対立と矛盾の弁証法(12)・対立と矛盾の普遍性

人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司

 M・コーンフォースは「或る過程の中に、対立する諸傾向の統一と闘争とがあるとき、その過程には或る矛盾が存在する。矛盾は諸過程に本来そなわっているものであって、たんに偶然の原因や外部的な原因の結果として現れるものではない。自然と社会の諸過程に本来つき物の矛盾が発現することは、質的な変化に導く。それはこのような変化の原動力である。矛盾は世界のありとあらゆる過程のどれにもあまねく存在する」(8)と述べている。こうした対立過程の法則は、各々の過程にとって本質的で独特な矛盾と特殊な場合にその矛盾がとる特殊な形態を吟味することでその内的意味を、把握することができる。事物の内的な矛盾は、内在的で必然的なものであってそれは過程全体の性質から発生し進行するからである。対立する諸傾向は、互いに一つの全体の部分や側面として切り離すことのできないように結びついている。そして、これらの対立する傾向は、過程全体に内在する矛盾を基礎として作用しそして抗争するようになる。この運動と変化とは、事物と過程に本来供わる原因である内在的矛盾から生ずるのである。

 だがしかし、或る物体の状態が変化してゆく中に作用している対立した諸傾向は、あらゆる物理的な現象に本来供わる引力と斥力との矛盾の統一を基礎として作用している。さらに、コーンフォースは、事物の矛盾が発生する原因は内的な要因にあると述べている。「資本主義社会における階級闘争は、この社会に本来つき物の社会化された労働と私的占有との矛盾の統一を基礎として生ずる。それは外部的な諸原因の結果として生ずるのではなく、資本主義制度の本質そのものの中にある諸矛盾の結果として生ずるのである。対立する諸力の闘争とその結末との内部的必然性は、過程全体に本来つき物の諸矛盾に基づく」(9)のである。だから、一般的に事物のうちに発生する矛盾は、ある与えられた過程に本来供わっているものなのである。或る過程を特徴づける抗争は、偶然に対立した要素が外部的に衝突したものではなくそれは過程の性質そのものに、属する矛盾の発現である。そして、この矛盾関係は、その過程から生じてきたものなのである。

 だから、弁証法的な思考は、事物の性質そのものに本来供わっている矛盾を捉えると云うことなのである。即ち質的変化の原動力を捉えるには、自然と社会の発展過程のうちに含まれている諸矛盾にあると云うことを認識することである。事物を把握するためには、われわれは事物の諸矛盾の具体的な分析から始めなくてはならない。その対立と矛盾の正確な意味は、普通の形而上学的な考えでは矛盾は事物に関するわれわれの観念のうちに起こるのであって、事物その物のうちで起こるのではないとされている。そうした場合に我々は、事物に関して矛盾した幾つかの命題を主張することがある。その場合には、我々がそれに関して言ったことの内に或る矛盾がある事物のなかには何の矛盾もありえないと云うのが矛盾に対する形而上学的な考え方である。こうした観点からは、もっぱら矛盾を単にいくつかの命題の間の論理的な関係として見るだけであって、事物の間の現実的な関係として矛盾を捉えていない。このような観点は、事物を靜的に固定されたものとして考え事物の運動と動的な相互関連を、見ない考え方に基づいている。

 コーンフォースは「現実にある複雑な事物の現実の複雑な運動と相互連関とを考えるならば、そのなかに矛盾した諸傾向が存在しうるし、また実際に存在していることがわかる。たとえば、ある物体のなかに作用している諸力が、索引の傾向と反撥の傾向とを結び付けているとすれば、それは現実の矛盾である」(10)と述べている。そのことの意味は、われわれを取り巻く社会の運動を把握するには社会化された生産への傾向と、生産物の私的占有を維持しようという傾向と結び付けている対立する諸現象が、現実の矛盾であると指摘している。現実の事物や事柄のうちに矛盾が存在していると云うことは、極ありふれた状態であるだろう。たとえば、あの人は矛盾した性格を持っていると言うことの内容は、その人の行動のうちには温厚さと凶暴性や利己主義と自己犠牲のような対立した諸傾向を包含していることを意味している。さらに、毎日喧嘩ばかりしているが別れて暮らすことはできないという夫婦のことが問題になる時にそこでは、矛盾した関係が日常のうわさ話の対象となっている事例であるだろう。事物や事柄の矛盾が問題とされる場合は、誰にも見慣れた馴染み深いことが言われているのである。

 さらにコンフォースは「われわれはまた、矛盾における対立物の相互浸透について語ることもできる。というのは、闘争において統一されている対立した諸傾向は、どれも他の傾向によって色々な仕方で、その現実の性質と闘争の各段階におけるその作用の点で、影響を受け変化させられ、浸透されているからである」(11)としている。このような、各々の分極における対立項の側面は、いつも他の側面との関係から影響を受けているのである。社会過程の矛盾は、これらの諸矛盾の結果それらが発現する仕方を理解することによってのみ、我々は自然と社会の諸過程を理解することができまたそれを統御し、支配することができる。このような矛盾は、変化の原動力となるものであるから事物はどのように変化するかを理解し事物の変化を把握して、事物の矛盾を理解しなければならない。なぜなら、こうした矛盾は、変化の原動力であるがそれはある過程において変化を必然的なものとする内在的な条件を与えるその過程において、矛盾が存在しているからである。何の矛盾を含まないような過程は、何らかの外的な力がその過程を停止させるか変化させるまでは単純にいつまでも、同じように進み続けるだけである。

 矛盾のない運動というものは、同じ運動が連続して繰りかえされるだけである。「或る過程が進むうちに運動の変化をもたらしてくれるものは、矛盾の存在、すなわち矛盾した運動傾向あるいは対立物の統一と闘争の存在である。矛盾のない社会というものは、そのような社会は存在しないし、決して存在することはできなかった。なぜならば、人間の生活の諸条件のそもそもの性質からして、社会にはいつも色々な矛盾が存在せざるを得ないからである」(12)このように、多くの人々は、その諸要求を満たすことによってまだ満たされていない新しい要求を作り出し、その生産力を高めることによってその社会関係を変革するような事態を生じさせるのである。だから、このような事態が、なぜ社会のなかには変化が起きるのかということの理由である。こうした社会の発展過程は、同じことを繰り返す過程ではなくて新しい事物や事柄が生ずる矛盾を包含した、自己運動の過程である。現実に変化する過程を作り出すものは、現実に変化しつつある世界のまさにこれらの矛盾の発現に他ならない。種々な矛盾が存在しているところでは、これらの矛盾の発現や対立物の統一から生ずる対立物の抗争の発現が生ずると云うことを示している。事物や事柄の発展過程というのは、本質的な矛盾の発現に他ならないのである。

 コーンフォースは「矛盾はあらゆる過程の普遍的な特徴である。しかし、それぞれの特殊な過程は、それ固有の特殊な矛盾を持っている。この特殊な矛盾が、それぞれの特殊な過程を特徴づけそれを他の過程とは違ったものとするのである」(13)と述べている。だから、このような特殊な場合には、これから何が起こるかと云うことや或る特殊な過程をどうやったら把握するかと云うことを、矛盾の一般的な観念から推し量って考え出すことはできないだろう。弁証法的な対象を捉える方法は、先に強調しておいたように何か前もって考えられた図式を用いてありとあらゆるものを解釈することにあるのではなくて、具体的な矛盾の具体的な分析だけを基礎として結論引き出すところにある。現実的な矛盾の過程には、色々の種類があるがそれらは皆それぞれ固有の弁証法的な矛盾を内的に持っている。この弁証法の内容は、その普遍性のうちに特殊の過程を詳しく研究しなければ把握できない。物理学における原子の弁証法は、われわれの感官が直接に知覚できる物体の弁証法と同じではないのである。人間社会における弁証法は、社会的な矛盾を包含した自己運動の新しい法則である夫々の各段階において固有な特殊な弁証法をもたらしたのである。このようなことは、自己運動における諸傾向の間の矛盾も社会における階級の利害の間に生じる関係する矛盾なのである。

 このことの意味は、矛盾の普遍性を説明するものである。だがしかし、個々の矛盾は、他の矛盾とは違ったそれ固有の独特の特徴を持っていることは矛盾の特殊性を証明するのである。だから、矛盾の普遍性と特殊性を矛盾の一般的な観念から押し図ろうとしたのでは、われわれは物理学の法則や社会の法則を正確に学ぶことはできないだろう。コンフォースによれば「物理的過程と社会的課程とを調査研究して初めて、われわれはこれらの法則を学ぶことができるのである。物理的運動と社会における人民の運動とは、まったく違った運動形態である。だから社会学が研究する矛盾は、物理学が研究する矛盾とは違った矛盾であり、違った仕方で発現する」(14)からなのである。社会的な過程と物理的な過程とは、どちらも矛盾を含んでいるという点では同じであるが各々が含んでいる矛盾の内的意味は同じではない。各種の過程を特徴づける諸矛盾は、夫々ある種類の過程の本質的矛盾と呼ぶことができる。たとえば、引力と斥力の間の矛盾は、物理的な過程の本質的な矛盾であり生産力と生産関係の間の矛盾は社会的過程の本質的な矛盾である。これらの矛盾は、各種の異なった過程を特徴付ける本質的矛盾をさらに立ち入って考えると問題となっている過程の特殊な場合においては、特殊な現れ方をすると言うことである。

【引用文献】
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