臨時教員の日々

文化情報専攻 13期生 齋藤 美香

 これまでの私の社会経験を述べると長いのであるが、中学校を卒業した後からニット製造やトラックドライバー、事務員やサービス業まで様々な業種で働き、仕事をしながら高校や大学を卒業、大学院を修了し、何とか教員免許を取得した。しかし、二つの大学院を修了した頃には中年になっており、教員を希望しても正規採用は厳しかった。

 しかし、その後、臨時的任用教員制度によって産休代替教員に任用されたことは夢のようであった。最初の任用は3年前、2010年8月で、西多摩郡の瑞穂町の中学校でとりあえず3ヶ月教壇に立つという話であったが、結局、任期が伸びて2011年3月まで採用された。教員の仕事は非常に忙しく、慣れるまでが大変であった。学校が自宅から遠かったため、通勤には2時間近くかかった。副担任や部活動を任され、女子バレー部の顧問になったため、土日も仕事をすることになった。また、定期試験の頃は試験問題作成や成績付けも担当した。始めの頃は学年主任や学部主任、教科主任に内容を見てもらった。校長先生や教頭先生、更に町の役場から指導に来て下さる方にもお世話になり、授業を見てもらい、指導を受けた。授業の合間には教材研究も行った。授業の他には校務分掌があり、教務に関わった。また、学年便りの担当にもなり、学年主任から校正を受け、文章の書き方を教わった。年間行事に合唱コンクールや校外学習があり、合唱の指導にも加わった。病気がちな先生が学校を休んだり、家族の方の不幸があったこともあり、何度か担任を任された。
 慣れない仕事で毎日の帰宅は夜遅くなってしまった。しかし、毎日遅れずに何とか通い続けた。東日本大震災のときには電車が止まり、1週間片道3時間をかけて自転車で通った。瑞穂町での経験は、人との関わり方、教育について先輩の先生や役場の方に教わることが多かった。
 それから約1年後、江戸川区で産休代替教員として再び教壇に立つことになった。今回も中学2年生の副担任であった。生徒150人のテスト採点や成績付けは骨の折れる作業であった。定期テスト後は生徒のノート、ワークのチェックや採点のために職員室の机には山が出来る程で、生徒にテストを返すために徹夜をすることもあった。校長先生や副校長先生、学年の先生方に多大なご指導をいただいた。授業の他には英語部の顧問、校務分掌では再び教務を務めた。その他に、学校HPの作成にも関わった。また、人権教育の担当にもなり、江戸川区の教員研修・講演会に参加した。ホームレスや北朝鮮の拉致問題等について考えることができ、大変有意義であった。

 今年、7月から10月までは杉並区の特別支援学校の産休代替教員として任用された。特別支援学校は初めての経験である。肢体が不自由な生徒たちのクラスである。学校の始まる時間は、これまでの学校よりも遅い。最初に職員の打ち合わせが行なわれるのであるが、とにかく教職員の数が多い為、最初の校長先生や副校長先生、企画室長の伝達事項の際はマイク使用である。小学部から高等部までの教員、訪問学級や自立訓練の担当教員、さらには介護士の方々も打ち合わせに出る為、大勢になるのである。
 学校には更に栄養士、自立活動を担当する理学療法士や作業療法士、保健室には看護師や養護教諭等がいる。授業では教員や介護士がマンツーマンで生徒に付き添う。授業中には生徒の痰の吸引や水分補給に看護師が来られる。生徒よりも職員が多いのである。

 特別支援学校の朝は職員の打ち合わせの後、生徒のバスの出迎えで始まる。生徒は殆どが車椅子で、普通に歩ける生徒が少ない。私は介護の資格があるので採用されたのであるが、授業以外は殆ど介護職と同じように生徒を支援する。教室に生徒を連れて行くと、生徒のリュックから荷物を出してもらう。普通に自分の荷物を出せる生徒と出せない生徒がいて、少しずつ自分でやってもらう。会話も出来ない生徒、少しであるが会話が通じる生徒、やり方も様々である。水筒と日常生活のファイルを取り出し、体温を測る。まずは日常生活の指導から始まり、トイレに連れて行くと漸く始まりの会である。生徒の名前を呼んだり、今日の天気や予定、給食のメニューを一緒に確かめる。学年で挨拶した後、自立、認知、肢体の障がいに応じて、また能力によってグループに分けられる。少しは日常生活が送れる自立の第1グループ、重度障がい者の第2グループ、ほぼ普通学級として、学習指導要領に準ずる課程を受ける第3グループである。 学校に来れない生徒には訪問学級もある。中にはカテーテルや人口鼻、胃ろうを付けた生徒がいて、私が担当した生徒は発作が起こることもあるというので常に目を離せない状況であった。会話が出来ない生徒は、直前に教員や介護師が特別な機器に「おはよう」、「はい」等の言葉を録音し、生徒は名前を呼ばれるとスイッチを押して答える。 あるいは天気の絵や曜日の文字のカードを選んで、コミュニケーションをはかる。学校は病院のようでもある。自立活動の時間はリハビリ訓練になっていて、自立活動の担当教員がマッサージや歩行訓練を行う。指導は前期と後期に教員がプログラムを計画して行なう。普通の学校では、成績評価は定期試験や提出物、授業の態度等から勉強ができるようになったかを見る。しかし、特別支援学校では保護者と教員が、生徒にどういう学校生活をして欲しいのかを話し合い計画した内容について、授業や学校生活の中でどう成長したか、変化を見るのである。体の不自由な生徒の場合、目の動きや小さな体の動きを観察するしかない。算数や国語の授業は、生徒を仰向けに寝かせて天井に映像を映し出し、光るおもちゃを見せて目の動きを見るものであった。生徒により、表現の仕方は様々である。ある生徒は声が出ないけれど、車椅子の上で体を大きく揺って嬉しさを表現する。また、ある生徒は目を大きく見開いて表現する。生徒は教員と様々な体験を通して表現の仕方を学んでいる。教員は授業を通して、生徒を元気づけながら、表現が増えるようにするのである。

 夏休みはプール指導の他は生徒が殆ど来ない日が続き、研修三昧であった。私は英語教科担当であるが、研修では教科の他に医療的ケアや摂食指導、水泳の研修等を受けた。医療的ケアの研修は痰の吸引や経管栄養についてであった。人体や車椅子、装具についての研修もあった。

 スポーツはボッチャやハンドサッカーで体を少し動かす程度である。ボッチャという競技はパラリンピックの競技にもなっているそうで、赤や青のボールを目標物(公式競技では白いボール)にいかに近づけるかを競い合う。 休み時間は教室のマットに生徒を車椅子から降ろし、教員は一緒に寄り添う。寝ている生徒もいれば、音楽を聞いたり、踊ったり、パズルで遊んでいる生徒もいた。ipadにタッチして文字を覚え、ゲーム感覚で学習をしている生徒もいた。あまり字を書いたり、読んだり出来ない生徒にはアプリはとても使い勝手の良い学習ツールだ。特別支援学校は雰囲気も生徒も明るく、私は生徒から元気をもらったような気がする。

 特別支援教育に就いてから、障がい者について考えるようになった。私たち健常者は障がい者をサポートしているのであるが、障がい者自身が独立できる状況を奪ってはいないか考えなければいけない。重度障がい者の保護者は、学校に来て待機している方もいらっしゃった。保護者の日常もどんなに大変なことかを知らなければいけない。

 英語教育に関して大学や大学院で学んできたことを学校現場で生かそうと教員になった。今回、特別支援学校で働くことが出来たのは、ヘルパーの資格を活かして福祉の仕事をしながら英語教育に従事したいと思ったからである。英語の授業では2名の生徒を教えていたのであるが、個に応じた教育はとても難しいと感じた。人には能力の差、それぞれ得意な分野と不得意分野がある。

 学校では、生徒を評価する。教員も上司や保護者などから評価される。大学院も同じだ。比較されることで自分が、時々ちっぽけな人間でしかないと感じてしまう。一方で、平成14年、学習指導要領は相対教育から絶対教育に変えていくことを唱えた。また、平成24年の新学習指導要領では、「個に応じた指導」の充実、「生きる力」を育むことを重視している。特別支援学校での数ヶ月間、こうしたことについて、日々、考え続けた。私は大学院を修了して、教育者として社会に貢献出来る人間になったことを誇りに思いたい。文化情報専攻では文学を研究しながら他国の言語や文化、歴史の知識を広げてきた。ここで得たことを教育者として社会に還元出来ることが私の「生きる力」になり、生きる喜びになっている。





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