フォイエルバッハにおける感性的人間

人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司

 F・フォイエルバッハ(1820―1895)は、人間の本質について「人間が意識しているところの、人間の本質とはいったい何であろうか?------人間の中にある本来の人間性------を形成するものは何であるか?理性・意志・心情がそれである。完全な人間には思惟の力・意志の力・心情の力が必要である。思惟の力は認識の光であり、意志の力は性格のエネルギーであり、心情の力は、愛である」(1)と述べている。このようにフォイエルバッハは、人間の本質と人間性の内容を理性・意志・心情等にあると観想的に捉えている。そして「理性と愛と意志の力とは完全性であり、最高の力であり、人間そのものの絶対的本質であり、人間の現存在の目的である」(2)としている。ここにおいて彼は、本質的に人間が社会的に存在するのは対象を認識するためであり、愛と自由を意欲するためのものであると捉えているのである。そこでわれわれは、人間に本来的に供わる人間性を形成するものとしての人間の本質について吟味することで、その内的意味を捉えるのである。

 このようにフォイエルバッハは、われわれ人間の目的とするものは理性と愛と意志の自由であるとして、我々人間が対象を認識するためには愛と意志の自由を自覚することで自らが対象に対して意欲することにある、としたのである。だから、真の存在者であるわれわれ人間は、思惟することで対象を捉える愛と意欲する存在者なのである。そのことの意味は、自己自身のために存在するものだけが真であり完全で神的なものなのである。フォイエルバッハは「それ故に人間は対象において自己自身を意識する。対象の意識は人間の自己意識である」(3)と述べている。さらに彼は「人間の絶対的本質・神は人間自身の本質である。それ故に、対象が人間に対して持っている威力は、人間自身の本質の威力である。かくて、感情の対象の威力は感情の威力であり、理性の対象の威力は理性自身の威力であり、意志の対象の威力は意志の威力である」(4)としたのである。こうした人間の本質は、感性的人間の枠内での自己意識の発展を意味するものである。

 フォイエルバッハは、ヘーゲルを批判して人間の根本的な立場について彼の論理展開は逆立ちしていると述べて、精神が人間を規定するのではなくそれは逆であって、人間が精神を成立させると主張したのである。そこにおいて彼は、われわれ人間こそが精神の土台になるものであって、そうした人間は肉体と結びついた現実の感性的人間であると主張することで、感性的な人間こそがありのままの現実的な人間であるとしたのである。このような人間は、真理・現実・感性が同一のものだとして感性的人間が先ずあって、この人間が思惟することで本来的な意味での人間となるのである。そうして、こうした関係を、逆にして思惟・理念・精神・神が人間を規定すると捉えるのが、ヘーゲルの人間疎外に他ならないとしたのである。フォイエルバッハによるとヘーゲルの疎外概念は、現実的な人間存在の上に関係するものとしての人間疎外を考えたものとしている。だがしかし、ヘーゲルによる精神の対立物は、その起源から見て理性・愛・意志とかはやはり精神的なものだから、その対立が結局は融和されてしまうことになるのである。

 このようにフォイエルバッハは、現実社会に生きる感性的な人間を捉えることで神が絶対者として、人間を規定するものではないとしている。このような感性的人間は、もっとも人間的な本質をすべて神的なものにされ絶対化して人間から引き離すことによって、神の存在が確立するわけである。こうした感性的な人間は、自己の本質が神の前ではまったく無力な人間疎外に他ならないのである。彼の認識の仕方は、人間を感性的にのみ捉えて社会的で歴史的な存在として捉えることできなかったのである。そのためにフォイエルバッハは、ヘーゲルの精神哲学を感性の立場から批判したのは正しかったのだが、ヘーゲル哲学が観念論の立場という制限性があるにせよ客観的に捉えた、豊かな社会的で歴史的な内容を捉えることができずにその豊かな内容を、その批判と共に捨象してしまったのである。社会的な人間は、現実に孤立しているものではなく社会的で歴史的な存在としてあるのにフォイエルバッハが、そこのところを捉えられなかったのである。

 だから、フォイエルバッハの疎外論は、現実の感性的な人間のうちに精神や神を捉える感性的な人間疎外であって、社会的で歴史的な条件のもとでの現実的な人間疎外ではないのである。資本主義社会の下での人間疎外の実態は、生産手段の私有制のなかで分業の発達により生産労働者は労働の目標と労働の楽しみを失っているのである。そこでの人間の労働は、ただ賃金を得るための手段になってしまって労働の本来の意味が疎外されてしまっているのである。現代社会における商品・貨幣・資本は、もとより人間の労働によって生み出されたものとしての生産が、人間的な意味を持っていたのにそれが覆い隠され逆に人間支配の力を持つものに、変形してしまったのである。こうした現象や事柄は、商品・貨幣・資本の物象化と呼ばれるものである。すなわち、現代社会におけるわれわれ人間の労働の内容は、人間的な関係が非人間的な関係に変えられたのである。この物象化のために労働は、本来の生産的で人間的な意味を失い人間的な関係から疎外される非人間的なものになったのである。つまり、人間の社会的な労働は、それによって与えられた価値が人間から離れ商品とか貨幣という物の属性として、初めから物に供わっていたかのように逆に人間に向かって、その力が働きかけてくるのである。

 このように人間の労働は、社会的な関係において生み出したものが人間を支配する力に変化したのである。すべてのこの変形は、生産手段の私有化という社会的な構造の矛盾を示すものである。人間疎外については、疎外という言葉の思想史的な成立過程を見るとヘーゲルにおいては、精神的な人間の条件によって精神の疎外になり、フォイエルバッハでは感性的な人間の条件によって人間的な疎外になり、マルクスでは生産手段の私有化という社会的条件によって労働の疎外となる等、共通しているものがある。そのことの意味は、主体であるわれわれ人間が自分の働きによって作り出したものが自立的な主体から独立したものになり、主体へ対立物になって逆に主体を支配すると言うことである。だがしかし、現代の人間疎外の問題は、歴史的で哲学的な意味を含んでいるのでこれを単純な疎外と言うことではない。ここで大切なことは、現代の人間疎外の問題は近代の個人主義的な人道主義と、その特色である調和の思想をもってきてもどうすることもできない程に現実的な矛盾が激化しているのが、現実問題なのである。

 つまり、人間的なものは、非人間的なものと関係する矛盾・対立・抗争を包括した内容の問題であるからである。だから、このような問題は、矛盾や対立が生じてくることについてそれは実際にどのような形態として、現れているのかという問題を把握し分析しなければならない。そこでわれわれは、人間疎外は労働の疎外という形で資本主義の生産手段の私有化の枠のなかで、商品・貨幣・資本の物象化によって引き起こされると考えたのである。さらに、われわれ人間の思考は、これを拡張して現代は資本主義の枠のなかでの生産の物象化の時代と見ることで、商品・貨幣・資本ばかりでなく抽象的なイデオロギーやスピチュアルな占いとかオカルト宗教など、制度・組織・技術・権力などが物象化されるために大規模な人間疎外が、おこると捉えるのである。こうした問題は、われわれ人間の持つ日常的な衣・食・住という生活過程のうちに取り上げた、労働の疎外化の門題があって本来はその過程と成果を享受することの喜びと、結びついているものである。そういう喜びがなければ労働は、活き活きとしたものになり得ないだろう。

 歴史的にも原始人の労働は、彼らが魚介類を取ったり野獣狩りをしたり木の実を採集する労働は、常に彼らの家族や仲間と一緒にそれを消費する喜びと結びついたものだろう。そういう労苦については、それを共同で食べたりその皮を衣料にしたりその牙や骨を道具にする喜びと結びついていただろうことは、想像に値するものである。そうした労働は、単に欲望を満たすことだけでなしにそういう喜びも伴っているものだろうと言うことである。喜びを伴うと言うことの意味は、そこに行為をすることのうちに目票と言うものがイメージされているのである。そうして、その目票については、いっそう明白にしたりその労力を軽減したりその目標の実現へ向けての方策を有効にしたり、その喜びをいっそう大きくするために互いに協力してその成果を、獲得してきたものと思われる。また農民が田畑を耕作する労働は、自分の力で開拓した土地を耕作する労働もその取り入れの目標のうちにはその喜びと結びついたものだろう。さらに手工業労働者は、徒弟制度という矛盾関係のうちにもその目標と労働が享受の喜びと結びついているのである。

 だから、フォイエルバッハのうちには、社会的な存在である人間関係についても理性・愛・意志のうちに社会的な関係に完全性を求めることで、愛とか友情とか言うものでしか見てないわけである。人間というものは、そういうものではなくて現実の社会に住んでいる人間として、日常的な衣・食・住という生活過程における様々な社会的条件によって、規定されているのである。だから、人間の本質は、社会的な諸関係のうちに存在するわけである。このような、社会化された人間は、結合された生産者たちが盲目的な力に支配されるように自分たちと自然との物質代謝に支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制することで自分たちの共同統制のもとにおく最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく適合した条件のもとで、この物質代謝を行うことなのである。こうした、われわれ人間の価値意識は、人間が行為する場合に何を大切に思い何が大切ではないかを検討するかは人間には誰しもあるわけで、そういう人間の意識の根底にあるものが価値意識というものである。各人においては、物事に対して価値判断を下す根本的な傾向性みたいなものがあるわけで、そういうものが価値意識といえるものである。


【引用文献】
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