鑑真子の徐州日記 ―夏休み編―

文化情報専攻 11期生・修了 山中 眞子

<苦あれば楽あり>
 7月1日から8月31日までの初めての夏休み。帰国を前にして胸躍り、毎日カレンダーの日付を消しながらその日を待つ。頭に浮かぶのは、新鮮な刺身、生寿司、てんぷら、日本そば、東日本ホテルのフランス料理、万葉亭の懐石料理、那珂川の鮎の塩焼き。「あ〜、早く食べたい」と、思わず生唾をゴクリ。しかし、帰国前に片付けなければならない大仕事、つまり初めての期末試験の準備と採点、そして評価という校務がある。学生も大変であろうが外教(ワイジャオ)(外国人教師のこと)もこれを片付けないと帰れないのである。三年生三クラスと一年生一クラスの会話試験、そして一年生の<日本概況>の筆記試験。会話試験はテーマに沿った三分間スピーチである。全身を耳にし、全神経を集中させ、130名のスピーチを聞いて、その場で瞬時に採点する。問題は、点数と評価を大学所定のシステムに入力する作業である。誰もやり方を教えてくれない。昨年赴任した中国人の日本語教師に訊いたがよくわからない。彼にしてかなり悪戦苦闘したというから、相当複雑なシステムらしい。「ああ、神様、仏様、どうか一週間でこの作業が完遂できますように、誰かお助けマンが現れますように…」と必死に祈る。まさに楽しみの前の苦しみである。

<頼りは学生のH君>
 日本語学科主任の王先生にどうしたらよいか相談する。「三年生のHが手伝ってくれますから聞いてください」との返事。彼は中間試験の時も問題作成を手伝ってくれた、頼りになる男子学生である。でも今回は何とか自力で一年生の<日本概況>の試験問題を作成し、期日前に念のために彼にチェックしてもらった。私は少し鼻をピクピクさせながら、「どう?今回の問題は完璧でしょ?」と言って見せた。彼は試験問題を見てこう言った。「先生、これだけでは十分ではありません。これはA巻です。期末試験ではB巻も作らないとなりません」。私は心臓が飛び上がった。「A巻?B巻?それは何ですか?」そんな言葉は初耳である。彼は文法的には多少的確でない部分がある日本語で理路整然と説明し始めた。どうやらA巻というのは試験当日用の問題で、B巻というのは60点以下の学生の追試用の問題らしい。提出期限は今日までである。彼と一緒に教務課に駆け込み、交渉の末提出日を一日延期してもらい、徹夜で追試用の問題を作成した。帰国は6月28日の午後。飛行機のチケットはすでにとってあるし、部屋の掃除や荷造りもしなければならないし、おみやげも買いたいし、遅くても26日中にはすべての作業を完成させて提出しないと日本に帰れない。焦る。試験終了、採点まではどうにか終わった。
 いよいよシステム入力作業である。H君に電話して、「やり方がわからないので手伝ってもらえますか?」と頼む。彼との会話は当初から、私は常にデス・マス調で、彼は私に尊敬語を使って話をしてきた。H君は、「はい、わかりました。では今夜先生の宿舎にお伺いいたします」と言って、午後7時に来てくれた。想像以上の煩雑な作業に、あっと言う間に時間が経ち、その割にはかどらない。眼の疲労度が限界に達し、やがて思考力もなくなった。それでも何とか入力完了。今夜はもう遅いからとH君には帰ってもらい、その後、夜通しで四クラスの学生全員に対するコメントも書き終えた。
 大事な期末試験の真最中に大変な作業を頼んでしまって、H君に大きな負担をかけたことを申し訳なく思う。彼に対する感謝の思いはとても言葉では言い尽くせない。彼は私の学生であると同時に、赴任してきた日以来、校内事情が何も分からない私をずっと補佐し続けてくれたこの上なく有能なTAである。どれほど彼に助けられてきたことか。H君、ありがとう。おみやげ買って帰るからね。

<初めての夏休み>
 そんなこんなで、何とか校務をやり終えて無事に日本に帰国することができた。北京空港での乗り継ぎの待ち時間の10時間は退屈できつかったが、羽田空港に到着した時の久々の日本の空気はおいしかった。宇都宮行きの高速バスの時間まで空港の高級寿司屋で四か月半ぶりに生寿司を食べ、その味に感激した。帰宅した翌日から、毎日美味しいものを食べまくり、7月21日の夏期スクーリングで呉先生とお会いしたら開口一番、「上海で会った時より大分ふっくらしましたね」と言われてしまった。せっかく9号サイズの服が着られるようになったと喜んでいたのに……。ショック!
 日本の夏休みは多忙である。子どもや孫たち、そして友人たちとの交流でみやげ話に花が咲く。しかし遊んでばかりもいられない。9月からは新三年生の一学期からの授業が待っている。会話のほかに文法と作文の授業が入る予定とのこと。夏休みの間に一年間の授業計画を立て、充実した内容の教案を作成したい。 一方、我が家ではボイラーが壊れて風呂が沸かせず、新しいのと交換したので数十万円の臨時出費である。その分を例によって百貨店の婦人服販売のアルバイトで稼がないとならない、相変わらずのタイトロープ生活である。
 初めて担任したクラスの学生たちは二学期の後半だけの短い付き合いであったが、H君はじめ、皆、高齢且つ新米教師の私を本当に気遣って助けてくれたし、本当に親切にしてくれた。そんな学生たちへの思いはひと塩であり、自分の子供たちと同じくらい、否、それ以上に可愛いくて仕方がない。帰国してまだ一月も経たないのに早々とお土産を買い込んで、スーツケースに出し入れしている私の姿を主人はどういう思いで眺めているのだろうか。お世話になった人たちへの感謝をたくさん詰め込んで、そして9月に出会う新三年生に対する期待と不安に胸をドキドキさせながら、徐州に戻る日を指折り数えてカレンダーの日付を消していく。私の初めての夏休みである。



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