「備えあれば・・・」

文化情報専攻 大塚 奈奈絵

 今から2年前の4月、私は大学院を休学しようかと悩んでいた。開講式を控えた4月1日に夫がくも膜下出血で入院したのである。幸い手術は成功したのだが、先がどうなるのかが全く見えない。「考えないで、とにかく開講式に行って来なさい。続かなかったら、そこで休めばいいよ。」背中を押してくれたのは娘達だった。
 常勤の仕事に加えての大学院の学業は半端ではない。そこに介護が加わったら、ほぼ確実に継続はできないことは、過去の経験で十分わかっている。下手をすると、大学院どころか仕事も続けられないかもしれない。そんな不安の中で始まった私の大学院生活は、とにかく無理をしないこと、確実に進めることがモットーになった。
 2年間の短い期間で修士論文を書き上げるためには、2つの方法がある。1つは、1年目で科目を余分に取り、2年目を論文に集中する方法、もう一つは、1年目、2年目と平均して単位を修得する方法である。考えた結果、1年次に登録する科目数は最少に、代わりに修士論文の準備を1科目分と考えて、1年生から準備作業を始めることにした。
 リサーチや資料の収集には、常に予想よりも時間がかかる。国立国会図書館の職員という職業柄、目指す資料が様々な理由で手に入らず、卒論や修論の締め切りに間に合わないとがっかりする人を多く見てきたことも、資料収集を早く始めた理由の一つである。特に、洋書や外国の文献は、購入にも複写にも時間がかかる。国立国会図書館は文学系の外国資料はあまり収集していないので、データベースで検索はできても、複写は大学図書館を頼らなければならない。まずはリストを作り、少しづつ資料を集めることにした。
 そして、面接ゼミとサーバーゼミには、できるかぎり出席し、集めた材料を少しづつまとめて、他の方の意見をいただくようにした。科目のリポートと並行して、毎月何かを報告するのはかなりきつかったが、2年目にむけての貯金だと考えて、がんばることにした。報告を重ねる中で、指導教官の松岡先生から示唆をいただき、新たな資料をご教授いただけたことで、少しづつ論文の形が見えてきた。
 幸い夫は驚くほどの早さで回復し、10月には仕事に完全復帰することができた。けれども、やっぱり先には何があるか分からない。若者と違って体力もない。ペースを変えずにゴールを目指すことにしたのだが、やはり予想もしなかったことが待っていた。母校の東洋大学が、内容が新しくなる司書課程の講師を探していて、紆余曲折の末、通信教育課程の1科目を担当することになったのである。恩師の説明では、新しく始めるメディア授業は、1年分の講義をビデオで先取りして配信するもので、学生はリポートかメディア授業のどちらかを選択する。おそらくほとんどの学生はリポートではなくメディア授業を選択するだろう。だから、春休みに一年分の収録を終えれば、後は、年4回、1回が25日間のメディア授業の受講期間に、掲示板で質問に答えたり、年9回の単位認定試験の問題作りと採点位が仕事ということだった。
 しかし、予想はあくまでも予想である。初年度で機器の準備ができない学生も多かったためか、今年度はメディア授業の受講よりもリポートを選ぶ学生が多く、結果として、私の修士2年目は、自分のリポートと修士論文を書きながら、人様のリポートの採点を続ける日々となった。特に6月の初めは、孫を出産した長女宅から長距離出勤をした期間が、初めてのメディア授業の期間と重なり、平日の仕事と家事と育児の補助、土日は家に戻って掲示板に書き込まれた質問への回答を作り、リポート添削、試験の採点、そして大学院の同窓会準備窓口の作業と、目が回りそうな忙しさで、自分のリポート課題も論文の準備も全く手につかなかった。
 7月、8月にどうにか体制を立て直し、10月の中間発表と公開講座も終わって、いよいよ修士論文本番のはずの11月は、3連休返上の海外出張と事前の準備で、ほとんど何もできない中に過ぎていった。極めつけは、大学の来年度のシラバス等の作成の締め切りが修士論文の提出と重なってしまったことで、来年度は二部の授業も持つことになっているため、新しいシラバスを作成しなければいけない。どうにか乗り切って修士論文を提出できたのは、1年生の頃にこつこつと準備した「貯金」と年末年始も対応して下さった松岡先生のおかげである。1年生から「貯金」をすることを、後に続く方々にも、是非、お勧めしたい。

 常に時間が不足して、不本意な点も多かったのだが、とにもかくにも、修士論文を提出して、私の「学生生活」は終わった。東洋大学の通信教育部の3年次に編入したのが2007年、2011年に卒業してそのまま日本大学大学院総合社会情報研究科に進学したので、通算6年間の学生生活だったことになる。振り返ってみると、この6年間の間には、文字通り色々なことがあった。
 仕事では6年間に4回ポジションを変わり、年齢とともに責任も加わった。学業を始めた時には、毎週1回の手助けと平日のヘルパーの援助でどうにか一人で生活できていた母は、徐々に一人暮らしが難しくなり、弟一家との同居、施設への入居、入退院を経て、2010年の2月に亡くなった。週に一度、母の所へ通う必要がなくなって、やっと学部の卒論が書けたというのは不謹慎かもしれないが、それが仕事と家庭生活を抱えた50代の社会人学生の実情である。
 若い時に比べて体力も能力も落ちてきている私の場合、この6年間を支えてくれたのは、常に味方になり、助けてくれた娘達の存在だった。彼女たちの励ましがなかったら、ここまで来ることはできなかったと思う。同時に、ご指導いただいた先生方、お世話になった事務課の方々、温かい励ましをいただいた先輩、友人達に心からの感謝をささげて、結びの言葉としたい。



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