺激しながら、堀氏の論に引き込む力を持っており、香りが『ナルニア国物語』の内容と密接に結びついていることを読者に確認させる機能を果たしている。
川原有加氏は「『ナルニア国物語』における色彩表現」で、色彩語と物語との関連を、現実世界と別世界ナルニア国との出入りの場面と、キリスト教関連の七つの大罪、七つの徳に焦点を当てて論じている。
出入りの場面と色彩語との関連については、出入りの場面の描写は白で始まり、白で閉じられた円環を形づくっており、白は否定から肯定へと逆転して行くことを導きだしている。黄金色ではアスランとの関連、その他、青、緑、赤、黄、銀、黒などの色彩と物語の内容及び各巻の主題との関連を詳細に検証している。
キリスト教関連の七つの大罪、七つの徳については、『キリスト教の精髄』を参照して、事柄ごとに色彩語との関連を検証している。
以上のような検証を基に、川原氏は、ルイスは、物語の中に読者をどのように誘い、どのようにキリスト教の教義を浸透させ、読者を現実世界にどのように戻すかに細心の注意を払うが、それを完遂するために色彩語が重要な役目を担っているという結論を導き出している。
色彩語と物語との関連をこれほど詳細に検証したものはこれまで見られなかったことであり、川原氏の努力の跡が窺える。
川田基生氏は「愛餐文学としての『ライオンと魔女』」で、『ライオンと魔女』に見るキリスト教の「食べさせ、飲ませ」の愛餐の食事について考察している。川田氏は「コリントの信徒への手紙」(13・47)を引用して、これがキリスト教の愛であり、キリスト者の条件であり、『ナルニア国』のテーマだと説く。『二コマコス倫理学』を媒介に、ルイスが掲げる四つの愛のうち、フィリア(友愛)の特色を、人間にしかできない、相互性重視、行動的である点にあげ、パウロはそれを越える愛の形を提示していて、それがアガペーだと論じている。
アガペーは「ユダの手紙」(12)で親睦の食事と訳されており、『ライオンと魔女』で、アガペーの行為は食事として現れ、しかもナルニア国の古き良き日は、踊ってワインを飲むギリシア・ローマ的世界であり、食卓は清貧な中世的食事ではなく豪華なものと捉え、『ライオンと魔女』は食卓上の奇跡の物語であり、愛餐文学だと結論付けている。
最後に補記として川田氏流機智で、ルイス的食事ができるような「ルイス教のカテキズム(教理問答集)」を作成している。問答の冒頭は、Q「ルイス教の聖典は何ですか?」、A「ルイスの『ライオンと魔女と衣装クローゼット』『かけそば味のキリスト教』二書です」で、以後6つ問答が続く。
川田氏は、西洋的枠にとらわれず、禅の思想、明治時代の日本の出来事等を引き合いに出すなどして自由闊達に論じている。
中嶋千秋氏「ナルニア国のものいう馬−乗馬教本としての『馬と少年』」は、ナルニア世界のものいうけものたちに注目し、『馬と少年』を中心にナルニアと馬に焦点を当てて考察している。ナルニアには、〈ものいう馬〉と〈ものいわぬ普通の馬〉がいることを紹介し、〈ものいう馬〉はナルニア世界のヒエラルキーでは上位に位置すると指摘している。ナルニアにおける馬と人間の関係は、自然と人間の関係の象徴だと述べ、〈ものいう生きもの〉に語らせることで、現実世界の生きものたちへの思いやりを教示していると述べている。
そして、『馬と少年』では、二頭のものいう馬が人間の少年少女と直接会話しながら乗馬技術を教えており、優れた乗馬教則本になっていると指摘する。馬と少年少女との会話で、乗馬に対する心構えに始まり、馬装に関する説明、常歩、速歩、駈足、襲歩などが語られ、教えられていることを詳細に解説した上で、手綱の操作だけは王子コーリンが教えている点に注目している。中嶋氏は、馬のコントロールの仕方を馬ではなく人間から教えられたことには、ナルニア国のコントロールを最終的に託されているのがこの世界のヒエラルキーの最上位にいる人間であることが示唆されていると解釈している。
ナルニアには〈ものいう生きもの〉と〈ものいわぬ生きもの〉がいて、〈ものいう生きもの〉が〈ものいわぬ生きもの〉の代弁をしているところに、中嶋氏はルイスの動物愛護、環境保護の精神を読み取り、生きとし生けるもの全てに神の愛が注がれていることをこの論考において提示している。
堀越喜晴氏による「理解と誤解―『ナルニア国物語』におけるコミュニケーションの諸相」は、『ナルニア国物語』の登場人物たちの言語行動を通して、コミュニケーションを成立させるもの、あるいは齟齬を生じさせるもの、互いに理解し合い、あるいは誤解に陥ってしまう場合、さらにはどのようにしてミスリードされるかを検証し、これらに対するルイスの考えを浮き彫りにしている。
ルイスの言語観として、ルイスが15歳から1年間、父の恩師から個人授業を受け、伝達すべき内容を論理的に過不足なく表現しうるまでに言葉を練り上げるよう訓練され、「言葉に対する責任」を体得していることと、60歳を過ぎて、古い時代の作品を正確に、著者が意味したことをそのままに読書するにはどうすればいいかを論じた『語の研究』を出版したことをあげている。
堀越氏は、ルイスが『語の研究』で、言葉の意味の変質に無関心でいることの危険性に対して警告を発していると指摘している。言葉の本質的な意味を吟味しなければ、多かれ少なかれ、言葉は次第にgoodかbadかいずれかの同義語に収斂していく傾向にあると述べ、ルイスはこのような現象を言葉殺しと呼び、そのように用いられた言葉には、本来その言葉が豊かに持っていたイメージは既に失われており、「コミュニケーションの手段として役に立たなく」なっていると指摘している。ルイスにおいて、コミュニケーションとは、単にアドホックなレベルの意思疎通ではなく、時間・空間・現実・非現実といった境界をも超越して、人と人とが同じイメージを持つようになる営みであり、発信者にも受信者にもinspireされる〈命〉あるものである。そうでなければ、人類は早晩、腹(本能)と頭(頭脳)はあっても、それを塩梅する感情のすみかである胸のないものたちへと変えられてしまうであろう、というルイスの警告に堀越氏は注目している。
理解と誤解については、『カスピアン王子の角笛』で、アナグマとトランプキンの間で、王という言葉をめぐって齟齬が生じていることを指摘し、ルイスが、一般的に「王」」という言葉に付着している特権的なイメージや、利己的で安楽な生活をむさぼる者という既成概念を、後から付け加えられた「危険な意味」であると警告していると指摘している。
論理と現実をめぐっては、『ライオンと魔女』の中で、子どもたちが老教授に相談に行く場面を取り上げ、老教授が、子供たちに論理的に筋道だった考え方で物事を追求してたどり着いた結論は、どんなに「現実的」には思えなくても、また「非常識」に思えても、「論理」の導くところが真実だと説くところに、ルイスの思想を捉えている。
アスランにまつわるコミュニケーションの諸相では、アスランは最初に自分の方から語りかけることはなく、相手からの語りかけをまっていることをあげ、ここにルイスの神観や信仰に対するイメージが色濃く表れていると読み取っている。また、アスランは、思い込みに閉じこもってアスランとのコミュニケーションの回路を開こうとしない者には、何の技もなすことはないということを『魔術師の甥』と『最後の戦い』の場面を引き合いに論じ、ここにもルイスの極めてコミュニカティブな神のイメージが表れていると説いている。さらに、『ナルニア国物語』全体はアスランに向かっている(toward to Aslan)が、その逆の(away from Aslan)コミュニケーションについても検証している。
堀越氏は、『ナルニア国物語』の中の登場人物たちのコミュニケーションの場面に、ルイスの言語観、コミュニケーション観、神や信仰に対するイメージが表れていることを詳細に検証し、goodとbadのレッテル化に対するルイスの警鐘を読み取り、思い込みや先入観からの解放、心のベクトルへの意識、柔軟性と一貫性の保持などによって、コミュニケーションは良好なものとなり、共に高い次元へと上がって行けると論じている。
堀越氏による文学言語からのアプローチは、人々の良好なコミュニケーションへの新たな贈り物である。
以上見てきたとおり、この論集には、詩、未翻訳作品、風景、香り、色、食事、言語など、これまで見られなかった視点からアプローチした論考が収められており、『C.S.ルイスの贈り物』は、日本におけるルイス研究に新たなページを開いたと言える。