アーヘン便り(4)− 『CEFの日本における受容』を読んで

文化情報専攻 13期生 佐藤 敬子

 今年の夏もまた、日本は酷暑と聞いている。本当にお疲れさまと思いながらも、実は一方で、うだるような暑さを懐かしみながらこの記事を書いている。今年のドイツの夏は日照時間も少なく、寒い日が8月中旬まで続いている。

 さて、今回のアーヘン便りでは、EUが言語教育の指針としているヨーロッパ言語共通参照枠(Common European Framework of Reference for Languages, CEFR, 通称シェフアール)についてお話ししたい。その枠組み自体は1996年に発表されているが、その後すぐに各学習機関へ導入されたわけではなく、また、実質的な取り組みは各国各学習機関によって異なっている。筆者が日本語を教えているアーヘン工科大学では2年ほどの準備期間の後、2007年に正式に言語センターが設立されて、CEFRの理念である複言語主義の外国語教育が始まった。しかし、同時に学士導入や授業料徴収とその撤回など、他の幾つかの大学改革が並行して行なわれたため、各語学講座の受け入れ学生数や講座数など予算がらみの外枠の整備や変更が続き、カリキュラムに関しては各語学講座の担当者に一任されている。
 筆者はこの20年の学生や研究者との交流を通し、また、日本語学習後の学生たちの日本や日本語との関わりを見てきたことから、理工学系の学生や研究者にとっては文化教育を加えた日本語学習が望ましいことは、常々思っていたことである。その思いは、2008年から大学院生向けの日本に関する異文化学習セミナーを依頼され、言語教育とは別枠で異文化教育をする機会を得たことで、あらためて確信に変わった。したがって、異文化理解を目標にしたCEFRは、より学習者に適した日本語教育の可能性として、非常に好ましい教育理念と 受け止めている。しかし、言語学習に異文化学習を加えることは難しく、アーヘン工科大学ではその形を模索するべく緒に就いたばかりである。
 ドイツと日本はその文化、社会、メンタリティーにおいてかなり異質な面を持っているため、異文化学習セミナーに参加する学生はいろいろな面で勉強になるようであるが、フィードバックでは、日本人にも同じようにドイツの文化やドイツ人を理解するための機会を持ってほしいという声を聞く。筆者も、その言葉に心から賛同せずにはいられない。どんな言語を用いても相手の国の文化やメンタリティーは必ずその言葉の背景にある。それをお互いに理解し尊重しなければ、本当のコミュニケーションはできない。日本が英語教育に追われる事情は筆者もよくわかっているつもりだが、せめて大学では、様々な文化事情について学ぶ機会があってよいのではないか、それがグローバル化の中での大学教育の責務ではないかという思いを、セミナーを開くたびに新たにする。ヨーロッパにおけるCEFRの教育理念は、理念から実行に移す段取りが難しく、また、ヨーロッパの内部からも批判の声があり、必ずしも足並みは揃っていない。そうしたヨーロッパ発の教育理念を日本に移すことには、さらに言語教育自体を除いた様々な問題がある。しかし、異文化教育は日本でもできるはずで、CEFRから学び、比較的すぐに実行できることの一つではないかと考える。
 そのようなことを考えているおりに、 CEFRについてヨーロッパや日本における動向が詳しく報告されている『CEFRの日本における受容』(高田、引用文献参照)を読んだ。その中で、複言語主義とは何かという項を筆者が少し手を入れて短くしたものを以下に記す。

 近年、英語がヨーロッパだけでなく世界の共通語の役割を担っており、これは異なる母語
話者とも簡単に意思疎通が図れ、便利だと考えられている。しかし文化を含まないコミュニ
ケーションは多くの人々にとって最低限の情報でしかなく、相手の個人的な生活や価値観、
信条などはわからない。このような背景から、皆が一つの共通語を学ぶのではなく、皆が皆
の言語を学ぶという複言語主義の考えが生まれた。この複言語主義は個人の複言語能力
を生み、複文化主義の要を担う。言語とはそれ自体で存在するものでなく、様々な文化的
表出と絡んでおり、言語体験、文化体験をすることによりそれらを各々の中で消化し、個人
の文化的能力を形成する。多様な体験をすることで文化的能力が多様化し、比較され活
発に作用しあって複文化能力を作り出す。

 例えば、アーヘン工科大学の言語センターの現実は、以下の通りである。
1) 英語教育は、国際的な視野における大学教育と研究のために高度な能力の育成を目指し、他の語学講座とは一線を画している。
2) 外国語としてのドイツ語教育は、ドイツ文化の普及、留学生の受け入れのための、国家政策の根幹であり、これもまた別枠である。
 つまり、複言語主義の理念は英語と外国語としてのドイツ語以外の語学の奨励という形で現われているのである。
 アーヘン工科大学の上記のような事情を見た上で、日本での英語教育と外国語としての日本語教育にCEFRの言語教育理念を当てはめることを考えると、そこには少なからぬ無理があるように思える。日本語教育に関して言えば、日本国内の日本語教育、海外における日本語教育、そして、CEFRの枠内の日本語教育など、地域差による複眼の教育政策が必要であろう。
 日本でのCEFRの受容を検討した大阪外大の真嶋の知見が『CEFRの日本における受容』に端的に紹介されているので、それを筆者が短縮したものを以下に記す。

 CEFRに対しては、教育現場と実践を改善・発展させる新しい道具が提供された、と積極
的建設的に捉える立場に立つが、諸手を上げてこれを推進すべきだという考えには組しな
い。それは、端的にCEFRを非ヨーロッパ言語に適用できるのかという疑念があるからであり、
その理由は、言語と文化は切り離せないということからも、学習内容やテスト内容は文化に
よって扱いが異なるはずだからである。CEFRを開発した人々は、あくまでもヨーロッパにお
ける言語教育の参照枠をヨーロッパ言語を素材にした研究に基づいて行ったわけであり、
(以下略)。

 筆者はさらに、文化や社会規範、メンタリティーがヨーロッパと日本では大きく違うことが、日本語教育を含めた日本の外国語教育におけるコミュニケーション能力育成を難しいものにしていることを、ドイツを例に言及したい。
 4年間ほど市内のギムナジウムで日本語の課外授業をしたことがあり、そのときの生徒たちとの交流が、ドイツ式の言葉の教育と話す能力の関係を考える上で、非常にいい経験になった。
 ドイツの子供たちは、小学生でも自分の考えや意見をはっきり言い、周囲の大人も論理的に言葉で対応する。子供たちは15歳を過ぎる頃から、言葉の使い方も大人びて、表現力もつき、話題によっては大人と対等な意見交換ができるようになる。いろいろな話題をふると、もの怖じせずに自分の意見が返ってくるので、話していて楽しい。また、意見や考えをまとめるのが早く、日本語でありがちな「えー」とか「そうですね……」という言い淀みがなく、間髪を入れずに理路整然とした言葉が返ってくることに舌を巻くことがある。自分の意見を素早く形成し明確に人に伝えられることに自信と誇りを持たせる教育が、その背景にはっきりと見える。それによって、相手が教師だとか年上だというような対人関係を意識した物言いではなく、自分を表現することを意識した自己開示のための、開かれたコミュニケーション能力が育つ。
 淀みのない意思決定と論理的な表現力は、ドイツにおいて知性を評価する重要な基準の一つである。小学校のうちから、口頭発表力も成績に加味され、おとなしい子供の親は担任から、「間違っていてもいいから、授業でもっと活発に発言させるように。」と、日本人の感覚では考えられないような指導を受ける。日本の高校生に当たる学年では、ドイツ語や英語の試験は、日本のような○×や穴埋めではなく、その場で与えられた課題についての論評である。文法や語彙の間違いはその中に現れたものが減点される。成績は、試筆試験での得点と、口頭発表力が別々に評価され、それを総合したものが成績となる。大学入学資格となるアービトゥア(ギムナジウムの卒業試験)の科目の一つは口頭試験で、数人の試験官を前にその場で課されたテーマについて述べる。勉強で得た知識を自分の力でまとめて表現する能力が問われ、評価されるのである。
 ごく当たり障りのない話題も、時事やスポーツなど社会的な出来事についても、自分や家族などの個人的なことについても、 分け隔てなくオープンでわかりやすいのも、ドイツ人の会話の特徴である。自分や自分の意見をアピールすることに自信を持っている。いいことばかりではなく、困っていることでも、健康問題でも、よく話す。初めてあった相手にも実に屈託なく話す。パーティー等の集まりでは、たまたま隣り合わせになった人と2時間3時間と話が続く。そうした場では子供もれっきとした社交の相手になる。外国人も言葉の上手下手にかかわらず話を楽しむ。間違いだらけでも、会話に参加して話が通じれば、それでいい。もし、会話に加わらなければ、その集まりに無関心、あるいは会話の相手に関心がないと受け止められる。ドイツ、そしてヨーロッパの社交は、自分をアピールしながら会話を楽しむことであり、社交において老若男女も外国人も区別がない。まさにヨーロッパの文化とメンタリティーである。そして、その文化とメンタリティーを表出する道具として言葉がある。その意味で、言葉はだれにでも平等で、使いたいものに開かれている。
 では、日本の文化やメンタリティーも同じだろうか。日本語も開かれているだろうか。日本では、心を許した相手に言うことと、公の場で言うことに違いがある。相手との対人関係を考えて言うことを変えたり、控えたりする。社会的規範として、目上のものに出過ぎたことを言うものではないという教育を受けている。また、若者言葉に代表されるように、自分の仲間かどうかで言葉を使い分け、いわゆる言葉の壁をはり巡らしている。 同じ文化の中での年齢差、性差、職業や職責なども広義の異文化であるという概念から言うと、言葉で異文化を作り出している観が否めない。私は、日本語が論理的でないとも、開かれていないとも考えない。言葉は文化の一部であり、文化や社会を映す。言葉はそれを使う者の社会性やメンタリティーを映し出すのである。だとすれば、開かれた社会、開かれたメンタリティー、開かれた言葉に変わっていくには、大人そして教育者が認識をあらたに日本の社会を変えていくことも必要ではないだろうか。
 高田は『CEFの日本における受容』の終わりに、現時点の結論として「日本におけるCEFの受容は、CEF本来の理念・背景がほとんど無視されたものとなっていることは否めない」と現時点の状況を 述べ、「今後の課題は、日本への移民が増え、日本がますます複言語・複文化社会へと転換を迫られるであろう中、どのようにそういった社会へと変貌を遂げていくかが課題である。」と言葉を結んでいる。

<引用・参考文献>
高田正俊 『CEFRの日本における受容』
     http://www.hi-net.zaq.ne.jp/msworld/master's-thesis.htm
吉田茂・大橋理枝・奥総一郎・松山明子・竹内京子(編) 2004 『外国語学習U—外国語の学習、教授、評価のためのヨーロパ共通参照枠』 朝日出版社



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