修了生記念講話―学ぶことを伝える使命―

文化情報専攻 12期生 吉田 裕美

 去る3月25日に開催されました「2011年度修了記念祝賀会・同窓会」にて、「修了生記念講話」という晴れの舞台をご用意していただきました。私はマイクを前にし、故郷福島の現状と、震災後私を支えてくれた日大大学院の恩師や友人への感謝を込めて、復興に一番必要とされるのが学問の場であり、それをこの日大で学べたことが修了の喜びであることを会場へお越しの皆様へお話させていただきました。
 今回、松岡先生、同窓会準備委員会の皆様のご厚意により、先達ての講話の内容を活字として掲載させていただく幸運に恵まれました。このような機会をお与え下さった諸先生方、同窓会委員会、電子マガジンスタッフの皆様に、心より感謝申し上げます。

 私の住む町は、福島県のいわき市という港町です。町の半分の面積が、福島原発から30km圏内に入っております。昨年の今頃は、このような春の喜びが巡ってくる日が来ることなど無いだろうと、絶望の淵におりました。
 今日こうして修了式を迎えられたことが、昨年の福島の状況を考えると、奇跡以外のなにものでもありません。しかし奇跡は、偶然ではなく、人間が起こすものと言います。この祝賀会の場に、私がこうして立っていられるのは、ここにおられます先生方、事務課の皆様、先輩、友人、職場の仲間、そして家族が、懸命に支えてくれたことによる奇跡のおかげです。
 昨年は、絆という言葉が日本を一つに結びつけました。私は、この絆は多くの奇跡の連結から成り立っていると思います。まずは福島原発の爆発が、今現在止まっていることの奇跡、助かったことの奇跡、出会いが生んだ奇跡、そしてなにより今生きていることの奇跡。
 私の奇跡は、日本大学の学生であったことによって起こして頂だきました。本日手渡されました修了証書は、まさしく奇跡のバトンです。このバトンを福島で待っている子供達や学生に手渡し、次なる奇跡を起こす手助けをするのが、私のこれからの使命であると思っております。
 福島原発が爆発した際、半径20kmの警戒区域で避難された方々が、当日から翌日にかけてどっと私の職場であるスーパーに掛け込んで来ました。外は雪にもかかわらず、皆さんシャツやブラウス一枚で、財布しかもっておりません。赤ちゃんは毛布一枚にくるまれて半狂乱に泣いていました。着のみ気のままというには、様子が変なので聞いてみると「放射能に汚染されているから、持ち物は青いビニール袋に捨てなければならなかった」と言うのです。スリッパを履いている方はまだいいほうで、裸足の方もいらっしゃいます。自治体が用意したバスに乗り込み、強制的に裸同然で避難してきた方々で、店内が溢れました。顔や体は津波の泥もそのままです。その光景はアウシュビッツの収容所を彷彿とさせるものでした。
 でもその狂気のような光景の中で、泥だらけのランドセルを抱えた女の子を見つけました。女の子は恐怖と疲れで憔悴しきっていましたが、ランドセルを掴む手はしっかりと力強いものでした。
 ランドセルは持ち出せたらしく、長い非難生活中、子供達の唯一の私物として、寝る時も抱き抱え、精神の拠り所となっておりました。ランドセルにはゲームも着替えも入ってはおりません。泥で波打った教科書がぎっしりと詰まっておりました。ランドセルまで青いビニール袋に入れてしまうようでは、この国は終わりだと思いました。ランドセルには子供達の未来がいっぱい詰まっています。子供達の未来を 津波の他に、大人がさらってはいけないのです。子供達の生きる原点は、彼らのランドセルにあると思いました。
 私は二年前より 地元の大学生とともに、職場を彼らのボランティアの場に解放して、一緒に活動を続けております。GWが終わった日曜日に「吉田さん ただいま!」と全員が店に集まってくれました。彼らの大学は、いわき市で一番の収容人数を抱える避難所となっており、警戒区域内の市町村の仮役場と、高校のサテライト校が設置されておりました。現在は、大学裏の敷地が2000人を収容する仮設住宅となっております。
 「おかえり!」と私達は抱き合いました。彼らは私も同じ学生ということを知っています。メンバーは全員他県の出身だったので 彼らの親御さん達は皆、いわきに再び我が子を送りだす事をためらわれたそうです。「俺達を必要としている人達がいるこのいわきが、俺達の学ぶ場所だから」といった代表の本宮くんの言葉を合言葉に、今も私達は、活動を続けております。先日3月21日に全国学生ボランティアの報告会があり、福島の日大工学部のメンバーとともに、この一年の活動と、これからの自分達の夢を発表してまいりました。
 私の修論の指導教授を担当して下さった長谷川先生が、被災直後パソコンも電話も不通の中、携帯のメールで「あなたが、福島に残る意味」という言葉を送って下さいました。その一つの答えが、この本宮君の言葉にあった気がいたします。
 私がもし、学生でなかったなら、冒頭にあったように絶望とあきらめの中、日々は過ぎていったことでしょう。私もカバンひとつの非難生活をしておりました。しかし、そのカバンの中には、泥だらけのランドセルと同じく、水分を吸って波打ち、ボロボロになった修論の資料本が入っておりました。本を取り出す度、剥がれていくページをセロテープで止めるたび、長谷川先生の言葉や、同じ長谷川先生のゼミの先輩、そして友の顔が浮かびました。
 同僚が一人、また一人と職場を去り、避難所で渡された、たった一つの小さなお握りを握りしめると、心が挫けそうになりました。そんな時、いつもグッドタイミングで ゼミの友人から「私の論文も今まさにレベル7です」などというメールが届き、夜中だというのに大声で笑ったのは一度や二度ではありません。
 学校とは、悲しみや苦しみを分かち合い、それを乗り越えて共に喜びを手にする奇跡を与えてくれる所だと思います。先生や、親友に出会い、自分が生きる意義を学ぶ場所であると思います。私が学んだこの日本大学大学院 総合社会情報研究科は、校舎という概念を超えた「絆」というネットワークで結ばれたすばらしい大学です。震災後、多くの児童、生徒が、校舎のない環境で勉強を続けました。
 大切なのは、どこで学ぶのかではなく、何を学ぶのかということです。悲しみを支え合う友がいて、共に生きる事を教えてくれる先生がいる場所こそ、学び舎というのではないでしょうか。私は、この日大の大学院というすばらしい学び舎で、多くの事を学ぶ事ができました。
 これから先、私達はどんな事があろうとも、避難した子供達が抱えていた、泥だらけのランドセルを奪うようなことをしてはなりません。これから日本に必要なものは、原子力エネルギ―ではなく、子供達や学生が生きることを学ぶ「学び舎」だと思います。そこで生みだされるエネルギーこそ、未来を築く真のエネルギーだと私は考えます。
 テレビや新聞メディアは、連日多くの映像を流し、震災から一年を迎える日本を振り返っています。今、私達は一日も早い復興を目指し、新しい日々をあわただしく過ごしております。映像は記憶の中でやがて薄れていく事でしょう。しかし言葉は消えることはありません。なぜなら言葉は、記憶ではなく、胸に刻むものだからです。
 長谷川先生はじめ、入学時から今までずっと御指導してくださった先生方、先輩、友人、事務課の皆様の励ましの言葉は、私がこれから生きていく糧となり、一生胸に刻み続ける誇りです。
 電子マガジン47号で書かせていただきました、小学生との壁新聞を、3月31日に仙台で子供達と発表することになっております。「福島はひとりぼっち」と誰かが言いました。
 私は子供達に「それは逆だよ、世界はみんな福島のことを考えているんだよ」と答えました。私がこの大学で得た学び舎の真の姿を、一人でも多くの子供達に伝えたい。やがて その学び舎で学んだ子供達が、胸に刻んだ一人ひとりの言葉で、今度は地震ではなく、世界を揺さぶっていってほしい。
 私と福島、そして東北に明日を与えて下さった皆様に何度も何度も、心から感謝の言葉を伝えたいです。ありがとうございました。

 祝賀会を終えた後日、小学生と取り組んだ『僕らは福島のゴミをエネルギーにできるか』という壁新聞作成の活動を、4月14日にも発表する機会が得られ、“東北の小学生へ勇気を与え、日本の未来へ大きなメッセージを伝えるものである”と好評をいただきました。
 また、電子マガジン47号を読んで下さった博士課程におられます方から、長谷川先生を通じまして“福島の子供達にお役立て下さい”と絵本と募金を頂き、上記に述べました大学生ボランティア、赤十字様と話し合い『紙芝居の木枠』とスピーカーを購入いたしました。
 震災後、各保育園では、破損した紙芝居の枠まで資金がまわらず、読み聞かせに不便しているとのこと、また建物の倒壊や園児数の減少に伴い、合併した園が多く、広い場所で読み聞かせを実施する機会が増えたこと、などが購入の理由です。この木枠には募金をして下さった方のお名前をいただき『紀恵子さんの窓』という名称がつけられています。連日多くの園や団体より貸出の申し込みがあり、毎日このいわきの地を駆け回っては、子供達の心の扉を開いております。
 日大での絆が開けてくれたこの窓から、たくさんの子供達が、福島を、日本を、そして世界を学んでいって欲しい。そして彼らの未来への梯子を支え、その支える手を絶やすことなく伝えていくことこそ、日大大学院で学んだ私の使命であると考えております。



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