E.M.フォースター雑感
第5回 象徴的瞬間(1)
博士後期課程満期退学 博士(2010年) 松山 献
〈象徴的瞬間〉とは何か
フォースターがたいへん大切にした概念として、前回まで〈土地の霊〉について考えてきた。今回からは、フォースターが重視した概念の第二として、〈象徴的瞬間〉について考察する。〈土地の霊〉が「場所」という空間的なものであるなら、「瞬間」という時間的なものが〈象徴的瞬間〉である。それは『果てしなき旅』の主人公リッキーの台詞によって次のように定義される。
ぼくたちは人生のあちこちで、象徴的な人間とかできごとに出会うような気がする。その人間とかできごとそれ自体は取るに足らないものだけど、その瞬間はなにか永遠の原理をあらわしているんだ。ぼくたちは、どんな犠牲を払ってでも、それを受け入れれば、人生を受け入れたことになるんだ。だけど、恐れてそれわ拒絶すれば、その瞬間は、いわば、過ぎ去ってしまう。象徴は二度と差し出されないんだ。(1-220)
フォースターがリッキーに語らせているのは、人生には出会う人間や事件の中に永遠の原理が示される「瞬間」が必ずあり、それを把握して受容するか否かがその後の人生にとってたいへん重要なのだということである。その重要な「瞬間」が〈象徴的瞬間〉と称されているのである。〈象徴的瞬間〉は、人間が何度も繰り返す単なる経験とは区別される。語り手は、経験を紅茶カップに喩えて、次のように語る。
私たちは、経験の紅茶茶碗を飲まなければならない。さもなくば死ぬだろう。
しかし、いつも飲む必要はない。『私はもう経験を積まない。私は創造しよう。
私が経験そのものになろう』と言える瞬間がやってくるのだ−それいつやって
くるかは、神のみが知ることだが。だが、そうするためには、私たちは鋭敏で
雄々しくなければならない。(1-96)
人生において日々繰り返される経験は人間を硬直化させる。経験の中にただ埋没してしまえば、人生の中に真実を発見することはできない。しかし、日常化した経験の中に他とは異なる特別な意味を自ら積極的に見出すことができれば、それは自己変革の機縁となり、人生における真実の発見につながり得る。このような特別な経験がいつ訪れるかについては、神のみぞ知ると語られるように人間には分からない。その「瞬間」を把握することができるかどうかは受容する当事者次第なのである。
〈象徴的瞬間〉は前回まで検討した〈土地の霊〉によって促される。フォースター最初の長編小説である『天使も踏むを恐れるところ』における〈象徴的瞬間〉はすべてモンテリアノという「場所」の〈土地の霊〉によって生起する。『果てしなき旅』におけるそれは、キャドベリー・リングズという「場所」の〈土地の霊〉によって生起する。『眺めのいい部屋』におけるそれは、シニョーリア広場や聖なる池という「場所」の〈土地の霊〉によって生起する。今回は、イタリア小説と呼ばれる『天使も踏むを恐れるところ』と『眺めのいい部屋』の2作品における〈象徴的瞬間〉について考えてみることにする。
『天使も踏むを恐れるところ』における〈象徴的瞬間〉
『天使も踏むを恐れるところ』における〈象徴的瞬間〉は主人公フィリップと、その友人カロラインに訪れる。それはいずれも〈土地の霊〉の作用によってイタリアのモンテリアノにおいて生起する。
劇場で「ルチア」を鑑賞した時、〈象徴的瞬間〉は二人に同時に訪れる。カロラインにとっては二度目、フィリップにとっては初めての〈象徴的瞬間〉である。今度は、フィリップがカロラインに向かって「おや、なんてすばらしい夜だ。こんなにすばらしい紫色の空と、こんなにすばらしい銀色の星を見た事がありますか? 」(152)と、感動的に語りかける。フィリップは、演者や聴衆と完全に一体となって「ルチア」に参加し、イタリア的情熱に浸ることができたからである。彼はジーノと真の出会いを果たし、彼によって幻滅させられたと思っていたイタリアへの情熱を回復するのである。同じような感動と愉悦感を味わっていたカロラインは「同じ場所で、同じことが、またしても – 」(152)と叫ぶ。同じ「場所」で同じ出来事が起こるのは〈土地の霊〉が作用するからである。モンテリアノのもつ〈土地の霊〉によって〈象徴的瞬間〉が二人にもたらされるのである。
フィリップとカロラインによる〈象徴的瞬間〉の共有は二人が愛を永遠化して友情として存続させることを可能にする。フィリップはカロラインに対して 「ぼくにとって重大な出来事とは何か、…・昨日あなたとオペラ見物に行ったことと、それに、いまあなたと話していること、このふたつが、ぼくにとっての重大な出来事です。そしてこれからも、これ以上重要な出来事に出会えるとは思いません」(187)と語る。彼は〈象徴的瞬間〉を自覚したゆえに、単なる「見世物」にすぎなかった人生が明らかに変容しつつあったのである。彼はその歓喜を「ぼくにとって人生は見世物なんです。ただしその見世物は、神さまやイタリアやあなたのおかげで、前よりずっと美しくて楽しいものになりました」 (188)と語る。「神さま」は神の意志による〈象徴的瞬間〉を、「イタリア」はイタリアの〈土地の霊〉を、「あなた」はカロラインとの〈個人的人間関係〉を示す。ここに、〈象徴的瞬間〉〈土地の霊〉〈個人的人間関係〉という三つの〈見えないもの〉が、それぞれの主体となる一語「神さま」「イタリア」「あなた」によって簡潔に表現されるのである。
フィリップとカロラインに共通するのは、両者とも〈象徴的瞬間〉を自覚している点である。二人ともそれを正確に把握して受容する。その結果、以後の生き方に大きな変更を迫られ、自己変革の作業に取り組む。フィリップは 「とにかくぼくは、ロンドンに行って仕事をするつもりです」(221)と、カロラインは 「ソーストンへ戻って仕事をします」(222)とそれぞれ決意を表明する。人生に対して傍観者であったフィリップは、今こそ人生の主役となってロンドンという新天地で弁護士の仕事に就くことを決意する。カロラインは父が司牧するソーストンの地にとどまって新たな出発を果たそうと決意する。従来と同じ土地ソーストンに戻るカロラインも、決してこれまでと同じではない。ソーストンと闘い、キリスト教徒としても数段成熟し、これまでとは異なる新たな歩みを始める。〈象徴的瞬間〉が二人に自己変革の機縁をもたらし、彼らは大きく人間的に成長して自己実現を完成する。二人は生まれ変わるのである。「新生」は冒頭に掲げられたテーマである。その意味で、両者にとって〈象徴的瞬間〉は「回心」の契機となる。 語り手は「大げさな祈りや太鼓の音もなく、彼は静かに改宗したのである。彼は救われたのである」(215)と語る。騒々しい教会の中で執行される儀式によって生まれ変わるのではなくて、真に実質的に新生するのである。〈象徴的瞬間〉は、二人にとってまぎれもなく 「回心」の契機となったのである。
『眺めのいい部屋』における〈象徴的瞬間〉(1)
『眺めのいい部屋』における〈象徴的瞬間〉は、主人公ルーシーと、その恋人となっていずれ結婚するジョージに訪れる。シニョーリア広場での殺人事件と、聖なる池での水浴び事件である。
シニョーリア広場では、〈象徴的瞬間〉の起こる直前からその予感に包まれる。予感は、何か衝撃的な出来事を切望しているルーシーの精神状況と、それに呼応するかのように何かが起こりそうなイタリア的な神々しい独特の雰囲気において見事に描写される。ルーシーの精神状況は、「何か大きなものが欲しかった」(2-60)、あるいは「ルーシーはもっと人生が欲しかった」(2-63)という台詞によって繰り返される。何か出来事を切実に求めるルーシーの気持ちが〈象徴的瞬間〉を受容するに足る十分な準備を彼女の中に整えることになる。
そのようなルーシーの身に突然、望んでいた通りの事件が生起するのである。シニョーリア広場の回廊で、二人のイタリア人が金の貸借のことで口論を始めるが、やがて一人が相手を殺傷してしまう。被害者は見知らぬルーシーに伝言でもあるかのように彼女のほうに倒れかかり、開いた口から血が滴り落ちるのである。ルーシーは失神してジョージの腕に抱かれる。この驚くべき事件に遭遇したルーシーの情感は「宮殿そのものも輪郭を失い、彼女の頭上で揺らぎ、そっとゆっくりと音もなく彼女の上に倒れかかった。それといっしょに空も落ちてきた」(2-63)、あるいは「世界全体が色褪せて、本来の意味を失ったように見えた」(2-64)と、たいへん衝撃的かつ神秘的に描かれる。「死にゆく男同様、彼女も或る精神的な境界線を越えてしまったという感じがした」(2-66)と語られるように、この事件はルーシーの自己変革の契機となる決定的な神秘的事件となる。
何かを期待していたにもかかわらず、「わたしにはなにも起こらない」(2-62)と嘆いていたルーシーにいよいよ事件が生起したのである。この嘆きの台詞を受けて 「なにかが起こったのはその時である」「何か凄いことが起きました」、「起こったんだ」(2-67)「生きている者たちにも何かが起こったのである」(2-63)と、立て続けに「起こる」が多用されて出来事性が強調される。ルーシーは「どうしたのかしら」(2-64)と三回繰り返して、自分に生起した事実を徹底的に確認しようとする。ジョージも「僕はごまかさずにそれを直視しなければならない」(2-67)、あるいは「何が起こったのか、つきとめなければ」(2-67)と、出来事の意味を徹底的に問おうとする。さらに、ジョージの言葉として「ただ一人の男が死んだというだけのことじゃない」(2-67)、語り手の言葉として「人が一人死んだというだけではなかった」(2-69)と、同じ文の現在形と過去形が繰り返される。この出来事が偶然的に遭遇しただけの事実ではなく、二人にとって、より深遠な意味があることが暗示されるのである。
ルーシーは「あっという間に事件が起こって、そしてまた元の生活に戻るのですね」(2-69)と、事件の突発性に驚きつつもいずれ忘れて元の平穏に戻るであろうと語る。しかし、ジョージは「ぼくは戻らない」(2-69)と答え、ルーシーの言葉に納得しない。その意味を理解できないルーシーに対して、ジョージは「たぶんぼくは生きる気になるだろう」(2-69)と語りかけ、さらに「ぼくは生きる気になるだろう、ということです」(2-69)と繰り返す。彼はこの出来事の意味を何とか自らの人生に生かそうと考えるのである。両者とも〈象徴的瞬間〉をそれとして受容し、即座には理解し難かった意味を徹底的に探求しようと努める。〈象徴的瞬間〉の把握が自己変革の実現という結果を生むのである。『天使も踏むを恐れるところ』のフィリップやカロラインと同様、「回心」の契機としての意味をもつといえよう。
『眺めのいい部屋』における〈象徴的瞬間〉(2)
『眺めのいい部屋』におけるもうひとつの大きな〈象徴的瞬間〉は、第12章に描かれる水浴び事件である。エマスンとジョージがハニチャーチ家の近くに偶然引っ越してきた直後に、ジョージ、フレディ、ビーブの三人が近くの池で突然水浴びを始める。シニョーリア広場での〈象徴的瞬間〉と同様、出来事が生起する直前にいかにも何か事件が起こりそうな予感が見事に描写される。自然に包まれた牧歌的な光景がこの世のものとは思われない神秘的な雰囲気を醸し出す。階級も職業も異なる三人が一緒になって水浴びし、水を掛け合い触れ合う。「何かの理由で彼らに変化が訪れ、彼らはイタリアも植物も運命も忘れた」(2-201)と語られるように、すべての日常を捨て去ることができるほど、それは超現実的な空間と時間であった。階級意識や教養主義という強固な呪縛を一時でも破壊する事件となる。その現場にやってきたルーシーはジョージの生命力溢れる肉体に魅惑され、二人はさらに一層近い存在になる。
語り手は「それは血と弛緩した意志への呼びかけであった。つかの間ではあっても恵みは消えることなく残る恩寵−霊の浄化であり、呪縛であり、いっとき若者に与えられた聖杯であった」(2-205)と語る。この出来事の深遠なる意味がきわめて感動的に表現される。直前に漂っていた予感のとおり、まさに神秘的で超現実的な世界がほんのひとときながら展開されたことがいくつかの比喩を用いて見事に表現されているといえよう。この作品中で最も劇的で躍動的な叙述である。水浴びはキリスト教的には洗礼を想起させる。とりわけ当事者のジョージにとっては新生そのものであることは確かである。〈象徴的瞬間〉は二人にとって、「恩寵」となり、「回心」の契機となるのである。
これらを扱う章のタイトルが単に「四番目の章」、「十二番目の章」であるのも、二つの〈象徴的瞬間〉に対するフォースターの深い意図が込められていることはいうまでもない。
※ 引用の翻訳文は、すべて『E.M.フォースター著作集』(みすず書房)を使用し、文末の( )内に巻名とページ番号を記した。ただし、『天使も踏むを恐れるところ』についてのみ、中野康司訳『天使も踏むを恐れるところ』白水Uブックス(白水社、1996年)を使用し、文末の( )内にページ番号のみを記した。