人間性と人格の形成

人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司

 われわれ人間の本質に関わるその内なる人間性は、個人に内在するいかなる抽象物でもないしその現実性において、それは生きている人間の社会的な諸関係の総体である。われわれ人間の存在は、我々を取り巻く自然や社会のうちに理性的で感性的な人間の社会関係と、社会化された人間による客観的な対象のうちに主体性の深化を、把握するものである。こうした自然に対する人間の対応は、人間を動物から区別するものではあるが、それは人間が自然法則から独立していると云うことを、意味するものではない。反対に人間の自然支配は、自然法則や必然性を軽視することではなく自然法則や必然性を認識し、これを意識的に利用することのうちにある。われわれ人間は、物質的で文化的な要求を満足させるために自分の社会的生活を実践することのうちに、人間が社会の客観的な法則と社会的な必然性から成り立っていると云うことを、認識するのである。こうした認識の仕方は、客観的な自然法則や社会法則を軽視するのではなくてこれらの法則を認識し、それを意識的に活用することにある。

 それ故、われわれ人間は、決していかなる点においても人々のどのような活動においても自然法則や社会法則とその必然的な結果から、独立していないのである。社会的な諸関係のなかでは、個人が発展してくる過程において社会的な自由の発展がある。個人の自由な発展は、他者の自由な発展の条件になるような共同社会が創造されてゆくような歴史の歩みを伴う、人類史の全体を貫く自由の発展過程でもある。人間性を包含した自由の概念は、人間性の考察ということを含めてその実現を求めるという積極的な内容を含んでいる。そこでの必然性の考察は、人間的自由の実現を求める認識上の条件である。こうした問題は、その認識を特定の目的のために作用させる可能性が人間的自由だと云えるものである。だから、自由という概念は、目的抜きでは使われていないのである。その目的は、社会的な人間の発展そのものでそれに必然性の認識を役立てるカテゴリーである。人間の尊厳という思想は、社会的な関係のうちに社会化された人間の総体としての人間性と、人格を兼ね供えた思想の根底をなす人間の尊重と解放を、求める思想である。

 このような考え方は、当然のことながら客観的な法則の持つ必然性のうちに主体の側からの利用の可能性と、繋がっているのである。社会的な行動の諸法則は、従来から彼らを支配する外的な自然法則として対立してきたのであるが、いまやそれは人間によって事物に対する充分な知識を持って、応用されるようになったのである。したがって、事物に対する充分な知識を持って応用されることの意味は、客観的な法則の必然性を詳しく知り尽くし、そのなかに含まれているところの利用の可能性を、主体の側が巧みに活用することなのである。法則を利用して可能性を現実に変えると云うことは、主体的な働きから切り離してはどんな客観的な法則も無意味に終わることになる。こうした矛盾の法則は、それと主体的な拘束との結び目を捉えずしてただ客観的な形を見るだけでは、単なる傍観者にすぎない。われわれ人間にとって何より大事なことは、人生を全うして生命をつないでゆくことにある。われわれ人間は、現実に生きている日常的な生活過程のうちに生き続けることで行動するところに、主体性の発生する根拠があるわけである。

 だから、われわれ人間の前提は、日常的な衣・食・住という生活過程における生きた人間の生存である。それ故に歴史的な前提は、人間的で社会的な存在者として歴史を作りうるために人間は生きてゆくことが前提なのである。ところが、われわれ人間を取り巻く現実の社会は、人間のこの基本的な要求に対して必ずしも適応しているという状態にあるわけではないのである。われわれ人間の存在は、日常的な生活における不充分な状態が人間を生きにくくさせているのであって、人間の生活をいつも脅かし続けてきたのである。こうした人間的な存在は、日常的な衣・食・住という生活過程において意志に反して仕組まれている現実の社会がそれである。われわれ人間は、どんなに不幸な状態におかれても生き続けたいという欲求があることは自明のことであるだろう。そこにおいては、生きていけないような条件のもとでの生きる人間の矛盾があるわけである。われわれ人間は、生きることを欲求する人々に対して生きることの妨げとなっているところに、各人の苦悩に満ちた生存があるわけである。その苦悩を克服するためには、生きるための様々な工夫と知恵が培われ生きるための道具としての生活の知識が、育まれてきたのである。

 そうした人間の本質は、社会的な諸関係のうちに社会化された人間の総体としての人間性と、人格を兼ね供えた理性的で感性的な人間なのである。だから、われわれ人間は、歴史的にも社会的にもどんな困難に遭遇してもそれを克服するだけの思考能力である理知性を保持している。理知性という概念は、このような経験知からの知性と社会的な人間としての客観的で理性的なものとの合義語として、その本質を表現している。そこでわれわれ人間は、歴史的で社会的に培われてきた経験知と理性的で感性的な人間との共同のうちに供わる本当の知恵は、理知性という概念を把握することにある。これは理性的な人間の経験知からの生き抜くための知恵である。だから、われわれは、経験から得られた知識を獲得する能力としての知性を包含した理知性という概念を認識することにある。そのことの意味は、生きることを助ける生活知というものは自分だけが生きられればよいと云うことを前提とするというような狭いものではない。もちろん、われわれ人間の生命は、自分自身のものに違いないがしかしこの世の中で生活を続けるに各人は、一方において互いに矛盾する面を持つが他方では互いに持ちつ持たれつの関係で、結ばれているのである。

 そのことの意味は、一人ひとりの人間の生命のかけがえのなさを認め合うことによって 人間の生命を守る立場が、互いに繋がりあっているからである。われわれ人間の生命は、はじめは自分の利益から出発しても他人の利益も守るという立場へ転化しないかぎり我々は自分の利益を、最後まで守り通すことは到底できないだろう。われわれ人間の生命は、一人では守りきれないもので個人の生命を大勢の生命の結集によって、守り抜こうという方向へ転化させるのも我々の生きる理性と繋がるものであって、経験知からの協働という理知性なのである。われわれ人間にとっては、人間に勝る貴重なものはないと云うことを確認し人間は人間にとって最高の存在であることを、認識することのうちにある。われわれ人間は、精神と身体とに分裂されている人間ではなく総体としての人間であって、全体としての人間なのである。精神と身体との分裂は、われわれ人間を総体として捉えずに人間をして人間性を失わせ精神を無力化させるものである。だから、われわれ人間は、人間尊重と精神の尊重ということではなくてそうした精神と肉体との分離を、元の正しい統一へ取り戻して人間を全体的な人間として捉え、理解することである。

 われわれ人間は、人間性と人格を兼ね供えた自由を自覚することで人間の本質に関わることを取り上げ、全面的に発達した人間としての能力をあらゆる方向へ向かって発達させることで、活動する人間なのである。だから人間の本質は、人間性と人格を兼ね供えたものであってこれは人間の社会的な条件の問題でもある。われわれ人間は、歴史的な過程のなかで種々な社会的な条件に規定されているが、この社会的条件のもとでその主体性を確立するとその主体性によって、自分を生み出した自然的で社会的な条件に抵抗したり反逆したりすることが起こるのである。われわれ人間が人間性と人格を捉えるには、人間の条件が考え出されることになる。つまり、われわれ人間は、社会的で実在的条件によって規定されているがその根本的なものが、自然や社会的な条件にあることは言うまでもない。そこで社会的な条件に人間疎外の原因を求めるには、人間疎外の人間とは何を意味するかを明らかにしなければならない。そうした人間を把握するには、全体としての歴史的で社会的な人間の本質を捉えなければならない。

 人間の本質とは、人間性と人格の問題を包含した人間的なものを根幹とする思想であって、人間の価値や人間の創造力と人間の生命を何より大切にするものである。そのことの意味は、これらの思想をより豊かな内容を持つものに高めるために人間的なものに奉仕することは人間の義務である。人間らしく生きるとする社会的な条件の問題は、それから起こる現代的な特定の社会構造によってこのように引き裂かれているものが全体的人間であり、それから起こる人間疎外は全体的な人間の自己疎外である。この社会的な関係の総体としての全体的人間は、自己疎外がいわば各人に負わされている各人における内からの自己疎外なのである。このことの意味は、社会的で歴史的な条件が変えられるとそれによって人間の在り方も改められるから、人間の基本的な規定と同じものである。だから、全体的人間こそは、新しい意味での人間の本質と見られるのである。人間的な価値意識は、人間にはすべて人間らしく生きてゆく権利があり、人間が非人間的に扱われてはならないという価値意識は、市民革命期の自由権の思想として結実したものである。

 また、今日わが国で顕在化している貧困と格差社会をなくすための活動は、生存権を求める人間として生きるためのものであり、人間の本質である人間性と人格を求めるものであるだろう。こうした価値意識は、人々の日常的な衣・食・住を通しての生活と行動に密接に繋がっているのである。人間らしく生きるという人間の権利の思想は、日常的な世界の価値意識として捉えられた人間的な価値意識の観念であり、言うまでもなく基本的人権の思想である。だから、われわれ人間のうちには、人間らしさと云うようなものが根底にあるわけである。そういう人間らしさと云うものは、歴史の様々な条件において圧殺されたりゆがめられたりしてきたのが、今日の状態なのである。だから、われわれ人間は、東日本大震災や原発被害に苦しむ多くの人々を見て共感や同情とか助け合いという行為が生まれるわけである。こうした、理性的な感情が人間らしさというものであり、人間性というものであるだろう。人間性と人格を兼ね供えた人間の本質は、こうした社会的な諸関係のうちに社会化された人間の総体としての理性的で、感性的な人間なのである。人間性と人格を兼ね供えた人間らしさとは、人間の生活に本質的に属するものを全面的に取り上げてそのあらゆる面での人間の能力を、発展させることなのである。




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