対立と矛盾の弁証法(14)・対立の相関性と矛盾

人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司

 資本制社会は、一つの矛盾物としてその存立にとって必要な条件を生み出すことが、同時にその存立を脅かす条件を生み出すことになるからこそ、必然的に自分を解消へと駆り立てざるを得ないのである。一般的に矛盾は、互いに一方の発展が他方の発展を必要としまたそれを促す、という同一的な主体の二つのモメントの反省関係の発展を、その当の主体そのものの発展であるが同時にそれは、このモメントの自立化の発展とそれらの不一致や、排除関係の発展である。だから、事物の発展は、その内在的な否定を単に無方向に偶然的にではなく、傾向的に必然的に発展させるということである。このように現実の矛盾は、この二つの側面と反省関係と排除関係とをはっきりと区別すると共に、統一的に見て初めて捉えられると言うことがヘーゲル矛盾論の、基本的な内容である。ヘーゲルが捉える現実の矛盾の発展は、解消しつつある統一と不統一の発展であるが同時に解消しつつある不統一と、統一の回復である。だから、統一の発展は、不統一の発展を包含して統一を傾向的に必然的なものとして、含んでいるのである。

 この対立する側面は、反省関係や対立と排除関係という事物の本性を規定する必然と法則であるから、統一の必然についてはこれだけを見て統一の必然を見ないのもどちらも現実の矛盾を、捉えるものではない。ヘーゲルは、反省関係と矛盾を区別して反省関係の限界を明らかにしたのは成果であるが、その二つを混同して統一と調和を反省関係の内に矛盾を見て矛盾をただの反省関係や統一と調和に変えたのもまたヘーゲルなのである。だから、論理的矛盾と現実的矛盾との区別は、明らかにしなければならないことは相関性の問題なのである。相関性一般のうちに見出される事態は、現実的矛盾と論理的矛盾との関係を捉えることにある。そこにおいてわれわれは、いったい相関性と現実的な矛盾とはどのような関係にあるのかを把握することにある。そして、相関性と論理的矛盾とは、どのような関係にあるのかと言うような事柄を区別して問題を把握することにある。このいずれの問題は、ヘーゲルの論理学と深い関係がある。この問題については、いまなお見られる混乱は他ならぬヘーゲルに由来しているからである。

 われわれは、対立と矛盾が反省関係と相互排除の関係を吟味することで、この問題を充分に把握して矛盾に関わる何を理解しているかを、明らかにしなくてはならない。ここでの考察対象は、相関性と現実的矛盾との関係であるがここでまず明確にすべきは今日なお多く見られるこの両者の混同が、対立という概念の多義性にあるだろう。哲学史的に見ても対立の概念は、アリストテレス以来の対立という概念に含まれている意味は非常に広くそれは、論理的矛盾と区別と定義する相対関係にある。このように対立と矛盾の内的意味を把握することは、ヘーゲルが対立の相関性をその物のうちに論理的矛盾を見出していると言うことのうちにある。だからヘーゲルが、相関性を論理的矛盾に仕上げる手続きは次のようにおこなわれているのである。相関関係のうちにある二つの側面は、たとえば上と下や左と右などの対立する各側面を取って見ると、そこには一方は他方から区別されしかも一方は他方なしには、存在しないという関係にある。

 ヘーゲルは、相関性を次のようにして論理的矛盾に作り上げるのである。「対立物の各々は、第一に、他方が存在する限りにおいて存在する、第二にそれは他方が存在しない限りにおいて存在する」(1)と述べている。この意味からその内容は、他方が存在することや他方が存在しないという表現を相関性においては矛盾律を、犯しているように見える。しかし、より探求して考えて見るならば、この場合二つは決して同じ意味ではないことが明らかになる。この対立物は、他方は存在しまた存在しないといわれるがそれはいったいどこに存在しまた存在しないのか不明である。存在するといわれる場合は、それは右が左の地には存在しないこと両者が空間的に区別されていることを意味する。この相関性については、どんな独自の論理があろうとそれは少なくとも論理的矛盾ではない。われわれは、相関的なものの一側面を独立化された抽象とすればやがて思考内で論理的矛盾が生じるである。しかし、この一面化から生じるものは、論理的矛盾と相関性そのものをヘーゲルのように論理的矛盾とするのとは、別なことなのである。

 そこで言えることは、われわれがヘーゲルの積極面を継承し発展させることは彼のこうした混乱を、明確に批判することにある。そこにおいてわれわれは、ヘーゲルが対立から矛盾へ移っていく際の最後に矛盾と考える事態とは何かを捉え、そこにどんな問題があるかを明らかにしなければならない。われわれは、すでにヘーゲルが対立物の分極的な各側面のうちにどのようにして論理的矛盾を見出してくるかを見たのである。そして、そこに見出される内実は、ヘーゲルが考える論理的矛盾がそこにおいて対立から矛盾への認識過程を、なしているものである。すなわち、一方でヘーゲルは、対立その物の内に矛盾を発見するのであるから対立と矛盾とは、同じものであるように見える。ところが他方でヘーゲルは、矛盾の内にある新しい事態について述べているようにも、見えるのである。つまり、ヘーゲルの矛盾は、対立と違っているようにも見えるがこの問題を解決するためには、我々は先ず矛盾の下でどういう事態を考えているかを、見定めなければならない。

 ヘーゲルによれば、対立と区別して矛盾の下で新しく展開される事物のうちに内在する否定性を把握し、自己運動を認識することにある。換言するならば、或る事物が自分自身のうちにその自己否定を内在した他のものを、含んでいると言うことである。対立から矛盾への移行について言えば、ヘーゲルは先ずこのような事態を対立の各側面のうちに見出して今度は広くこのような事態そのものを、矛盾という新しいカテゴリーとしたのである。このような、対立する事態は、この矛盾という事態について相関の各側面にのみ留まらず事物一般に適用することが、できるようになる。たとえば、生あるものは、萌芽の時から死を自己のうちに含むと言うように理解することが、できるようになる。だから、一般に矛盾という事態は、すべて世界を動かすものは矛盾であるという内容が矛盾という概念をそのような意味において、用いているのである。簡単にいえば、対立において二つのものが相互に向かい合っている事態が考えられていたのが、矛盾においては自己のうちにその否定が内在するという事態が、考えられるのである。ヘーゲルが、このような事態を見出してそれを世界の原理としたことは彼の大きな功績であると言えるだろう。

 だがしかし、ヘーゲルにある混乱は、その方法の本質において相関性の一側面から他の側面へと進む思考過程を、実体化するために同時的な連関と変化における連関とがその思弁のうちでは、区別されなくなることにある。つまり、ヘーゲルの思弁の内には、相関性の一側面の矛盾も変化する事物のうちにある矛盾も同じものに、なってしまうのである。ヘーゲルは「運動や衝動のようなものの内では、矛盾はこれらの規定の単純性のうちに隠されていて、表象には見えなくなっているが、これに反して相関的な規定のうちでは、矛盾は直接にその姿を現す。上と下、右と左、など無数の最もありふれた例は、すべて一方のうちにその対立を含んでいる。上は、下でないものとしてのみ規定されており、しかも下がある限りにおいてのみ存在する。その逆の場合も同じである。つまり、一方の規定のうちにその反対が存在する」(2)と述べている。このような対立は、論理的矛盾でもなければまた現実的矛盾でもなくて単なる相関性なのである。

 われわれは、このような対立をそこに現実的矛盾を見出そうとするならば、相関する二つの側面の間に現実的な抗争関係が示されなければ、ならないのである。ここにおける問題は、ヘーゲルが捉える矛盾の規定を事物の変化との関係において、どう評価したらよいかと言うことである。この規定そのものは、正しいがそこにはなお明らかにすべき二つの問題がある。その一つの物は、それは果たして論理的矛盾であろうかという問題であり、もう一つのものはそれが現実的矛盾とどんな関係にあるか、という問題である。第一の問題は、ヘーゲルが自分自身のうちに矛盾を持つ限りにおいてのみ運動し、衝動と活動性をもつという場合にこれは決して、論理的矛盾ではない。ヘーゲルは、これによって反弁証法的思考を破ることはできるがアリストテレスの矛盾律を、破ることはできないのである。ヘーゲルは、具体的な例について語る場合にそのように言ってはいない。たとえば、彼自身は、いわば生命は自己のうちに死を含むという関係を具体的には次のように言い表現している。「生あるものは死ぬ、しかもその理由は、生あるものが生あるものとして死の萌芽を自己自身のうちに持っているからである」(3)と述べている。

 このことの意味は、この事態において生が死であると言うことでもなければ、或る事物が同じ意味で生きており且つ死んでいると、言うことでもなくて生命という過程のうちに死を必然とすることが、含まれていると言うことである。ヘーゲルは「有限なものは、あるものとして他のものに無関係に対峙しているのではなく、即時的に自分自身の他者であり、したがって変化するものである。変化において、即時的に定有に属し、そして定有や自己を超えて追いやるところの内的矛盾があらわれる」(4)としている。さらに、われわれは、有限なものはすべて変化を免れないことを知っているが、しかしこの定有の可変性については表象にその実現が定有そのものに基づいていない、単なる可能性と思われている。だがしかしヘーゲルは「変化は定有が即時的にそうであるものの顕示にすぎない。生あるものは死ぬ。しかもそれは、生あるものが生あるものとして自分自身のうちに死の萌芽を担っているからに他ならない」(5)としているのである。

【引用文献】
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