ローレンツにおける進化論的認識と構造化作用

人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司

 ローレンツは「物の自体性と、それが現象する際の特殊なア・プリオリな諸形式との間の実在的な関係は、我々の見解によれば次のようにして出来あがってきたのである。すなわち、何万年も続いてきた人類進化の歴史の中で人間は自体的に存在するものの諸法則に日々遭遇し、これと対決してきたが、この過程の中でア・プリオリな形式が自体的存在の諸法則への一つの適応として成立しこの適応によって外界の現実に充分に対応する構造化作用が人間の思惟に生得的に与えられるようになってきたのである」(7)こうした人類進化の過程では、あらゆる感覚器官が外界世界に適合する構造化作用も極めて長期間にわたる系統的な発生と進化する過程において、実在的なものと自体的なものとの対決によって種の維持にかなった形式を獲得してきたのである。だから、実在的なものへの適応としての器官機能の進化は、ア・プリオリなものをある意味で構造化作用の概念化として捉えア・ポステオリに発生してきたものとして把握することになる。

 ローレンツのこのような指摘は、人類進化の歴史と人間が自体的に存在する日常的な衣・食・住という生活過程の中でこれと対決してきたが、この過程のなかでア・プリオリな形式が自体的存在の諸法則への一つの適応として成立し、この適応によって外界世界の現実に充分対応する構造化作用が、人間の思惟に与えられるようになってきたのである。こうした外界世界の対応は、構造化作用という概念の形成過程において認識という統一をなすア・プリオリなものが存在すると言うことである。このことの意味は、ア・プリオリなものが構造化作用に根差していることを確信しているのである。だが、この外界世界に対応する抽象化され概念化された作業仮説は、われわれ人間の感覚器官と同じようにこの構造化作用によってその現象形態が、規定され存在している外界世界の事物と同じような実在的なものである。このア・プリオリなものが概念化され実在的なものであると言うことは、その措定なくしては合理的な説明をすることが出来ないだろう。

 われわれ人間は、人類進化の歴史の中で外界世界に対して自体的に適応し、実在的でア・プリオリなものを進化論的に捉えることで、カントのア・プリオリなものに適合されるだろう。カントは、われわれが捉える表象の中にア・プリオリに存在するところの空間と時間の直観形式というものが如何なる対象の実在する世界においても、本質を捉えることができないとしたのである。これに対してローレンツは「もしわれわれが、我々の悟性を一つの器官機能と把握し、しかもそう考えることに反対する明確な根拠を何ひとつもっていないとすれば、なぜ悟性の機能形式が実在の世界に適しているのかという問いには、ごく簡単に次のように答えることができる。すなわち、あらゆる個別的経験に先じて定められている我々の直観形式とカテゴリーが外界世界に適しているのは、ちょうど馬のひづめが、生まれる前から草地に適しており、魚のヒレが卵から孵る以前に水に適しているのとまったく同じ理由によるものである」(8)と述べている。

 このように、われわれ人間は、我々自身の五感や五指を一つの器官機能と把握することで実在的な外界世界に対応する悟性の認識機能が実在世界への適合性について、自然に従うべき法則を規定することはないだろう。すなわち、われわれの持つ直観形式とカテゴリーが外界世界に適合しているのは、あらゆる個別的な経験に先駆けて定められているようなものであって、丁度馬のひづめが生まれる前から草地に適しているように魚のヒレが卵から孵る以前に水に適合しているようなものである。だから、われわれの常識的な認識の仕方は、このような各々の固有の器官機能についてその器官の思惟形式が対象の実在的な特質を規定するとは考えないのである。むしろ、水が或る実在的な特質を持っていると言うことの意味は、魚のヒレが水の実在的な特質と生物学的に交渉を持っているか否かという関係とはまったく別の問題なのである。

 こうしたわれわれの認識は、外界世界とア・プリオリなものとの関係がどのように認識しているかという過程を実在的に考えることによって、新たな認識の理解を得ることになる。われわれの認識する根拠は、カントに即して主観にならざるを得ないが主観的な認識から認識の進化の過程で偶然得られた主観性を除く客観化を行うことにより、認識主体が外界世界の自然という客観の部分であることを理解することになる。そのことの意味は、認識する主体も認識される外界世界の実在的な対象も同じように現実に帰着することになるからである。主観性を捨象して客観化すると言うことの意味は、現代科学から哲学的で主観的な残渣を取り除くと言うことでもある。認識主体と外界世界の認識対象は、ひとつの現実的で実在的な世界で構造化作用として概念化された存在となる。認識主体が現実的な自然の一部であると認識することは、自然に対する全体的な理解と自然的な構造化作用を概念的に把握すると言うことなのである。

 ローレンツが捉える外界世界の実在性について「われわれの世界において現象として現れてくるものは、決して、外界に実在する事物が経験可能性というメガネを通してわれわれに働きかけてくるという形でのわれわれの体験行為の一方的な影響に尽きるものではない。われわれが経験として体験するものは常に、我々の内にある実在的なものと我々の外にある実在的なものとの交渉なのである」(9)としている。したがって、われわれの内にある実在的なものと外的事象との関係は、内在的な事実の法則性の方から逆に外界世界の法則性を推論することを原則として否定するような、非合理的な関係ではない。われわれの内にある実在的なものとの関係については、その他にも映像と対象の間に相互に関係するような単純化したような思考と現実の事態との間に成立するのと同じ関係であり、正確さの程度の差こそあれ要するに相似という関係なのである。われわれの内にある実在的なものは、我々の外界世界にある実在的なものとの交渉の関係を把握することで、思考と実在的なものとの間の事態を捉え物自体を認識することになる。

 われわれが捉える本質的な認識は、認識主体を含めた世界像を描くことができると言うことで認識能力や意欲を統合する超個人的な働きである認識を、成立させる統合機能としての構造化作用が存在すると言うことである。だが認識を成立させるこの統合的な機能をローレンツは 「世界像装置と呼びポパーが知覚装置と呼んだものを、カントが先験的なものア・プリオリという名称と結びつけた概念」(10)と規定しているのである。このことの意味は、対象である物自体を人間の認識機能により構造化作用を媒介として認識を成立させるのである。したがって、このア・プリオリな統合的な機能は、進化論的な認識論からどのように理解されるものであるかを把握しなければならない。周知のようにカントは、ア・プリオリなものを物自体となんら対応関係を有しない現象界を認識する能力として考えているのである。そこで、われわれが捉える本質的な認識は、我々の内にある実在的なものと外界にある実在的なものとの交渉によって、認識主体が構造化作用と概念化された媒介項を通して現実的に実在する物自体を、認識すると言うことである。

 本間司は「現代進化論、特に分子生物学で人間は他の動物から500万年前に進化したもので不変な存在ではないことを実証している。そこでは、人間は自然の淘汰圧に適応しながらも、自然と対決して自からの認識能力を変化させるという適応を繰り返しながら人間となるべく自らを進化させてきた生物なのである」(11)と述べている。このような進化論的な認識に対してカントは、物自体の端的な現象にア・プリオリな形式を当てはめるという静的な行為のうちに対象である物自体についての自然そのものを、われわれが認識することは不可能であるとしたのである。だからまた、物自体を認識する能力は、われわれ人間には与えられていないし、我々にとって認識可能な外界世界とは物自体である自然そのものと対応関係を有する、現象界でしかないとしている。このような、カントの認識論は、ローレンツのようなわれわれの内にある実在的なものと我々の外にある実在的なものとの交渉であるとする、認識の仕方ではないのである。

 ローレンツは「我々の直観形式やカテゴリーといったものはすべて、まったく自然的なものなのであり、あらゆる他の器官同様に、自体存在の法則的な影響作用を受け止め、かつ逆にそれを加工していくために、系統発生的に成立した容器なのである。そしてわれわれは、およそ生き続け、種を維持していこうと望むならば、そうした影響作用と必ずや対決していかなければならないのである。そして、この有機体的容器が供えている特殊な形式と、物自体に付随している特質との間の関係は、全く実在的で自然的な緒連関の中から発生した関係なのである」(12)と有機的容器を媒介項としている。この有機体的な容器は、物自体に供わっている特質に対して実在的で合理的な作業仮設による仕方で適合していくのである。その適合の仕方は、対象に対して相対的なものであって容器の形式が物自体の形式と同じであると云えるほど正確なものでもない、相似的な作業仮説なのである。われわれは、常にある意味で概念形成の過程にある作業仮説という容器を媒介とした感覚的な直観に基づく現象から、物自体である対象の本質を認識するのである。


【引用文献】
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