八重を歩く・第一部
来年の大河ドラマは会津の山本八重

国際情報専攻 2期生・修了 星 亮一

 会津戦争の時、七連発のスペンサー銃を抱えて入城し、一か月に及ぶ死闘を演じた会津藩の女性、山本八重が来年の大河ドラマの主人公である。
戦後、新島襄と結婚、同志社大学を設立、同志社の母と呼ばれた凄い女性である。そこで八重の片りんをご紹介したい。

 人となり
 山本八重は弘化二年(一八四五)十一月三日、会津藩の砲術師範を務める父山本権八、母佐久の長女として生れた。丸々とした元気な女の子だった。
 兄覚馬は長く江戸で学問に励んでいたが、安政三年(一八五六)、二十九歳の時、帰国し、新たに日新館に設けられた蘭学所の教授に抜擢された。覚馬は火縄銃を廃止して洋式銃を採用するよう主脳部に求めたが、老臣たちは首を振らない。家伝の宝蔵院流の投げ槍があれば、異人など恐るるに足らずと、受け入れてくれない。
 頭が固くて話のほかだと、覚馬は重臣たちを罵倒したので、一年間の禁則処分を食った。会津の老臣たちは、精神主義に凝り固まっていた。槍があれば外国とも戦えると思っていた。兄覚馬は勝海舟や佐久間象山と交流をすすめ、会津藩も軍備の近代化が必要だと、再三提言したが、なかなか取り上げてもらえなかった。
 残念ながら会津の体質は、極めて保守的だった。どこにその欠陥があったのか。
 「家老に人材なし」といったのは『会津藩教育考』(続日本史籍協会叢書)の著者小川渉である。井の中の蛙、大海を知らずだった。周囲を山に囲まれた会津で暮らしていると、世の中が見えなくなると、父権八も嘆いた。
 この間、八重は兄から小銃の撃ち方や大砲の扱い方を習った。
 自宅は中級の武家屋敷で、米代一丁目に兄の覚馬は藩校日新館教授を勤め、藩の砲術師範でもあったので、子供のころから鉄砲に親しんで育った。男勝りの気性で、弟三郎をつれて近所の男の子たちと俵を持ち上げたり、相撲を取ったり、泥まみれになって遊んだ。、十三歳の時には四斗俵を肩の上まで四回は上げ下げしたと平石弁蔵『会津戊辰戦争』にある
 自宅の東隣は白虎二番士中隊の隊員となり、飯盛山で自刃する伊東悌次郎の家だった。悌次郎が鉄砲に興味を持ち、よく八重の家をのぞいていた。
 八重は、生来の性格に加え、砲術研究の一家に育ったことが、後に起こる戦争で、大奮闘することになる。

 朝敵にされる
 会津藩は京都守護職として京都に出かけていたので、会津若松の人々も中央の情勢には敏感だった。薩摩と長州が同盟を結んで、幕府、会津に刃向い、将軍徳川慶喜は弱腰で、大政奉還をした時の驚きは大変なものだった。
 やがて将軍は退位し、主君容保が京都守護職を解任された時、父権八は戦争が起こると予感した。陰謀によって一転朝敵にされてしまったからである。やがて鳥羽伏見の戦争が起こり、江戸留学生だった弟三郎が、江戸定詰大砲隊の一員として参戦、重傷を負い江戸に運ばれたが死去したという連絡が入った。兄覚馬も生死不明とあって、八重の一家は悲痛な空気に包まれた。
 幕府は情けないことに江戸城を無血開城して徳川幕府は完全に瓦解した。会津藩は幕府からも見捨てられ、奥羽鎮撫総督九条道孝が仙台に入った。実権を握る参謀が長州藩士世良修蔵だった。世良は仙台藩に会津攻撃を命じた。仙台藩はこれを拒否、世良を暗殺し、奥羽越列藩同盟を結成。薩長の新政府軍に決戦を挑んだ。

 スぺンサー銃の威力
 会津、仙台連合軍が守る白河の戦闘に敗れ、敵は刻々、会津国境に迫って来た。
 同盟軍が相次いで敗れる中、慶応四年八月二十三日、敵軍が会津藩の重要拠点戸ノロ原を破り、会津若松城下町まで一気に攻め込んだ。
 八重は七連発のスペンサー銃を手に決死の覚悟で入城し、攻め寄せ、土佐の軍勢に銃弾を浴びせた。持参した銃弾は百発、八重の腕前からすると、狙ったら間違いなく敵兵に命中し、バタバタと撃ち倒した。
 八重が守る北追手門に攻め込んだのは土佐兵である。ここで三十数人の戦死者をだしていた。スペンサー銃は元込め式、射程距離七百三十メートル。銃の性能からすると、西出丸や北出丸に出没した敵兵は百発百中であり、八重一人にやられたといって過言ではなかった。
 もしスペンサー銃を持つ狙撃手百人がいれば敵は壊滅的な打撃を受け、射程距離のそとに撤退を余儀なくされるところだった。軍備の近代化の遅れが、すべてだった。
 八重の父権八は長命寺の戦いで戦死。帰っては来なかった。
 籠城した婦女子は数百人、負傷兵を看護し、食事をつくり、鉄砲の弾丸を作るなどして、戦争のサポート役に徹した。これは会津戦争史に残る見事な働きだった。
 九月二十二日、若松城はついに落城し、会津藩は降伏した。

 健次郎絶賛
 旧会津藩の人々が決死の戦いを『会津戊辰戦史』(続日本史籍協会叢書)をまとめ出版したのは昭和八年である。編纂責任者は白虎隊の一員として籠城戦に加わった後の東京帝大総長山川健次郎だった。
 健次郎はこの本のの最後を八重の記述で飾った。
 川崎尚之助の妻八重子は山本覚馬の妹なり。
 圍城中に在り髪を断ち男子の軍装を為しuなし、銃を執って城壁又城楼より屡々敵を倒せり。覚馬は西洋砲術を以って名あり。八重子は平生、之を兄に学びて練修し、万一の用意を為せり。或人婦人の戦に参するを諌めたるも八重子聴かず。進撃あるごとに必ず隊後に加われり。此の日、八重は城兵と共に城ヲでんとするに当たり、和歌を賦し、潜然として涕泣す。人皆同情の感に堪えざるりきという。
 「明日の夜はいつこの誰かながむらん
  なれし大城に残す月かげ」

 これぞ歴史に残る名場面だった。



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