社会生活と人間疎外
人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司
われわれの内にある人間性を捉えるには、人々が営む日常的な社会生活のうちに関係する様々な事態を把握することにある。それらの事態を把握するには、価値意識の面からその対象となるものを吟味し、現代社会に生きている人々がこの競争社会という生活環境のなかで社会的な意識に触れながら、日常的な生活過程のうちに関係していることを捉えるのである。そうしたわれわれの意識は、日常的な社会関係のうちにマスメディアを通じて資本主義的な価値意識にどっぷりと浸っているわけで、そのなかでこの社会についての根本的な見方を身につけることになる。たとえば、この社会では、金を儲けることは良いことであり従って人を雇って事業をやって利潤を手に入れることは当然のことであるし、株などの投機をやって一挙に巨利を博することもまんざら悪いことではないと思うようになり、特に金の持つ威力を身にしみて感じるようになる。このようなことから金持ちの人は、偉い人だと思うようになってくる。現代社会では、その中で生きているとこうした資本主義的な価値意識を身に着けざるを得ないわけで、そうでないと生きていくのが難しくなる。こういう価値意識に基づく世界観は、資本主義的に変様された人間性とも言うべきものであり、価値意識から見ても問題があるだろう。
こうした状況の下での今日の資本主義社会における生産手段の分業の強化は、そこに関係する個人の機械化が促進され共同体が解体され資本の競争が激しくなり、人間と人間の関係が失われていくと個人は全ての人間関係から疎外され、次第に孤立化していくことになる。さらに、そこで生活している人々は、資本主義という市場原理に基づく競争社会において巨大化したマスメディアによって、日常的な生活意識が大きく変えられ次第に画一化され受動化されていくのである。テレビなどに見られる低俗番組の蔓延化は、はなはだしく国民の立場からの真実の報道はまれな状況にある。一般的に世間の情報の真相を確実に掴むには、自らが現場へ赴き自分の目で捉える他なかったのだが、現在は情報の方で電波に乗って自分の方へ向かってくるのである。特にマスメディアの広告は、氾濫する大量の媒体を通して手を替え品を替えて大衆の消費意欲を駆り立てることによって、多くの人々は自分の意思で商品を買うのではなくむしろ買わされるのである。
こうして多くの人々は、マスメディアによる世論操作の前で受動化され続けやがて電波に乗って同じような対象である事柄を、考え感じるようになる。このように生活意識が受動化され画一化されることは、もはやわれわれ人間にとって主体的に自分自身で考え判断する必要がないことを意味するわけで、難しいことは誰かに任しておけばよいと言うようなことになる。こうした現代社会は、弱肉強食という競争社会において大量生産のためには同じような商品や物が市場に流れ出すと、自然とそれが流行になって多くの人々は流行の波に乗せられて、常態化していくことになる。このような社会現象は、多様化する流行のなかで多くの人々を巻き込み物の見方や考え方など生活意識が、否応なしに画一化していくことになる。こうした多くの人々の思考方法は、やがて単純化され無思想になっていき思想的なものは、敬遠されるようになっていくのである。つまり、こうした思考方法は、思想を媒介に思考して行為をするという過程を踏まずに諸々の現象に対応し、直接行動に走るという現代人に多く見られる傾向と繋がるものである。
こうした一般的な思考は、それを組み立てそれに従って組織的に考え系統だって思考するという仕方ではなく、単純な矛盾のあるような空疎と観念的で教条的な考えをその場において、直接行動すると言うようになるわけである。とりわけ、現代社会におけるこのような人々の受動化は、画一化と無思想が強められる現象を伴う現代人の人間疎外の典型的な姿である。そうした多くの人々は、マス・メデイアによる世論操作の前に人間の社会生活とその秩序が失われ、無思想的な行動が多く見られる社会的な危機に陥っているのが現状である。こうしたことは、現代社会の支配層がマス・メデイアを媒介として情報を操作し人々を競争させ管理し、個別化させ自己責任論を押し付けることで、多くの人々を生きにくい状態にしていることにある。そこでの各人の社会生活は、世論操作の前に現実の事象が見えなくされて、現実に生きている人々の生活意識の欠如が、常態化しているのである。そこにおいてわれわれは、日常的な衣・食・住という生活過程のうちに現代社会の基本的な動向を正しく把握することが、求められているのである。
現実に生きる人々の人間疎外は、様々な社会関係のうちに影響を受けるものであるがとりわけ環境や教育との所産であることを捉え、環境がまさに人間によってこそ変えられることを把握し、理解することである。われわれ人間は、労働という生業のうちに様々な社会関係のなかで日常的な衣・食・住という生活過程を通じてそこでマス・メデイアによる情報操作という洪水のなかで、各人は生きているのである。これまでの哲学は、社会的な人間疎外という事実を宗教的な空想された世界と現実的な世界とのうちに、二重化という事実から出発している。そこにおいてわれわれは、現実に生きる人間が存在するための基本的な条件が普遍的なものだと捉えることで、人間性という普遍的な存在条件を認めることにある。このような人間の社会性は、如何なる時代にも変わらない普遍的なものである。われわれ人間の生命は、様々な社会関係のなかで日常的な衣・食・住という生活過程を通じてそこで労働し生活をすることのうちに、互いに協力して社会生活に必要な品々を生産し消費しそのなかで次の世代を育てることで、生活を営んできたのである。
だから、われわれ人間は、いかなる時代においても変わることのない人間が存在するための普遍的で基本的な事実を把握する必要がある。ただその基本的な条件は、社会関係の下での人生の営みのなかで各々の時代によって変わっているわけである。われわれが捉える人間性と呼ばれるものは、様々な社会関係の下での人間の意識のいちばん深層にある価値意識というものを考えるとそれはやはり、人間的な自由の本質を認めると言うことにあるだろう。われわれ人間は、我々を取り巻く自然や社会に対応することで歴史的で社会的な発展と様々な文化を作り出すことによって、環境に適応してきたのである。だから、人間の歴史的・社会的な発展は、文化的な発展なのであって環境に適応すると云っても人間の力で環境に手を加えそれを変えながら、それに適応してきたわけである。われわれを取り巻く事象との対応は、今日の人類が発展させている巨大な生産力がそのことを示している。だから、生物としての人間は、そう変化する必要はなかったわけである。たとえば、数千年前からの人類史を見るならばわれわれでも一個の生物としてみた場合には、そんなに変わりがないと思われる。
だから、人間が生得的に持っている社会性と言うようなものは、人間的な感覚や根源的な価値意識は生物としての人間が変わらずにいる限りにおいて、変わらずにある人間性であると見ることができるだろう。そういう意味では、人間が生得的にもっている社会性と言うような人間的な感覚や根源的な価値意識は、生物としての人間が変わらずにいる限り変わらずに続いていると見ことができる。だから、われわれの内には、社会的な存在者としての人間的な感覚や人間性というものを規定する人間らしさと言うようなものが、根底にあるわけである。われわれが人間らしく生きると言うことは、その人間らしさと言うものが社会的な発展関係のうちに歴史の様々な条件によって、つぶされたり歪められたりしてきているのが今日の状態である。だから、われわれは、そういう人間性を生まれながら持っているのであって、それだからこそ社会的な共同性のうちに人間らしさという考えと共感することが、できるわけである。人間的な感覚と人間性と宗教の関係は、この問題について重要な前提がありそれは人間の主体性の問題である。
こうした宗教は、人間の主体性の上に成り立っていると思うのだが大切なことは人間が神の救いの対象となることで、この対象化によって人間の主体性が一層深められると言う体験である。このように人間は、人間が主体であって他の存在は客体であるのに宗教ではこの主体や客体の関係が逆で、人間が神の救いの客体になるのである。このような人間の主体性は、その客観化すると言うことから主体への復帰とその深化との関係をみると、どのような宗教にとっても本質的なものになっているのだが、この主体性の運動は実は自然史的な条件によって成り立つものである。自然史のなかで人間は、自然から発生し社会的な条件によって人間にまでなるが、この間にその主体性が確立されるのである。こうした主体は、自然的で社会的な条件によって成立するが主体性が確立するとそれは直ちに、それを成立させた条件に対して対抗するようになる。われわれの主体性は、もとよりそのようなものである。われわれ人間は、間違いなく自然から生まれ出たのだが主体的に自然を再生産しようとして自然に対応していくものである。しかし、この対応関係は、自然力とその法則に従順になることによって、自然を利用することができる。
同じような事柄は、社会についても云えるだろう。社会の発展法則は、最も従順であることがその社会を変革しその生産力を高めることになる。そして、社会的な条件は、元来が広義の自然史のなかで生産されたものなのであるから広義の自然的な条件と、常に連関しているわけである。それだから人間と自然は、人間と社会との関係のうちに人間の主体性とその客観化による主体性の深化の関係になっているわけである。だがしかし、このような関係としては、人間の絶対者に対する宗教的な関係が成立するのである。だから宗教は、社会現象として見られる限りにおいて自然史のなかへ入るわけである。自然から生まれてきた人間は、永い自然史の過程のなかで人間としての人間にまでなったのである。しかし、われわれ人間は、その主体性の確立によって自然に対抗するわけでその方法が宗教の形になったものと考えられるのである。つまり、そのことは、今日の科学と技術の役割をもって宗教が神をあがめることで自然と和解することができたのだろう。だから、人間疎外を克服し人間らしく生きるという人間性と人格を兼ね具えた人間を求めることは、これまでの生活意識の変化をなす主体的な人間の世界観の確立と、宗教的な粉飾を振り払うことに繋がるものであるだろう。