対立と矛盾の弁証法(13)・対立と矛盾の相互関係
人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司
資本制社会における生産関係を正しく把握するには、それらの対立的な相互関係を基礎におく生産様式として考察しなければならない。これらの場合には、各々の社会的な両極端の対立物は逆行的な一体性を実現しているのである。つまり、このような対立物は、相互に補完しあっているが調和的な仕方ではなく内在的な矛盾を包含した、仕方において対立しているのである。こうした対立関係を、シュティラーは「根本的な両階級のそれに由来する社会的諸対立、たとえば労賃と利潤のようなものにも当てはまる。一面ではこれらの対立は、資本主義的諸条件の下では必然的な交互補完であり、両者は一つの関係の両極なのである。他面では、両者の交互関係において表現されるのは、両階級の闘争である。もろもろの事物や現象の内的対立の交互作用と並んで、事物がその周囲の世界とおこなう交互作用が現出する」(15)と述べている。つまり、社会的な両極端の対立項は、相互関係においてそれは環境へ働きかけ環境から諸々の作用を受け取るのである。この交互作用は、原因と結果と事物の反作用と相互転化によって実現される。
このような対立関係においては、支配的な側面の位置交換が生じ主導権は環境から系への移行を次第に強めていくのである。対立物の闘争という形式における両者の交互作用が出現するのは、何よりまずこのような相互の関係に見られる社会生活の場面においてである。そこにおいては「社会生活の様々な領域でおこなわれる諸階級の闘争は、階級社会の発展過程の内実となっている。それは社会発展の原動力である。個々の階級の特殊な目的の貫徹をめぐる抗争において諸々の社会的志向の相互対立が成立する」(16)のである。そのことの意味は、支配的な階級の諸々の地位を掘り崩し進歩的な勢力を強化する傾向を持っているのである。進歩的な諸勢力は、最後には社会的な諸関係の根底的な改造によって新しい社会秩序を打ち立てることになる。こうした相互関係の弁証法は、その相互関係の発展の性格や諸形態はその相互関係の両極端の互いに異なった特殊な事情から、生ずることになる。労働者階級と資本家階級の富との相互関係は、それは私的所有に関係する世界の形態である対立物としての全体なのである。
一般的には、社会生活の様々な領域でおこなわれる階級間の闘争は労働者階級と資本家階級の交互関係に基づいて、これを明確にしている。労働者階級と資本家階級とは対立物であるそれらの関係は私的所有の世界の形態において明らかである。このような問題は、両者が対立関係で占める位置においてそれらを一つの対立項の両側面として明らかにするだけでは、充分に説明されていない。資本家は、自らの対立項として労働者を維持するように強制する。これに対して労働者は、その歴史的な使命という意味において自らの対立項として資本家を否定するように、強制するのである。一方の対立項は、その関係の肯定的な側面を他方のそれはその関係の否定的な側面を表現する。両側面の相互作用からは、発展がそれらに依存している諸々の実在的な潜在力から社会過程の形式と内容とが、生じるのである。一般的には、発展的な対立物においては次のような事情が存在する。すなわち、この両契機は、異なった存在意義を持っていて一面では持続の契機が他面では変化の契機が鮮明に描き出されるが、それは系全体の変化と発展の結果なのである。
だがしかし、対立的な諸傾向の相互作用は、階級社会においてはただ社会の諸階級間においてのみならず、それらの内部においても存在する。このような相互作用は、同じ様に対立物の抗争という形式においても出現し、それが同じく社会発展のダイナミックスを規定する。たとえばシュティラーは、資本家と労働者の関係する問題について「資本家たちの側では、競争という形式において資本の集中が達成される。どの一人の資本家も、多数の資本家を打ち滅ぼす。この発展は、資本主義的独占の力の増大へ、したがってまた、終局的には、生産力と生産関係との矛盾の先鋭化、および資本主義的階級支配の基礎の掘り崩しへと導いていく」(17)述べている。労働者の側での相互作用は、労働運動のなかでの進歩的な理念の貫徹をめぐる闘争という形態において諸形態との闘争のなかで、対立物の抗争は遂行される。この闘争のうちには、特殊な仕方において社会の基本的な階級の闘争が反映されているがそれにひきかえ、資本家たちの相互抗争のうちには資本主義的な私的所有社会の強制的な諸法則が、主要な問題となっているのである。
したがって「対立物の一体性は、階級社会においては、たんに基本的階級相互の関係のうちにのみならず、また社会的有機体の両極内部の互いに異なり且つ対立している諸傾向の関係のうちにも出現する」(18)のである。この場合には、対立物の一体性は与えられた社会構成体を両極の相互作用が定立することで規定されている。そして、対立物の一体性は、同一の社会的で基本的な利害を基礎とする時に両極の交互作用によって、増大するのである。対立物の一体性は、搾取され抑圧されている労働者の側では彼らの本質からしてより強固に基礎付けられているが、それに引き換えその対極においては総じて私有財産という事からして人間を分裂させるから、不安定なものである。だから、対立物の闘争は、新しい社会においては資本主義におけるのとは異なった性格と形態を持つのである。社会的な対立物は、矛盾を解決することで解決されるが社会のあらゆる利害が原理的に諸対立に路をつけ急速に解消させる可能性が与えられ、可能性が成立するのである。
こうした仕方で対立物の発展は、対立物に固有な諸々の運動形態を生み出すことになる。与えられた対立は、その対立の現実的な存在形態や発展形態を表現するより発達した対立において、自らを外在化するのである。この発展過程は、それ自体が対立的な経過と対立関係の初期の発展的な局面において本質的には両極の一致が支配しており、これに反して後期の時点では両極間の不一致と抗争が、出現するという経過をたどることになる。このような対立物の不一致は、与えられた対立項の本質に対応して逆行的な本性を持ったり非逆行的な本性を持ったりするのである。だが終局的には、抗争の克服や新しい基盤のうえでの対立物の作用の同等性の回復が帰結する。もちろんこの合法則性は、異なった条件のもとでは異なった仕方で作用する。そのことは、とりわけ対立物の抗争の諸局面の様々な性格とそれらの異なった解決の道において、示されることになる。このような「もろもろの対立は、それらの本源的な逆行的性格を失い、非逆行的形態において現存し続け、交互作用することができる。そのことは、使用価値と価値、具体的労働と抽象的労働という対立物に当てはまる」(19)ものでもあるだろう。
こうした対立物の抗争は、生産手段の社会化と共に逆抗から解放され非逆抗的な対立物として作用し続けるのである。対立物については、すべての事物の現象がこの上なく様々な相互的な連関のもとにあるように連関の特殊な形態を経過して、それらの一体性と交互作用とを実現するようになる。シュティラーは「われわれは、この連関を特色づけるために、媒介という概念を使用する事にする。対立物の媒介ということで理解されなければならないことは、対立物の一体性ならびに交互作用、闘争が媒介的諸傾向を必要とする、という事実である」(20)と述べている。こうした両極端の間には、ある媒介項が入りその時々に問題化する矛盾した一体性を保障するものである。このような媒介項については、個々の現象であることでもあるが諸々の事物や過程の全複合体を意味するのである。この媒介という観点のもとでは、対立物の関係は一つの推理という形態を受け取ることになる。つまり「それの内部において両極が媒介項によって連結された物となるような、そういう或る三項的相関関係が問題となる」(21)のである。
こうした関係は、エネルギーの流動を対立物の媒介の最も一般的な形態と見ることもできる。この媒介的な関係の普遍性は、すべての相互作用的な現象を原因と結果という対立関係を実現することを通して、種々の仕方で相互関係を取り結ぶことにある。科学的な認識の意味においては、情報の流れをエネルギーの流れの場合と同じように普遍的な性格を持った媒介項と、見なさなければならない。科学的な情報の流れは、エネルギーの流れと最も密接に連関しながら交互作用において対立物の媒介項を、作り出すのである。最も単純な形態において考察すれば媒介項は、二つの対立項の結合を作り出すことになる。交互作用的な媒介項についてシュティラーは「たとえば植物は太陽と動物界との媒介項の役割を演ずる。つまり葉緑素粒が、全有機界とわれわれの太陽系の中心的なエネルギー源とのあいだの連結項として現れる」(22)のである。このような、因果的な交互作用的な諸関係の両極は、ある現象に媒介された結合において現れることを意味する。因果的な関係は、媒介的な相関関係として理解され媒介項によって、実現されるのである。
だから、対立物の媒介項は、それ事態きわめて媒介的で複合的な性格を持っていてそれは中間項と媒介物の本性からきている。すでにヘーゲルは、媒介される両側面を中間項がそのうちに含んでいることが必然的な対立傾向を提示することで、中間項に特徴的なことと見ていた。実際このことは、媒介項が対立しあう両極端の結合を作り上げることの一体性の内部で対立的な諸現象へ関係することから、明らかになるのである。たとえば、分配交換との一体性は、生産と消費との媒介として規定したのである。ヘーゲルにとっては、中間項の対立的な構造は分配が社会から出発する契機としてまた交換が、諸個人から出発する契機として規定されていることから、明らかにされた。中間項が両極の対立項を総括しているという事実は、同時に媒介項が自立的な役割を演じ両極端に比較してより高い潜在力として出現する可能性を、根拠づけている。その場合に媒介は、もはや対立物のたんなる媒介としてではなくて自己自身との媒介として、主体的にあらわれるのである。
【引用文献】
- (15)G・シュティーラー『弁証法と矛盾』福田静夫訳、青木書店、1976年p.420
- (16)同上書、p.43 (17)同上書、p.44 (18)同上書、p.44 (19)同上書、p.46 (20)同上書、p.47
- (21)同上書、p.47 (22)同上書、p.47