対立と矛盾の弁証法(15)・対立と矛盾の相互転化

人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司

 対象に対して認識が一致するのは、事物の真理の内実が対象と一致する知を特徴づけるが故に、肯定的なものであると言うことである。だがしかし、こうした一致が現存するのは、認識が対象に対して否定的に関係してそれに浸透した限りに、おいてのことである。だから、事物や事柄の真理は、同時に否定性の微表が帰せられることになる。そして誤謬は、それが真理の否定を表現するが故に否定的なものとして、規定されるのである。そのことは、ある強固な意見としての肯定的なものであって、その意見の見地を固執し諸々の根拠で持って、それを守ろうとする。そのことは、対立物がいかに流動的であるか、肯定的なものが如何に否定的なものであるか、また否定的なものが如何に肯定的なものに転化するか、を示したのである。シュティラーは、こうした関係についてヘーゲルから受け取った神秘的な性格を、批判するのである。そして、このようなことは、ヘーゲルによって次のことが証明されたことを強調することによって、彼の功績を評価したのである。だから、このような事柄は、根拠と帰結・原因と結果・同一性と区別・仮象と本質という固定した諸対立が、維持しがたいと言うことで分析は一方の極を他方のその内に、すでに萌芽の形で存在する物として証明するのである。

 対立物の相互転化は、弁証法的な把握のうちにその意味は二つの形で、捉えられている。その一つのものは、或る対立項が別の物に転化すると或るもう一つの対立項は、或る状態の現象の反対物への転化を、確認するのである。即ち第一の表現様式は、第二の事物の対立項が短縮された形態なのである。対立物の転化の場合に常に問題となることは、或る現象がその内的弁証法によって或る与えられた状態から、その反対の状態へと移行することである。だから、シュティラーは「対立物の転化は、第一義的には、二つの対立した現象と現象とが位置変換を行うという点にあるのではなくてむしろ一つの現象が対立した様態へと転化するという点にあるのである」(28)と述べている。だから、ここで理解されているような事柄は、或る状態から反対の現象こそが対立物の転化の法則の本質を、なしている事柄なのである。そのことの意味は、この法則にしたがう諸現象の運動傾向も発展傾向をも、表現するものである。この場合の問題は、諸々の事物の発展関係のうちに根底的な変化は、量的な現象の何らかの変化をもって始まるのである。

 だから「量的変化が蓄積されても、変化はさしあたりまだ古い質の内部にとどまっている。しかし、或る一定の点において量は質に転化する。今や量的変化は、ある根底的変化や質的変化が出現する度合いに達した」(29)ことなのである。こうした量的な変化と質的な変化は、他者への生成と各々の位置を取り換えることを、意味するものである。弁証法における変化の論理は、量は質へそして質は量へ転化することを見るのである。つまり、各々の両極性は、互いに相手のうちへと量的な変化から質的なものへと、移行するのである。もちろん、そのことは、量が質になるとことではないし、事物や現象は何時でも量的で質的な諸現象を、同時に持っている。しかし、量的な諸現象の変化は、或る一定の点で諸々の質的な規定性の変化を引き起こし、量と質との弁証法的な連関によって古い量と質は新しい量と質によって、取って代わられる。対立物の転化の意味は、量の変化が新しい質へ導きこれはそれ以上の量的変化の余地を与える、と言うことに他ならない。対立物の転化は、運動形態を規定する要素として量から質へと移行するのである。

 対立物の転化は、様々な仕方で量的変化と質的変化を伴いながら発展を、特徴づけることになる。事物の発展は、常に可能性から現実性への移行によって、可能性と現実性との位置変換によって、特色付けられている。また、そのことは、われわれ人間の活動によっても可能的なものは現実的なものへと、転化するのである。われわれ人間の活動による労働は、生産手段を捕捉しそれらを死から蘇生させ、単に可能的な使用価値から現実的で効果的な使用価値に、転化させなければならない関係なのである。だから、事物の現象は、外的な影響でそれ独自の発展によって分極的にその性格を、変化させることになる。すなわち、単に可能的な或る様態からは、現実的で具体的なものへと生成するである。可能性から現実性への移行は、或る事物の発展過程における一つの合法則的で必然的な連関において、表現すものなのである。つまり「発展とは、常に諸々の可能性の自由な定立であり、現実的なものへのそれらの転化なのである。この転化の必然性とは反対に現実的なものがまた可能的なものになりうる事実がある。現実性の可能性への転化は、方向性を持った------経過を表現するのである」(30)とシュティラーは述べている。

 だから「可能的な物の現実的なものへの移行に対応しているのは、新しい物が古い物にとって変わるという事実である。現実的な物をたんに可能的にすぎないものへ押し下げることは、古い物がいろいろとなお生産的な力を持っている」(31)のである。古い物と新しい物との関係は、古い物と新しい物との抗争の後に古い物が一見すると、もはや現実性が見られはしないけれども、それでもなお現実的な存在が見られるかぎりにおいて、古い物の内にあるすべての可能性も、消滅したわけではない。通常このようなことは、正面化せずに各々の両極の側面における闘争において、表面化することになる。古いものは、新しい物の決定的な打破をめざし新しい物に依然として対立し、この抗争を遂行するのである。新しい社会体制は、高度に発達した資本主義の諸条件のうちに、客観的な可能性として現存する。つまり、そのことの意味は、次第に激化していく逆抗的で社会的な諸矛盾のうちに、生産の集積と集中によって物質的に準備される。この可能性から現実性への移行は、無条件的で発展的な合法則性を示すものとなるのである。

 その第一の対立は、歴史的に規定された生きた全体の一つの主要な規定と、性質を持った事物の規定ではなくまたそれを、捉えたものでもない。生産と消費とは、相互依存的な反省関係をその具体的な内容に即して、過程的に見たにしてもそれだけではまだ、特定の社会形態の特定の関係として、それらを見たことにはならない。第二の対立は、或る事物の二つの側面の相互依存的な反省関係を見たもので、まだその事物の内部を見たものではない、と言うことである。その関係については、平均的に自立する二つの物の外面的な関係であって、それらは同じ一つの物の主体の二つのモメントとしては、捉えられていないのである。或る事物の二つの側面の関係を見る場合には、それを平均的に自立する二つの対立項の関係と見るのである。それらの一つの主要な規定は、性質を持った一つの事物の規定ではないのである。対立物の転化の現象形態は、一定の諸現象が量的変化のある点においてそれらの弁証法的な対立へと、移行する事態のうちにある。

 第三の対立と矛盾は、発生と消滅と生成という発展の過程のうちに、生きた全体としての事物の生命とその矛盾を現すものではない、と言うことである。現実の事物は、すべてにおいて発生し発展と死滅して生成する生きた矛盾物として、それ自身に留まりえないものである。このような対立関係は、ただ互いに一方が他方の条件となり前提となって、不断に発展する二つの物のいわば永遠の相互依存の関係を、捉えたものであってその関係そのものを覆す原動力は、矛盾を捉えたものではないからである。これら形式的には、第一と第二に共通する対立一般の欠陥であるが、内容的にはとりわけ抽象的で現実的な対立といわれる、第二の対立の一面性と抽象性を示すものである。それらと区別される第三の対立は、対立と矛盾とはどのような関係のものであるかについて、また矛盾と挟義の対立はとくに現実的な反省関係とは、どのような関係にあるのかを捉えることである。ヘーゲルの論点は、およそ次のような点に集約されると思われる。

 矛盾の一つの側面をなすものは、やはり今まで見てきたような反省関係である。だがそのことは、単に自立する二つの物の外面的な統一や外面的な相互依存の関係ではなく、同一の主体の非自立化されたモメントとしての二つの物の統一と、相互依存の関係である。だが、そこでは、平均的に自立する二つの物の反省関係ではなく、主要なものと副次的なものとしての二つの物の内にある、反省関係である。このような矛盾は、本質的には自己矛盾であるがそれは何よりも先ず同じ事物で、矛盾し合う二つのモメントの反省関係を、抜きにはありえない。同じ事物のうちに存する自己運動に見られる矛盾は、この内面的な反省関係に規定されて初めて事物は一つの自立する主体として存立し、自己同一性を保って発展するものである。生産と消費や生産と分配等の発展は、各々が同一の主体と同一の過程としての資本制的な生産の発展する、各々の表現なのである。そこでは、それらの間の照応的な発展があればこそ資本制的な生産は、一つの自立した主体と自立した過程として存立し、発展することができるのと同じことである。

 だから、対立と矛盾を把握するには、同一の主体の側面やモメントの内面的な反省関係と排除関係を見ないでは、その物の矛盾を捉えることはできない。矛盾のもう一つの側面は、同一主体の二つのモメントの間にはこのような反省関係が、現実に働きながらそれが同時にそれらの現実的な排除関係を、生み出す点にある。生産と消費の関係は、この意味で対立的であるだけでなく剰余価値的な生産を、唯一の原動力とするからである。資本制的な生産の発展は、消費の発展を不可欠の条件としてまたそれを促しながら、同時にそれを最低限に抑止すること不可欠の条件とする。ヘーゲルは、事物の矛盾について自立的な反省規定はそれが他の規定を含み、そのために自立的であるのと同一の見地において、他の規定を排斥するのである。だからそれは、その自立性の内において自己自身の自立性を自己から排斥するから、その意味で自立的な反省規定は矛盾である。

【引用文献】
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