アーヘン便り(3)

文化情報専攻 13期生 佐藤 敬子

 4月から夏学期が始まって1か月、ようやくクラスの雰囲気も落ち着いてきて、去年の10月から日本語を始めたクラスでは、内容的に区切りのいい今週、中間試験を行なった。夏学期は冬学期よりも短く、休日も多いので、慌ただしい。しかし、冬学期と違い、夏時間のために晴れていれば夜9時を過ぎても明るいので、人々の表情も気分も晴れやかで、9時近くまである授業を明るい日差しを浴びながらすることも多い。
 一方、日本では東日本大震災の爪痕もまだ生々しいというのに、今度は竜巻の被害。また、心が痛んだ。大震災の後も、大型台風、集中豪雨、大寒波と自然の猛威が続いている。大震災や自然災害からの復興と同時に、今後また、いつどのように起こるかわからない不測の事態に備えて黙々と自然と向き合う人々の姿には頭が下がる。遠く離れて暮らしている私にも、他人事ではない。去年3月11日にテレビの画面で震災の光景を見た時の衝撃は言葉に尽くし難い。あらためて母国ということの意味を突きつけられた思いであった。また、日本に興味関心を持ち、日本への留学を志す学生に日本語を教える立場で、これからの日本がどのように変わっていくのか、今後国際的な場においてどのような位置を占め、どのような役割を担っていくのか、国際社会の一員としてどのように責任を果たしていくのか、末端で仕事をする者としても、そうしたことを共に考えていかなければならないと心得ている。
 そのように考えながら日々接している日本の報道の中で、私が日本人として共感とともに快く耳にする報道は、これもまた自然に関する四季折々の花の便りや旬の味覚、各地の風物にまつわるニュースである。日本ならではの自然風土が育まれ、愛で慈しまれ、残され伝えられていくこと、またその便りに接するうれしさは国外に暮らす者には格別である。どの国にも自然があり、自然を大切にする気持ちに変わりはないが、自然のあり方も自然との付き合い方も、国によって違う。日本で生まれ育ち味わった自然は、外国ではおぎなえない。それは、母語で表現できることを外国語がおぎなえないことと同じである。日本人が日本の自然とともに歩み育んできた感受性、忍耐力、精神力は、日本人特有のメンタリティーや文化の形として発達してきた。自然に立ち向かう中で発展させてきた技術力は、国外でも高い評価を受けている。福島原発の事故直後、その数カ月前にドイツ国内の原発の更新を認可したばかりのメルケル首相が、認可の撤回を即決した。その決断の速さにかえって周囲が戸惑うくらいであったが、物理学の博士号を持つメルケル首相にとって、原発反対の多いドイツ国民に対する政治家としての配慮というより、日本の技術を持ってしても免れない惨事が万が一でもドイツで起きた場合に対する責任を考えると、そこには単に憂慮という言葉ではすまされない現実味と重みがあったもの、と解釈する識者は多いようである。原発問題、エネルギー資源、地球温暖化、どれも国際社会全体の問題である。これからも、福島原発への対応を始め、大震災からの復興や新たな社会づくりには、国際社会の関心が多く向けられることになる。
 日本はいま、絆という言葉とともに、日本全体が 一人一人の弱さを補い合い支え合おうという大きな動きの中にある。一日も早い復興と、老齢者や弱者障害者などへの配慮の行き届いた社会が来ることを心から願い、私もできる限りの協力をしたいと思う。また、日本人のメンタリティーはそうした社会づくりを実現できると信じている。
 しかし、その一方で、日本人の持つもう一つの面に心許なさを拭いきれない。先進国家としての日本の発展を支える、特に都市部の一個人としての自己の脆さと、国際社会におけるコミュニケーション・スキルのなさである。グループを離れて一人になると、まして外国人の中に入ると、表現力のなさが目立ち、自己主張ができない。メンタリティーの違いを理解し、自己をも客観的に捉え、現実を判断した上で対人関係やそれに必要なコミュニケーションを調整することは難しい。そういう私も苦労している一人である。
 社会の中で育まれるメンタリティーを変えることはなかなかできないし、また、変えることに意味があるわけではなく、それによって問題が解決できるとも思わない。ある共通のメンタリティーというのはその社会の中で生きていくために必要である。大人になるまでの学校教育では、不文律、暗黙の了解の中で、その社会で必要な規範や常識、メンタリティーが育つことが求められているのであり、例えば日本社会の中で子供たちがどのように英語を学んでも、日本人からかけ離れた欧米人のメンタリティーが育つことはない。教育する側がそれを子供に求めるとすれば、それは無責任な話である。子供は大人が考えるよりずっと保守的であり、自分の生きている社会で何を求められているかに敏感である。さらに、語学能力とコミュニケーション能力は同じではない。私は、自己の確立をはかり国際社会の中で自己表現、自己実現をするためのスキルを育てる教育は、大学がこれから担っていかなければならない重要な役目だと考える。しっかりした言語文化教育の下地をもとに、有意義な海外経験を積んだ国際人を育てることは、後回しにできない急務と見ている。私の現在の仕事は日本語を教え、日本への興味と理解を深めてもらい、学習後も日本と実際に関わっていくことのできる人材を育成することであるが、国際化の進展と、周囲の状況を見るにつけ、今後の日本を考えるにつけ、日本人がもっと国際人として育ってほしいと願わずにいられない。ヨーロッパがCEFRという明確な言語政策のもとに施策しているような教育のコンセプトが、日本の大学にも求められている。



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