レイトワークについて、この頃思う

文化情報専攻 10期生・修了 牧田 忍

 何だかんだと迷いつつ、不惑を越えて平均寿命の半分くらいを生きてきてしまった。最近、妙に頭をよぎるのが〈レイトワーク〉という言葉だ。僕はこの言葉を『小説の経験』を通じて知った。
 大江健三郎著『小説の経験』は氏のノーベル文学賞受賞の喧騒覚めやらぬ1994年11月に刊行された。本書自体は、著者がノーベル賞受賞の二年ほど前にテレビ番組で講じた「文学再入門」での講義と朝日新聞紙上で述べられた「文芸時評」と称する書評を再編纂したものである。難解さや独創的な文体が多い大江氏の作品の中では比較的平易な文体からも看取できるように一般人向けの大江文学入門の色彩が強い。但し、大江氏自身が序文にて〈逸脱の習性〉と述べられているように本著の内容は紹介される多彩な作品群と広汎な文学理論、深層心理学、建築学、古代史などと学際的に富んでいる。その意味で読者は広大な知の海に誘われ翻弄されることになり、入門書といっても当著作は決して易しい類の書籍とは言い切れない。しかし当著により大江氏の〈知の思考〉に触れる貴重な機会が提供され、文学的視野の拡大に有用であることは間違いない、と言えよう。
 当著の前半部にあたる「文学再入門」で大江氏は、「若い頃には読んだ本でどうもよくわからなかった、しっくりこなかった、ところがある年月を経てから読みなおしてみると面白くなっている…」「文学には年齢にそくした、その時どきの読み方がある」と述べ、氏が辿ってきた知の方法を実際の作品や理論を引用しながら解説がなされる。従前の大江氏には外国語の重要性を説き、一般の人々にも原書の講読を進めるきらいが感じられたが、当作品では手品の「タネ明かし」をするような感じで外国文学や文学理論を紹介する啓蒙的色彩が強く外国文学に不慣れな者でも作品に接することが出来る。
 氏は、単にストーリーや技巧を追うだけの軽薄な読み方を戒め、当著では読者と一緒に読んでいるような語り口で鋭い読みを披露していく構図となっている。大江氏の読みに接して、一般の読者は〈ノーベル賞作家はこのような読みをするのか〉、といった具合に大江氏の広汎な知識と深い観察力に驚嘆することになる。そして、〈自らも深い読みができるようになりたい〉と励まされる。
 一方、後半にあたる「文芸時評」は小説作法・世界市民といった別立てのテーマに基づいて作品を一つ一つ解説する構成となっている。「文学再入門」を概論として捉えるのであれば、「文芸時評」はケーススタディの実践編にあたる。
 便宜的に前半・後半と記したがこれは著作の構成上のことであり、実際の両作品は「文学再入門」はテレビ、「文芸時評」は新聞連載といったかたちでほぼ同時期の公表されている。従って、ニュアンスが重なる部分もある。その意味で読者は「文学再入門」「文芸時評」の双方に有機的な繋がりを求めることもできる。双方で繰り返される部分は要所として認識されるし、両作品の言い回しや事例の差異などの比較によって各自の文学的な世界を開くこともできる。例えば「文学再入門」の視聴者が「文芸時評」の連載を読むことで相乗効果を期待できるし、「文学再入門」で理解できなかった部分を連載で補足することも可能である。逆に「文芸時評」で大江作品に関心を持ち「文学再入門」や他の作品に触れる展開もある。その意味で新聞及びテレビといった異なるマス・メディア媒体を書籍という媒体に集約・統合することで相乗効果を与える試みはある程度成功していると考えられる。
 だが一方で文学とテレビの関係は難しい。大江氏は〈文体のある文章とはイメージを生起させ想像力を喚起するものである〉、と様々な場所で述べられている。であるならば、映像は鑑賞する側に余計なイメージを植え込んでしまう可能性がある。原作の映像化は大衆の獲得に一定の効果があることは認められるとしても文学の持つ芸術としての文体や普遍性までをも映像で伝えきるのは難しい。そうしたデメリットは文学講座においても言える。映像講義という手法は多くの視聴者を勝ち得ることは可能であったとしても、想像力の養成には結びつかない。その点を配慮してテレビ講座が活字化された可能性もある。
 大江氏は当作品の構想契機として亡くなった知人たちの姿を回想される一方で、渡辺一夫や梅崎春生、武田泰淳の名を挙げ、晩年の小説家が自身の死について考える作品を自己の創作活動のモデルとして理解する。そして、「もの見る眼を穏やかにしめす作品を書き上げ、生を終えたい」と告白する。多くの読者はそうした氏の心境の吐露と『小説の経験』をオーバーラップさせるであろう。
 大江氏は『燃え上がる緑の木』を完結し、最後の小説としていたが、やがて執筆活動をさせている。以降の作品を大江氏自身は〈レイトワーク〉と称し、戦後の問題を自身の人生と重ね合わせる作品を世に出している。氏がレイトワークという言葉に言明したのは1996年以降であるから時節としてはやや異なるが、『小説の経験』の文中には「しめくくり」「見つめなおし」に近いニュアンスが多用されており、レイトワークを一般的な語意通りに「後期の仕事」と解釈することが許されるであれば『小説の経験』こそレイトワークの画期に相応しいと言えよう。氏のレイトワークは高齢化社会を進み続ける我が国の社会背景と相まってさらなる価値を創出し続けているように思われる。当著の文庫化もそうした現れであろう。
 近年、書店では「一冊読むと百冊読んだ気になれる」、あらすじ集や解説集が氾濫している。便利な側面もあるが、ある種の軽薄傾向と言えよう。だが大江氏は「小説を一冊も読んだことがないという若者や、小説を読まなくてもそれについて書いた批評や概論さえ読めば内容もそれを書いた人間のこともわかると思い込んでいられるような、それぞれの人生の経験に自信のある年輩の方には、私の講義は面白くもなんともないはずですし、ものの役には立たない」と痛烈な言葉で退廃的な傾向を嗜めている。大江氏が当著作で強調されるのは物語のあらすじではなくて、あくまでも、人類の普遍的な原理を〈文学のモデル〉として捉えていく営為にある。だがそうした作業は一筋縄にはいかない。そうした場面において「小説の経験」は大江氏から読者へのエールとして貴重な輝きを放つ。
 「小説の経験」についても解説本の類として認識すること可能である。しかしそれでは惜しい。本著は軽薄傾向にある他の解説本とは明らかに一線を画している。一線というよりも対極に位置していると言えるだろう。簡単に読めるという本がもてはやされる時流に抗して、著者はあえて深く読む姿勢を随所で促している。そして、同じ作品を読み返す必要性を説いている。「小説の経験」でみられる解説的な要素はあくまでも、作品を深く読むための道しるべを提示しているにすぎない。大江氏が意図する本当の意味での小説再入門は各個人がそれぞれの経験に基づいて行なわれるべきもので、当著はきっかけにすぎない。
 大江氏がそうしたきっかけを人々に提供しようと考える背景には大江氏が信じてやまない〈文学の光〉の存在がある、と考えられる。そしてその〈文学の光〉によってこそ人類は進行した病に罹っている状態から希望的社会にいたるモデルが見出されるという確信が大江氏にはある。氏は〈文学の光〉は人間の想像力に由来すると考える立場から多くの人に想像力の喚起を呼びかける。当作品をテレビ・新聞・活字といったあらゆるメディア媒体で披露した背景に、大衆に向けてのメッセージ性が看取できる。
 大江氏は今日の世界情勢を捉えて、「病の進行した危機的状況」と捉える。そして危機的状況は全世界の自然界にまで及ぶ、という。そうした理解は読書や執筆といったデスクワークだけでなく永年にわたる氏の渡航経験や外国人との交流の中で練磨され積上げられた感覚であり、耳を傾ける必要があろう。
 国際化した現代社会においては望むと望まないとにかからわず、国際社会の一員と共生することが余儀なくされる。その意味において、他国の言葉、文化を理解することや他国との比較の中で自らの文化を理解することは肝要である。しかし我が国の場合は国際社会を推進する立場に立っているにもかからわず、閉鎖的な体質や独善的な発想が残存し、そうした現実が病の進行を助長させている側面かあり人間社会のモデルを考える上でも大きな懸念が抱かれる。
 大江氏の文化理解や社会的発言の数々は賛否両論渦巻いているのも事実である。だが、大江氏の一連の仕事を注意深く読み解けば、氏が求めているのは人類社会に希望的な観測をもたらす普遍的なモデルへの考究であることがわかる。
 大江氏は小説家であり、〈主張〉はあくまで小説の中で展開するべきた、という批判は起りうる。しかし、氏は外国文化に精通することで、サルトルのような文学者の在り方も念頭に置かれている。社会環境が複雑化する中で文学者がいかにあるべきか、という問いが氏の発言や行動には反映されている、と捉えるべきであろう。
 「小説の経験」の中で見出される〈文学の光〉とは人類社会に通有する普遍的な原理であり、それは「進行した病」の平癒をも促す力である。そして、その力の源泉は人間の想像力に由来する。であるならば、人間の想像力を喚起する作品を小説家は提示する必要があろう。人類が危機的状況にある現代社会の息吹を感じて、人一倍鋭い洞察眼を有する大江氏はテレビ・新聞・活字という様々な媒体を通じて一人でも多くの人間に想像力が発揮されることで病が平癒されることを願う。
 『小説の経験』は入門書の雰囲気を装っているが大江氏の「社会的使命」が凝縮された作品である。まさに何度も読み返すに値する作品であろう。
 僕は大江氏の社会的活動や発言には共感しない。しかし、氏の生き方は僕自身のレイトワークや社会的使命を考えていくうえでも勇気付けられる。結論的に僕は『小説の経験』を高く評価したいと思う。



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