伊藤順子著『声力 タイヤル族の朗唱の硏究』(文芸社・2012年5月)
文化情報専攻 教授 小田切 文洋
台湾には14の原住民が暮らしている。 その中で人口比の高いのはタイヤル族である(約8万5千人)。タイヤル族は日本と深い関わりを持っている。1930年に過酷な日本の植民地統治に対してタイヤル族の人たちが武装蜂起がしたのが霧社事件である(現在は、タイヤル族の支族セデック族に訂正されているが)。反乱の制圧のために日本側はガス兵器を使用したともされている。この事件は当時の日本の社会に大きな衝撃をもたらした。例えば、中村地平『霧の蕃社』などの作品が書かれている。
タイヤル族の伝統文化の一つに朗唱がある。朗唱は著者がタイヤル語の原語から訳出したものである。歌でもなく語りでもない声の文化を指していう。朗唱は祭の場などで唱えられる日本でいえば祝詞に当る性格を持つものであり、祖先からの大切な教えを諭す内容も持っている。
タイヤル族は日本の皇民化教育や国民党の国語運動(北京語の使用を義務づけたもの)により、日本語や中国語(国語)を強要され文字の文化を持つようになったが、日本の植民地統治が始まる前までは、長く無文字の時代が続いた。日本では文字の文化に厚く阻まれて理解しにくいが、人間の言葉の文化の基層には豊かな声の文化があることを忘れてはならない。タイヤル族をはじめ台湾の原住民の人たちの生活には、まだ声の文化の伝統が残っている。
伝統的なタイヤル族の人たちは、狩猟と焼き畑農業の簡素な生活をしてきたが、その中で生活に彩りを添えていたのが朗唱などの声の文化である。今、タイヤル族の人たちは生活形態が大きく変わり、若者は中国語を話すなど、民族文化の大きな変容期を迎えている。
タイヤル族の伝統文化の記憶を止めるのは、七十代後半以上の高齢者たちである。著者は、何度かの実地調査を通して、これらの高齢者たちに貴重なインタビューを行っている。本書は、著者のこうした地道な作業を積み重ねて書かれたものである。タイヤル族の社会を今でも支えている朗唱を硏究したものとして初めての専著である。全篇を通してタイヤル族の人たちへの熱い共感が貫かれているのも好感が持てる。
評者は本書の著者に宛てたタイヤル族の長老からの手紙を見せてもらったことがある。著者の研究への協力と将来にわたっての日本人との実りある交流への期待が書かれていた。本書の成果は、その期待に十分答えるものになっているだろう。