対立と矛盾の弁証法(10)・対立と媒介性

人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司

 G・シュティラー(1924―1989)は、対立の媒介性と対立物の相互の連関作用について「媒介項が、たとえば貨幣・商業・および経済的諸関係の両極を媒介するその他の諸現象に見られるように、相対的に自発的で自立的な諸現象として出現する場合である。もちろん、媒介項は、静止的なものとしてではなくて動的で過程的なものとして理解されなければならない。実際にそれはある作用交換を媒介するからである」(14) と述べている。ここにおいて、われわれの認識は、一般的には商業資産としての貨幣が生産と消費の関係における単なる両極端の媒介運動に過ぎないことを把握している。そして、他方面における媒介の過程的な性格は、他ならぬ貨幣が一つの社会的な関係の物的な関係であることからして、両極端における各側面の媒介が過程として明白に規定され、直接的な明瞭さを欠いているのである。同じようなことは、人間と自然との関係に見られる媒介項としての労働も直接的な運動過程として規定されるのである。諸々の媒介項である生産手段は、同じく媒介物としての性格を持つことは自明のことではあるが、それに引き換えそれらは運動と変化に支配されると言うことを、排除しないことは明白である。

 だから、シュティラーは「対立物の媒介は、それ自体きわめて媒介的な、複合的な複雑な性格を持っているのである。これは、中間項、媒介物の本性から来ている。すでにヘーゲルは、媒介される両側面を中間項がその内に含んでいること、それが必然的な対立諸傾向を提示することを、中間項に特徴的なことと見ていた。じっさいにそのことは、媒介項が対立しあう両極端の結合を作り上げること」(15)なのである。こうした事柄は、対立物の媒介項が対立しあう両極端の結合を作り上げることや、その一体性の内部で対立的な諸現象へ関係することから明らかになる。たとえば、資本主義社会における貨幣は、人間の生活過程における生産と消費との媒介として規定したのが、それである。中間項の対立的な構造は、われわれ人間にとって分配が社会から出発する契機としての交換が、個人から出発する契機として規定されていることから明らかになる。中間項が両極の対立項を総括しているという事実は、同時に媒介項が自立的な役割を演じ両極端に比較してより高いものとして出現する可能性を、根拠づけるのである。

 シュティラーは、対立物の「両極端間の媒介は、もちろん、両極端がたどる発展に関与する。これは非媒介性(直接性)と媒介性とが一つの関係の異なった発展諸段階を常に表現する、という仕方でおこなわれることもある」(16)このことの意味は、自己意識の展開のうちに直接性と媒介性との位置変換を証明することによって、媒介というカテゴリーを発生的な意味において考察することにある。われわれは、機会あるごとに生産関係内部のこのような発展的で歴史的な諸条件に対応させて順序立てられている。貨幣が媒介的な諸々の役割を果たすのは、媒介の存在しない異なった商品所有者たちが彼らの生産物を非媒介的で直接的な交換行為において譲渡する諸関係にある。この非媒介性を解体した媒介は、発展をしかもそれ自体が益々媒介的で複合的になっていくと言う仕方において、発展をそれ自身で経過するのである。最終的にその媒介は、生産者たちの諸々の関係における非媒介性の新たの形態によって解体されるのである。

 対立の両極における媒介の発生的な様相は、発展的な過程の枠の中での対立物の相互浸透と両者の相互転化がその時々の現象の運動と発展によって、媒介されているという仕方でもって明らかになる。こういう仕方では、媒介は一つの系の変化する過程の要素である。運動と発展は、事物の変換を遂行するような対立物についてはそれらの媒介項を作り上げるのである。そこでシュティラーは「媒介は、同時性の形態において進行するのではなく、時間内の過程として自己を展開する。最後に、発展的現象としての媒介は、否定の否定の法則によって定義される循環性の内部では、否定が、肯定と否定の否定(これらは発展の諸段階としてとらえられる)との間の媒介項の性格を持つ、という仕方で現れる」(17)のである。この発展の推移する過程における否定は、肯定であり発生段階においては潜在的に存在していた内的な対立が正面化する段階として特徴付けられる。そして、この媒介項の必然性と普遍性は、対立物の相互作用のうちに明らかになる。

 すなわち、諸々の矛盾は、或る一定の成熟度に到達して初めて解決され対立物の作用の相対的な同等性の回復という形をとって、出発点へ見かけ上は還帰するということである。諸々の特殊形態を表現するのは、発展的な推移の内部での媒介によるもので結局は諸々の移行状態であって、これが発展の低い局面と高い局面とを媒介することになる。また対立する両極項における否定性は、こうした一つの移行状態であることは明らかである。シュティラーは、媒介項の発展過程の性格を捉えて「諸々の媒介項のうちには、すぐさま否定の否定の諸項となるのではなく、むしろ、二つの対立した発展局面間のあいの子的形態という姿をとるものもある。------発展内部でのこの媒介の特殊性は、新しいものは一挙に実現されるのではなく、一定の期間古いものに結びついたままでいて、やっと漸次的にのみ古い内容と古い形態とをくつがえす、ということから明らかになる」(18)としている。このような事情については、疑いもなく普遍的な妥当性を持っていて自然の発展においても社会の発展においても等しく、観察することができる。

 こうした「対立関係は、あらゆる人間存在の本質的な構成要素である。人間の世界は人間の労作であるという観点のもとでは、根底的な分極的連関として人間と現実との関係が登場してくる」(19)のである。この労作という概念は、人間は死んだ客観性の形式のうちにある事物に関わり合うのではなくて、人間自身によって実現された現実性に関わり合うと言うことが、含まれている。人間的存在や人間と現実の特定の分極的な関係は、その時々の社会的な現実の実在的な対立が展開される基盤となる客観的な関係を、表現するのである。その対立関係は、あらゆる社会的構成体のうちに登場するが生産様式の性格に応じて異なった内容を、受け取るのである。そして、対立関係の媒介項を形成するのは、人間の活動であるがその活動もまた規定される存在しだいで、変遷するのである。同時にそのことは、現実に対する人間の活動的で実在的な対立の態度が、指示されることになる。このことの意味は、実在的な対立や矛盾の関連で言えばそれらは何か廃棄不能な運命といった性格を持たずにわれわれは、或る前提の下でそれらの物の運動に関与し人間に有益なものを、形づくってゆくのだと言うことを意味している。

 弁証法的矛盾は、現実に対する人間の活動的な関わり方を強要するものである。このような矛盾については、発展の一定の段階において解決を要求するがその解決は人間の行為なしには、生じえないものである。社会的な現実の対立は、人間の行為によって現実存在のうちに歩む対立の運動が人間の行動に服従させられるという事実は、それら対立の客観的性格を廃棄するものではない。むしろ対立関係は、自然および社会のうちに出現して存在と作用の根本構造を作り上げるのではなくて、一般的で実在的な関係であることが明らかになるのである。対立の媒介性と普遍性は、一連の諸契機のうちに表現されるだろう。様々な事物や表現は、ある関係の諸々の極であることを示すものである。一般的には、どの任意の現象も系と環境の相関関係のうちにある。もちろん、そのような相関関係のうちには、無機的な自然や生命的な自然と人間社会において各々に固有な特殊性を持っているのである。さらに、事柄の対立は、どの現象も各々に対応する集団的なものが種・類・等々に対立しており、両側面が一つの分極的な関係を実現するのである。

 事物や事柄の対立物の転化は、ヘーゲル(1770―1831)によって初めて体系的に研究されたのであった。ヘーゲルは、『精神現象学』のなかで対立物の転化についての認識を方法的原理として包括的に適用したのである。彼がこの著作において出発点に置いたことは、精神の発展諸段階がそれらの発展のうちに実現すると同時に、自己自身を解消しあい弁証法的に否定し合いそれらの否定性のうちに、反対項へ移行すると言うことである。ヘーゲルは、対立物の転化のこの過程を数多くの事例に基づいて描き出したのである。たとえば、個的なものの認識が、如何にしてその反対の普遍的なものの認識のうちへ移行するかをヘーゲルは説明したのである。そして、彼の示したところでは、個的なものから普遍的なものが生成し直接的で非媒介的なものから媒介されたものが、抽象的な真理から具体的な真理が生成するとしたのである。さらにヘーゲルは、対立物の転化の過程において如何に奴隷の非自立的な意識が、労働によって自立的な意識となっていくかを主人の非依存性の立場で、奴隷が主人の生命を自分の活動によって維持するが故に、労働する奴隷への依存性の立場に取って代わられるかを、論述したのである。

 ヘーゲルは、対立物の転化が意識の歴史的ならびに論理的な発展の合法則性として理解されたのに引き換えに、対立物の転化が対立物の弁証法的な相互制約の表現であるという思想を、明らかにしたのである。ヘーゲルは、われわれ人間の認識過程において反省的思考をほんの少しでも経験しさえすれば、もうすでに次のことに気づくのである。すなわち、或るものが肯定として規定された場合は、この基盤から更に進んで行くにつれてそのものは直接知らない間に否定へと転化し、反対に否定に規定されていたものが肯定へと転化するのである。とりわけ、対立物の転化としては、明るみに出てくる対立物の一体性を理解しようと目指したのである。ヘーゲルは、このような見方をはっきりさせるために若干の例を引用している。たとえば、徳というものは、差し当たりまず肯定的なものとして規定されなければならないが、同時に悪徳に対する闘争を表現しており、したがって否定の特徴をもっているとしたのである。



【引用文献】
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