アーヘン便り(2)

文化情報専攻 13期生 佐藤 敬子

 12月号へ寄稿文を書いたのは冬の入口、アーヘンの町にクリスマスマーケットの準備が出来上がった時だったが、この原稿を書いている今は冬を追い出し春を迎えるカーニバルの直前で、お祭り騒ぎの大好きな町っ子達は、すでにお祭り気分に浮き足立っている。テレビでは連日、カーニバル会議と呼ばれるショーがライブ番組として報道され、カーニバルの衣装に身を包んだ観客を前に、カーニバル・プリンツ(王子の衣装を着てカーニバル を盛り立てる男性)やお笑い芸人たちが、世情や政治を盛り込んだ風刺のきいた笑いを振りまいている。カーニバルの風習は北の地方にはない。集まって飲んだり騒いだりのお祭り好きはどうも南に行くほど多いようだが、地方によってカーニバルの仮面や仮装、掛け声などはそれぞれ違い、ファスナハト、ファッシングなど名称も異なる。アーヘンの仮装行列も大きいほうだが、近隣ではデュッセルドルフとケルンが大規模で、政治家を皮肉る政治色が強いことでも知られている。カーニバルは、冬の魔を追い払うキリスト教以前からの風習と地中海文化圏から伝わった春迎えの風習に由来すると言われ、キリスト教が入ってきてからは、カーニバルの直後から復活祭までは精進の期間とされ、中世の終わりまでは肉やバター、ミルクや卵を控え、結婚式やダンスも禁止されていたという。夫の母はその期間甘いものを控えているが、そのような精進をしている人は今では珍しい。カーニバルの仮装行列が町を練り歩く日には、見物する大人も子供も負けず劣らず奇抜な格好をして、寒さもどこ吹く風と「オッハー、アラーフ!」「ヘーラウ!」などと行列にかけ声を掛けては、山車の上からばらまかれるお菓子を歓声を上げながら受け止め、集める。日本では、暑さ寒さも彼岸までというが、ドイツでは、冬じゅう日中でも薄暗く寒い日が、カーニバルを境に明るさと暖かさを増していく。カーニバルの日は小雪まじりの寒い日が多いのだが、冬の残りを上機嫌で送り出すドイツ人の愉快な一面が見られる日でもある。
 以上は、時候の挨拶ならぬ時節柄のドイツの民俗文化の一口紹介であるが、ここからは、 松岡先生の比較文学・比較文化特講Tの後期課題図書を読んで考察したリポートから一部抜粋し、私の日頃の仕事と当博士課程(前期)での研究の一部を紹介させていただきたい。
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 昨年11月初めに、ドイツの大学を視察見学に訪れた日本人の女子学生を対象に『ドイツの女性、日本の女性―現代女性のワーク・ライフ・バランスを二つの国と文化に見る―』というセミナーを行なった。それが、内容的に見て文化翻訳の一つの形態に当たるのではないかと考える。また、セミナーの準備と実施の際の視点並びに考慮したことに、本書(『翻訳理論の探求』ピム, 2010年)で扱われている思考や視点と重なる部分を見出すことができるので、本書の文化翻訳の思想に照らして考察してみたい。
 急に日本人向けのセミナーを依頼され、しかも「ドイツの女性について知りたい」という、一般的な異文化学習ではなくテーマが限定されたことなど、私にとって新しいことが重なった。事前の情報は、セミナーの参加者がいずれも化学系の学部で学ぶ大学院生並びに卒業間近の学部生の女子学生ということだけであったため、セミナーの目的や視点をどこに据えるか、いろいろと迷った。 ドイツについての一般的な知識がない対象者に「ドイツ女性」についてのみ語ることは難しい。また、日本女性に対するドイツ女性という二項対立では本当の姿を語ることができず、誤解を招くおそれのほうが大きくなる。考えた末、多角的な見方や考え方をしてもらうために、ドイツ女性だけではなく、日本とドイツ、日本人とドイツ人、男性と女性、ドイツと日本の大学事情、ドイツと日本の社会の仕組みの違いなど様々な視点の話題を用意し、その起点を「自分とは何者か」と「人生の目的とは何か」に置くことにした。その出発点から、セミナーを通して新しく発見したり考えたりしたことを、セミナー終了後も参加者各自がさらに発展させていってほしい、と願ってのことである。
 内容的には、異文化学習の一形態とし、パワーポイントを使ってプレゼンテーションをしながら、要点ごとに質疑応答を行ない、参加者のフィードバックを求めた。また、資料としてドイツと日本双方の女性や社会に関する統計を用意し、数字で計上される社会現象についての読み取り方にも注意を促した。セミナーに使用した資料は次の通りである。

 1)パワーポイントプレゼンテーション
 2)「ドイツの女性に関する各種統計及び参考資料」
 3)「日本の女性と男性 2009年」国立女性教育会館ミニ統計集
 4)「男女平等ランキングから読み解く」
 5)「国連開発計画が提唱する新しいジェンダー不平等指数—データ加工の落とし穴」

 このようなセミナーをする際に常に考えることは、 言語教育者・異文化学習セミナー講師として、職業的異文化間領域に生きている自分自身の立ち位置である。知識や経験は、一般的な基準、スタンダードがあるわけではなく、かなり個人的なものである。異文化に関して私が伝えることができる内容は、したがって、個人的な見解から完全に解放されることはない。異文化の仲介者である私に課されているのは、そのリスクをどのように少なくするかということであるが、同時に、ある程度は個人的な見解であるというリスクを負うことへの自覚と責任、そしてまた、異文化学習には仲介者の個性によるリスクが伴うことについての説明義務をどのようにセミナー参加者に対して果たすか、という課題である。また、異文化学習においては、通常のテーマである異国間、異国人間のみならず、男女間、世代間をはじめ、セミナー講師と参加者の間にさえ異文化的要素があることことに学習者が気がつくことも、重要である。つまり、異文化学習の目的は、固定観念や一方的な物の見方・考え方を引き起こすさまざまなリスクを提示することであると言っても過言ではなく、それによって、学習者が自分の「今」の立ち位置を自覚し、より多角的で柔軟な理解力・行動力を身につけることができるのである。
 そこで、実際にリスクがどのように提示され、それが学習者にどのように届くのかという点に配慮する必要性が生じるが、伝えたいことを言葉で記述すると、そこでまた、伝え手と受け取り手の間に意味の間隙や誤差が新たに生じることことも避けられない。このように見てくると、異文化学習における文化の仲介と翻訳作業が、片やリスクの提示、片やリスクの管理という形で、実は同じ課題を背負っていることが明らかになる。どちらの立場においても、その課題にどのように向き合うかということが、グローバル化の進む社会でこれからの重要な焦点になってくると思うが、そのことに関して大きな示唆を与えてくれるのが、スピヴァクが『ある学問の死』(2004年)で提唱している「応答可能性」であり、新しい比較文学が育み担う想像力であると考える。

 新しい比較文学は、翻訳者が行なった選択の意味を目に見えるものにする。フランス語から英語への翻訳の過程には、もう一つの空間における――フランス語によって形成され、英語によって撤回された――さまざまな区分の、今では姿を消してしまった歴史が横たわっている。その空間は、現在もなお歴史的に沈殿して底部に残存したまま、わたしたちの想像力の真の仮想現実性から発揮されるのを待っている、さまざまな民族と言語の運動に充満した空間なのだ。(スピヴァク, p.31)

 自己の内部における、そして、他者に向けた「応答可能性」は、翻訳を含めたこれからのコミュニケーションの鍵になるのではないだろうか。現代のように文化が多様な意味を持っている時代に、翻訳理論、比較文学、地域研究といった文化に関わる学問の境界線が重なり合って学際的になることは避けられないと考える。そうした輻輳する部分についての相互の「応答性」が、今、求められているのである。
 私が行なったセミナーの内容が、「8.4 翻訳としての民族誌学」で概説されているような「より単純で伝統的な意味」(p.255)を持つ内容であるのか、あるいは異種混淆性や越境の問題にも接触する文化翻訳の一形態であるのか、実は、私は判断できないでいる。では、セミナーの中で扱った統計を読み込む、そして解説するという作業においてはどうであろうか。やはり、個人的な知識や経験の限界はあり、そこから生じるリスクは伴うものの、翻訳者あるいは文化の仲介者が、数字自らが語ることができないことを補填する機能を果たせることは確かである。それは一つの文化翻訳であろうか。それとも、文化翻訳とは呼べない、異文化研究の一端なのであろうか。著者が「あとがき」に述べている「文化翻訳は,社会的コンテクストに照らして翻訳を理解する新たな道筋を開いた.……「一般化された翻訳」という観点は,職業としての翻訳・通訳との価値ある接触を放棄してしまうものであり,文化翻訳についての研究の多くは「異文化間研究(intercultural studies)」と呼んだほうがよいと私は考える.」(p.275)という文を何度も読み直しながら、反問を繰り返している。
 上記のセミナーをした後に本書を読んだことで、気がついたことが二点ある。その二点を述べて、本リポートを終わることにする。
 先ず、一点目は、セミナーを準備する段階で考えをまとめたり、統計から読み取れることを言葉に置き換えたりしたとき、言葉選びには慎重を期したつもりだが、その際の言葉の選択には、翻訳における等価理論、機能理論、不確定の理論などで挙げられている視点や思考過程と多くの場合非常に似通った思考過程を辿っていたことを、セミナー後に本書を読んで気がついた。翻訳という固定した産出テクストであっても、話すという行為であっても、言葉を使って文化を表現することが目的の思考過程は、同じか、あるいはよく似ているのではないだろうか。二点目は、翻訳に関しては非常にささやかな経験しかないが、その小さな経験と、第二言語習得の過程、さらに、異文化について思考する際、いずれの場合にも、意識的にも無意識でも、まず等価を試みる意識の動きが人の心にはあるような気がする。そのような心理がどのような人間的側面から生じるのか、今の私には説明する力はないのだが、「等価は社会幻想だが、必要な幻想だと私は考える」「等価にまつわる信念がどう成り立っているかを理解しようとするべきだ」(p.273)という、著者の「あとがき」の言葉には頷けるものがある。翻訳、第二言語習得、異文化間コミュニケーションの三者に共通していることは、もう一つある。不確実なことへの不安と危惧、さらに、実際に起きる誤解である。そして、それらの不安・危惧・誤解を取り除くためのリスク管理のストラテジーも、似ているのである。以上の二点についての考察は、文化翻訳と異文化間研究の関係と合わせて、私の今後の課題としたい。



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