川原有加 著
『ホビット』を読む――『ロード・オブ・ザ・リングズ』への序章
(かんよう出版・2013年1月1日)

文化情報専攻 教授 竹野 一雄

 本書はトールキン(J. R. R. Tolkien, 1892 –1973)の物語世界に魅せられた著者が、トールキン文学の愛好者と初心者を視野に入れ、『ホビット』のエッセンスを平明な文体で提示したもので、小著ながら読み応えのあるトールキン研究書である。
 本書全体は、第一章J. R. R. トールキンの生涯と『ホビット』の誕生、第二章 登場人物、旅路とその風景、第三章 物語のあらすじ、構成、技法、素材、第四章 物語における種々のテーマ、第五章『ホビット』にみる枢要徳、第六章『ホビット』における色彩表現、終章『ロード・オブ・ザ・リングズ』と『ナルニア国年代記物語』へ、あとがき、参考文献から成っている。
 第一章で読者が得られる情報はトールキン研究に長らく携わって来た人々にとっては既知の事柄であろうが、トールキンの文学世界にあらたに足を踏み入れようとする人々にとっては知っておきたいことである。少年時代、父の死と母のローマ・カトリックへの改宗とその後の死、青年時代、養育者モーガン神父によるトールキン初恋のイーディスとの交際拒絶、その三年後、トールキンはイーディスの婚約を破棄させカトリックに改宗させて結婚、大学教師時代、オックスフォード英語大辞典の編纂に加わり、リーズ大学の古英語の教師となり、『サー・ガウェインと緑の騎士』の現代語訳を公刊、『ベオウルフ』の講演なども行った。その後、C.S.ルイスと出会い、両者は交流を深め、やがて両者は男性だけの文学サークル「インクリングズ」の中心メンバーとなり、そこに集う人々は執筆中の作品を持ち寄ってビールを飲みながら議論しあった。
 『ホビット』がベストセラーとなり、続編として『ロード・オブ・ザ・リングズ』を展開させようとしたこと、画家としてのトールキンの才能、マートン・コレッジへの移籍、チャールズ・ウィリアムズとルイスの改宗とルイスの結婚相手をめぐってトールキンとルイスとの関係の変化に言及、晩年、退職後のトールキンはファンからの手紙や訪問を回避するために転居し、死後いくつかの本が出版されたことにも触れる。そのあと、『ホビット』誕生に関わる事情、出版の成功、続編の待望、あらたなアニメーション化の情報などについて簡潔に述べ本章を締め括っている。略歴記述はやっかいな作業であるが、必要最低限の情報を提示し得ている。
 第二章は『ホビット』の登場人物たち、物語の舞台である中つ国の風景について記している。登場人物は、ホビット、ガンダルフ、ドワーフ、トロル、西の上のエルフ、ゴブリン、ゴラム、ワシオオカミ、ビヨルン、クモ、森エルフ、バルド、ツグミ、カラスなど登場順に的確な説明を添えてあるので、『ホビット』の読みの前後に参照すべき有益な情報である。なお、女性と明確に分かる人物の不在の説明も得心するところである。
 ビルボたちの旅路の様々に変化する中つ国の風景は、物語の舞台の外的描写であるとともに登場人物たちの内面を象徴することは言わずもがなであろう。ホビット庄、トロルの森と岩壁、裂け谷、ゴブリンの穴、ゴラムの湖、霜ふり山、ビヨルンの家、闇の森、エルフの岩屋、湖の町@、川、竜の穴、湖の町A、見張り台と表門、帰路の順で、それぞれの風景の特徴が鮮明にイメージできるように記述している。これも細かい作業で努力のあとが見てとれる。
 第三章。ここでは、物語の1章から19章まで、内容を要約しにくい章もあるのだが、あらすじを過不足なく簡潔に提示している。読者はこの三章のあらすじから読み始めるのもよいであろう。物語展開を把握しやすい要約になっているからである。
 『ホビット』はビルボを中心に構成されていて、ビルボの成長を描く凝縮された形でのビルドゥングスロマンになっていること、技法としては、語り、劇的アイロニー、行きて帰りし物語のパターン、同語あるいは同音語の連続的使用、詩歌やなぞなぞの挿入などがみられること、素材の面については、食事情、指輪、剣、宝物が際立っていることなどについて手際よく解説している。本論中にはところどころに内容的にシンボリズムへの言及がみられるが、シンボリズムの項目を設ける方が良いであろう。
 第四章は、自然、成長、継承、友情、戦い、キリスト教的側面、憐れみ、悔い改め、貪欲について論じている興味深い章であり、第五章の枢要徳についての記述も有意義な記述である。なお、枢要徳のところについては神学的徳を合わせて七つの徳として、それに加えて、七大罪について、それぞれ項目を立てる方が良いのではないかと思う。
 第六章は、トールキン研究の新たな領域を切り開く試みである。新たな試みとは、すでに先行研究も多少みられるとしても、まだ方法論として多くの研究者に受容ないし周知されていないのが現状であるが、テクストの中に見られる色彩表現に注目し、それぞれがどのような機能を担っているかを追究することで、『ホビット』の物語世界の魅力を探り出そうとするものである。これは文学研究の方法論の一つとして今後もっと深化していくであろう。
 終章については『ホビット』が『ロード・オブ・ザ・リングズ』への序章になったばかりでなく、C.S.ルイスの『ナルニア国年代記物語』が誕生する切っ掛けになった経緯を適切に記している。
 以上、本書は、トールキンおよび『ホビット』に関する多種多様な情報から、読者に伝えるべき核心的な情報を選りすぐって提示し得た、有益で読んで楽しい書物であり、確かに『ロード・オブ・ザ・リングズ』への序章でもあると言って良いであろう。




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