対立と矛盾の弁証法(8)・対立の形態

人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司

 対立を認識するには、狭義の対立と反省関係という観念的な対立と広義の対立について本質的に区別される三つの内容を含んでいること捉えることにある。第一の対立については、互いにその意味の上で制約しあい依存しあって互いに相手を理解しないではそれが理解できないものになっているような、単に観念上での事物の反省関係や観念的な対立とも言われるものである。第二の対立は、現実において互いに相手の存立の前提や条件となりあって現実的に不可分の統一におかれているような現実の事物の一側面をあらわす反省関係と抽象的な現実的対立とも言われるものである。さらに、第三の対立は、現実的な対立としての矛盾がそれである。このうち第一と第二の対立が狭義の対立と反省関係をさすがその対立とは、一般に二つのものをはっきり区別しそれらを意味のうえで完全な排除関係におくことによって、それらの不可分の統一と連関を捉えたものである。第一の対立は、事物を現実の連関から切り離して現実に何の連関もない事物や事柄について単に論理的な区別と、論理的な連関だけを見たものである。

 第二の対立ついては、現実の事物や事柄についての現実的な区別と現実的な連関を見るものである。だから、第一の対立は、第二の対立の意味を含むものであって逆に第二の対立は必ず第一の対立の意味を含むものである。たとえば、現実に何の連関もない奴隷と近代労働者を比較しその区別と連関を捉えることは、単に思惟の上でのことに過ぎないが現実に区別と連関にある本質と現象・量と質・実体と形態・原因と結果等々は、観念的にも一方は他方なしに考えられないものであるような関係である。このような対立とその意味内容については、生産と消費について見ると生産とは人間の労働による自然の加工と変化や変革であるからいわば人間の物象化であるが、消費とはそれとは反対に生産物による人間の再生産であるからいわば物の人間化であるだろう。このように、その本質的な規定は、生産と消費の関係に見ると二つはどちらも生産物と人間関係という同じ二つの要因の統一であるが同時に各々が意味の上で、対立するそれら二つの要因のまったく逆の関係での統一として規定されている。

 こうした生産と消費の関係は、意味の上ではっきり区別されるだけでなく互いに一方の理解は他方の理解なしにありえないと言うことが第二の意味上の反省関係のうちにその統一が、捉えられているのである。これが第一の対立でいっそう立ち入った内容である。だが、生産と消費とは、ただそれだけではなくまた第二の意味での対立でもある。このようなことから現実に生産は、消費を唯一の目的としてそれなしではありえず消費は生産なしではありえないという関係のうちにある。また生産の発展は、消費を創造しその様式を変える消費の発展は生産の発展を促すことで、第二の対立は現実的に互いに他方を条件として規定されている。第二のこのような対立関係は、不可分の統一なしには具体的な生産過程はありえないのである。これが第二の対立の内容である。第一の対立の規定は、現実的に第二の対立の具体的な内容となっている。生産と消費の関係は、これらに限らず商品交換の発展における相対的な価値形態の発展と生産と分配・生産手段の生産と消費手段の生産の統一である。
 そして、生産力と生産関係は、いずれも観念的に不可分の統一にあるだけでなく互いに条件や根拠になり合いまた原因と結果や目的と手段になりあって、現実的にも不可分の統一となる関係にある。さらに、それだけでなくてすべての事物や事柄は、直接その類によって媒介されて本質において対立物であると言う事物や事柄を、覆っている偶然的なものや非本質的で差異的なものを取り去ってその本質を捉えれば、必ずそのものの対立的な規定が現れると見るのである。対立的なものは、観念的なものにせよ現実的なものにせよ対立こそ事物や事柄の真の区別であるが、事物や事柄の区別を捉えることはその統一を捉えることに他ならないのである。対立を見ることは、統一を見ることであるが対立の内容は統一の内容であって二つの事物や事柄が、互いに制約しあっていると言うのが二つの事物や事柄が互いに否定しあい、対立していると言うことである。同一と区別や分離との関係は、現実においても不可分離的である。このような対立を捉える意義は、これが現実の事物をその本質において規定する対立は反省関係のうちにある。

 このことの意味は、対立を見て次に統一を見るという分け合いの物ではなくて統一を深く見ていくことが対立的な区別を、明らかにさせていくことなのである。こうした生産と消費の関係を捉えるには、その他の事例にしてもそれらの関係は直接には常に不統一と不照応として現象しており、それらが統一と照応することこそ実際にはむしろ偶然の現象となっている。消費を無視する生産の発展は、無政府的な資本制的な生産の一般に見られる不均衡な発展の特徴である。これらの関係は、第一の対立の意味での観念的な対立の関係はともかく第二の意味での現実的な対立の関係は元々ありえないのではないかと言うことである。二つの事物や事柄は、まったく自立的に存立しているならそこに統一がないのも当然である。しかし、反対にそこに完全な照応があって少しも自立性がないならば、そこに自立的な二つの事物や事柄が区別できず二つ事物や事柄があると言うことも云えないから統一もまた無いことになる。このような生産と消費の一致は、これらの偶然的な変動を通じて結局は自分を実現していくという傾向であり内面的な法則としての統一である。このことは、統一の概念そのものに基づいているのである。

 こうした統一は、対立する二つの物の統一であり統一される物の自立性を前提にして成り立っている。したがって、相対的で独自的な発展は、それらの不均等な発展と不一致や不照応を内包しているのである。第二の現実の対立とは、単に観念的な対立とは違って現実に事物そのものの本質をなしている。その内面における統一は、それは単に偶有に対する実体的なものへの変化に対する静止的なものを意味するわけではなくて、むしろ偶然的な現象や変動に媒介されそれらを通して実現していく、内面的な法則としての統一なのである。だから、ここでの統一は、不断に実現していく必然的な傾向としての過程的な統一である。現実の事物は、すべて歴史的な存在なのだからその深部に働く法則もすべて歴史的なものでなければならない。だから、現実の事物を規定している第二の対立と現実的な反省関係は、過程的なものとして捉えられるのである。これら二つの事物や事柄は、現実的に制約し合い依存しあって統一している真の内容である。その対立関係は、それを捉える認識の欠陥と制限は抽象的で現実的な対立と云われる事と共に関わって、その現実的な対立の矛盾を見るうえで重要なものである。

 さらに、生産と消費との相互依存的な反省関係は、その具体的な内容に即して過程的に見たにしてもそれらを見たことにはならないと言うことである。このような対立は、二つの事物のあるいは一つの事物の二つの側面の相互依存的な反省関係を見たものであって、まだその事物の内部を見たものではないと言うことである。第一の対立は、その欠陥について歴史的に規定された生きた全体の主要な規定の性質を持った事物の関係の規定ではなくて、またそれを捉えたものでもないと言うことなのである。そうした対立の関係は、平均的に自立する或る二つのものの外面的な関係であって、それは同じ或るものである一つの主体の二つのモメントとしては捉えられていない。或る事物の二つの側面の関係を見る場合には、それを平均的に自立する或る二つの事物の関係と見るから事情は同じことなのである。それらに見られる主要な規定は、或る性質を持った事物や事柄の関係を規定するものではない。こうした現実の事物は、すべて生成し発展し死滅する生きた矛盾物としてそれ自身に留まりえないものであってこの対立は、ただ互いに一方が他方の条件となり前提となる関係にある。

 そして、不断に発展する二つの事物は、いわば永遠の相互依存の関係を捉えたものでその関係そのものを覆す原動力と矛盾を、捉えられたものではないからである。形式的には、第一の対立と第二の対立に共通する対立一般の欠陥であるが、内容的にはとりわけ抽象的な現実的対立といわれる第二の対立の一面性と抽象性を、示すものとなっている。それと区別される対立と矛盾とは、現実においてどのような関係のうちに成り立ち現実的な反省関係がどのようなものかと言うことを、捉えることにあるだろう。このような対立は、生きた全体としての事物の生命とその矛盾を表すものではないと言うことである。すべての事物や事柄は、矛盾物としては論理的矛盾を本性とするがそれはまた無矛盾律なしにはありえない。だから、論理的矛盾を抜きにした無矛盾律の絶対化は、無矛盾律抜きの論理的矛盾の絶対化もどちらも現実の矛盾を捉える具体的な論理とはならないのである。こうして見ることは、繰り返し言われてきた区別と矛盾と変わりないものとする捉え方であって、むしろそれを論理的に一般化してみたものに過ぎないのである。

 この無矛盾律と論理的矛盾については、形式的には形式論理学のそれとすこしも変わりないが現実の事物を根本的に規定する不可分の法則として、それを内容的に捉えることにある。それに対しては、論理的矛盾は正しい世界にだけあって現実の世界はただ無矛盾律だけが支配するという見地に立って、矛盾をとらえられるものである。だがしかし、そうした見地からは、各々の世界での論理的矛盾と無矛盾律の一面的な絶対化がもたらされずにはおかないのである。そこに社会的な生産力と取得形態は、生産関係との照応や一致の必然として無矛盾律がはたらいていればこそ、矛盾は解消して発展した社会的生産力に照応する新しい取得形態が新しい生産関係を、生み出さずにはおかないのである。すなわち、思惟の世界での論理的矛盾の絶対化からは、矛盾は思惟内部の単に形式的な矛盾した二つの判断に解消されるだけでなく、そうした論理的矛盾そのものが認識の発展の原動力とされるのである。そのことは、確かに認識もまた対立する抗争を通じて発展するがその抗争とは本質上は現実と思惟との矛盾以外の何物でもないのである。



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