ローレンツにおける進化論的認識と作業仮説

人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司

 ローレンツ(1903―1989)は「純粋理性の諸法則がすべて、他の器官と同じく極めて永い時間をかけて出来上がってきた人間の中枢神経系の、身体的な、或いはそう呼びたければまさに機械的と言ってよい諸構造にもとづくのであるという、われわれに謙虚さを要求する認識は、一方では純粋理性の法則に対するわれわれの信頼をぐらつかせるが、他方では逆にこの信頼の度を本質的に高めもする。純粋理性の諸法則には絶対的な妥当性が供わっているという言明、或いはおよそ考えられるすべての理性的存在は、それが天使であれ、みな同じ思惟法則に従わなければならないといった言明は、われわれには隣人主義的欺瞞さに思われる」(13)と述べている。このような意味からカント(1724―1804)による直観形式やカテゴリーは、明らかに人間という有機体の一体性がもつ身体的で構造的な作業仮説による概念的把握にあることは、確認されるであろう。純粋理性の諸法則と精神の自由との関係は、その他の身体的な作業仮説による可能的な自由との間の関係と同じであって、このような関係は支えつつ同時に妨げるという関係にある。

 しかし、われわれの外界にある実在的なものは、経験として捉えることで我々が外界の関係を把握しなければならない。ローレンツは、作業仮説の有効性について「カテゴリーというぶかっこうな箱が、決して自律的で絶対的な妥当性を要求し得ない、と言うことも極めて確かである。このことがはっきりするのは、われわれが純粋理性の法則を、系統発生的に成立した適応現象として捉える時である」(14)だから、ここでは、カテゴリー的な直観形式とカテゴリーが単に大まかで相対的な妥当性を持つにすぎないにも関わらず、われわれの種がその生活空間の絶対的な実在性との交渉を持つにあたって、作業仮設としての有効性を持ってきたという事実である。こうした概念的に把握される作業仮説は、他の如何なる解釈を持ってしても大きな矛盾に満ちているこのような事実が、解明されることになる。すなわち、純粋理性の法則性は、確かに現代の理論的科学においては次第に機能しなくなってきているのに種の維持という合理的で実践的な領域においては、完全に有効性を持ってきたし今日的にも確認されるものである。

 作業仮説を媒介にしたローレンツの認識の仕方は、「新聞写真に利用する網目版が、表面的に観察すると充分対象を再現しているように見えながら、たとえば虫眼鏡を使うような、より正確な観察に耐えうるものではないように、われわれの直観形式やカテゴリーによる世界再現もまた、波動論や原子物理学の場合のようにその対象のより正確な描出が要求されるや否や、機能しなくなるのである。一人ひとりの人間が物理的世界像という経験的実在から個人的に獲得した知識が、すべてその最も深い本質からいって作業仮設であるように、我々がアプリオリなものと呼びならわしている精神の生得的な諸構造もまた、すべて種維持の機能に関していえばやはり作業仮説なのである」(15)このように、われわれを取り巻くすべてのものは、諸現象の内部や背後に潜んでいる物自体を除いては如何なるものも絶対的なものではなくて、我々の悟性能力が思惟し得るものには作業仮説を媒介に本来の意味においてア・プリオリな妥当性を持つものは、何もないと言うことである。このような認識方法は、ヘーゲルにも見られるように作業仮説を媒介項として概念的に把握し追思考することによって、事物や事柄の本質を捉えるという仕方なのである。

 作業仮説を媒介とした認識方法についてヘーゲル(1770―1831)は「意識は、時間からすれば、対象の概念よりも表象の方を先に作るものであり、しかも思惟する精神は、表象作用を通じまた表象作用に頼ってのみ、思惟的な認識および把握へ進むものであることを考えただけでも明らかである」(16)としている。だから、人間の意識内容は、本来思惟に基づきながら最初は思惟という形式をとって現れずに感情・直観・表象というような思惟と異なった意識形態を取って現れると言うことである。そして「普通、追思考という言葉でいいあらわす思惟、すなわち、思想そのものを内容とし、それを意識へもたらす反省的思考を念頭においているのである」(17)だから、ヘーゲルの認識方法は、作業仮設を媒介とすることで概念的に把握し反省的に追思考(Nachdenken)するという認識の仕方なのである。さらに彼は「媒介とは、或るものから出発して第二のものへ到達していることであり、したがってこの第二のものは、第二のものとは異なったものから、それに到達されている限りにおいてのみ、存在するからである」(18)としたのである。

 われわれ人間の認識機能としての作業仮設は、やはり形態知覚も一つの器官の機能であり系統発生的に獲得され概念化された作業仮説であって、持続的なものとなるであろう。そして、この作業仮説は、原則的には自体的に存在しているもので所与性に単に漸近的に適合していくにすぎないのである。このような作業仮説は、われわれ人間に関係する遺伝的に受け継がれたあらゆる生得的な構造が、すべての有機体に供わっている調節的な役割をになう可能性に対して、器官機能の面で一般的な関係を持っている。ということは、この関係をわれわれとして分析してみると身体的で精神的な構造との間には、きわめて類似した一貫性をもった法則性の存在が明らかとなる。すなわち、各々の作業仮説の構造的な関係は、三葉虫から進化したと言われ二億年以上も前からその形を変えないまま現在まで生き続けてきた、生きた化石といわれているカブトガニの堅固な骨格成分と創造的な可能性との間に成り立つ法則性と、同じものなのである。単細胞生物の世界における最も単純な原初形態の時からの堅固な構造は、有機体の調節作用が持つ作業仮説の可能性と共に潜在的に包含するあらゆる生物進化の条件を、なしているのである。

 ローレンツは、作業仮説を媒介に「この意味で、堅固な構造は、生物の本質をなしているのかもしれないあの可能的な自由とまったく同じように、一つの価値の担い手なのである。しかしあらゆる構造は、有機体のシステムを支えるものとしての、望ましくかつ必要不可欠な活動の他に、望ましくない副作用をも持っている。そしてこの副作用は、一定の方向での固定化を押し進め、そのシステムから、ある自由度を奪うことになる。機械的な構造を導入すると言うことは、すべて何らかの意味においての自己の固定化を意味する」(19)だから、すべてにおいて固定化していくものは、ある原形質的な部分が流動的な凝集状態から固定的な凝集状態に移行していくものなのだと、考えられないことはない。このことの意味は、実在的な外界世界の自然に対応することで実在的な器官機能の内在的な本質を認識する成長過程における固定化と、退歩の固定化も発生すると言うことである。こうした意味において作業仮説は、悟性の外延的な形式ではなくて現実的で実在的な外界世界の自然に対応する概念化された作業仮説であって、実在的な物自体の概念的な認識が可能となる。こうした過渡的な認識は、作業仮説を媒介とした追思考(Nachdenken)をすることで実在的な事物の内在的な本質が認識可能となるのである。

 このように、われわれ人間は、理性的で理論的な存在者であると言うことの意味を捉えて、経験以前にア・プリオリな理論を論理的に持たねばならず、時間と空間という形式や因果律などを含む何らかの観方を、理論によって実在する世界を解釈するがそれを完全には、理解し得ないと言うことである。なぜなら、われわれ人間は、自立的な世界の理論によって理論化された存在であるからである。われわれの理論としての認識装置は、発生的にア・プリオリに存在するものであるがそれはア・ポステリオリなものが、ア・プリオリなものとして獲得されてきたものであると言うことを、認識することのうちにある。なぜなら、こうした理解がわれわれの内になければ、ダーウインの自然淘汰説に見られる現代進化論を論証することは不可能であるからである。われわれ人間は、人類進化の過程の中で様々な適応行動をすることで進歩と発展をするア・プリオリなものを自らの内に獲得し、それを認識論的に進化させてきたのである。このように、人間を理性的で理論的な存在者とする観点は、進化論的な認識論からすると認識対象である自然的な世界は、実在的で客観的な自然や社会において相互に関連する現実的で、理論的な存在なのである。

 カントの認識論は、対象である事物の現象を捉えるものであって物自体については認識不可能であるとされている。そしてカントは、物自体についてわれわれが明言できる唯一のことはその実在性にあるとしている。そのカントの認識の仕方は、純粋に観念的な直観の形式とカテゴリーとによって外側から決定されるものであって、この形式は物自体の内的実質とは関係なく物自体は認識不可能とされている。だから、実在する物自体とわれわれとの関係は、物自体が我々の感性を触発し現象が我々のうちに経験世界で現象してくる際のあの形式と物自体との関係は、非合理なものとローレンツに批判されたのである。ローレンツの作業仮説を媒介とした認識の仕方は、形而上学的で抽象的な思惟形式に求めるのではなく、対象である事物の具体的な外界世界である実在的なものにわれわれが適応することで、物自体に自体的に存在している本質を認識するのである。だから、この作業仮説を媒介とした認識の仕方は、悟性能力が作用する思惟機能である形式ではなく現実的で実在的な物自体である事物の内在的な、本質を認識することになる。


【引用文献】
総合社会情報研究科ホームページへ 電子マガジンTOPへ