E.M.フォースター雑感
第2回 土地の霊(1)

博士後期課程満期退学 博士(2010年) 松山 献

〈土地の霊〉とは
 E.M.フォースターには、その生涯や作品のなかでひじょうに大切にしたものがいくつかある。連載二回目の今回から、それを順に見ていこうと思う。まず今回は、〈土地の霊〉について。ラテン語でGenius Lociと言われて、昔から結構もてはやされている言葉ではある。しかし、なにも難しく考える必要はなく、私たちが誰でも日常的に経験することの多い概念だ。どこかへ行ったら、その場所に一種独特の、そこにしかない雰囲気というものを感じることがある。反対に、自分が長く住んでいる場所にも、何かしら愛着というようなものを超えた何かを感じとることができる。それが〈土地の霊〉だと考えてさしつかえない。日本では地霊という言葉があるし、守護霊や守り神などと呼ばれてきたものと考えてもいいだろう。

フォースターと〈土地の霊〉
 フォースターの小説において、〈土地の霊〉は諸作品の基盤を構成するたいへん重要な概念である。彼は、小説の至るところで「土地の霊」を描写しているのだが、自分自身も三回ほど〈土地の霊〉の強い刺激を受けたと語っている(『機械は止まる』序文)。フォースターは、実体験として〈土地の霊〉の作用を受けたのである。それはその場所においてしか醸し出されない独特のもので、自然と人間が織り成す固有の雰囲気である。
フォースターは、みずからのエッセーや評論をいくつかに分類して『民主主義に万歳二唱』というタイトルでまとめているが、その後半部分に、土地関連のエッセーを並べるにあたって、「私は土地に備わる力も信じているのだ」(11- xi)と語っている。ここでいう「土地に備わる力」というのは、まさに〈土地の霊〉を意味する。
 また、フォースターの小説で〈土地の霊〉という言葉を直接使っている箇所もある。『果てしなき旅』で、ケンブリッジ大学の落ち着いた学寮の雰囲気が語られる場面である。語り手は、「情勢の方向は、〈土地の霊〉によって少し決定されるが―というのは、あまり口に出して言わない方がよいのだが、土地には霊があるのだ」(1-91、改変、〈 〉は筆者)と語る。人間の生はその土地に潜む霊によって作用され、人生の方向もある程度それによって定められるというのである。しかし、科学偏重の風潮においてそのような見解は時代錯誤と受け取られるから言及しない方がいいとアイロニカルに表現されるのである。『眺めのいい部屋』で、シニョーリア広場の独特な雰囲気について語られる場面でも使われている。ここでは、「〈土地の霊〉の存在を信じるなら別だが、・・・」(2-88、改変、〈 〉は筆者)と、仮定法で語られる。これもフォースターらしい皮肉な表現であり、〈土地の霊〉のような非科学的なものが信じ難くなってきた風潮を否定しつつも、その存在が主張されているのである。

場所や空間への執着
 フォースターの小説を読んでいると、その土地土地の場所や空間へのこだわりを感じとることができる。たとえば、短編小説「コロノスからの道」において、水の滴る大木を発見したルカスは「この場所をおれのものにしてやる。入り込んでやる」(5-151)と熱狂的に語る。ギリシアの〈土地の霊〉が強く作用して、ルカスは場所に徹底的に執着するのである。『果てしなき旅』で、主人公のリッキーは「家の内部に関して極度に鋭敏で、それをそこの住人たちの意識的かつ無意識的なさまざまな思想を表現する有機体と見なしていた。リッキーは場所に関しても同様に鋭敏だった。彼はケンブリッジをソーストンと、またこの二つを第三のタイプの生活とよく比較したのだが、後者は、ほかによい名称がないので、ウィルトシャーという名前で呼んでいた」(1-249)と語られる。リッキーは生活を場所によって分けて考えていたのである。リッキーの人生にとって場所が精神的に大きな位置を占めていたことを物語る。
 直接〈土地の霊〉という表現を用いていないが、『ハワーズ・エンド』で、マーガレットは大都会ロンドンからの自動車の中で失ってしまった「空間の感覚」(the sense of space) (3-321〜322)を回復する。ロンドンに向かうと再びそれを失うのだが、戻ってからハワーズ・エンド邸を想起することでまたその感覚を回復する。この感覚も〈土地の霊〉であり、自然が十分に残されたハワーズ・エンド邸には存在しても、都会化したロンドンには消滅してしまった霊である。『果てしなき旅』において語られる、ウィルトシャーに漂う「無限なる空間の感覚」(a sense of infinite space)(1-177)も、〈土地の霊〉を表現している。これらはすべて場所や空間が〈土地の霊〉なのである。空間の感覚という言葉は、〈土地の霊〉をうまく表現している言葉だといえる。

章構成と〈土地の霊〉
 フォースターが〈土地の霊〉を重視したことは、作品の主題となる二項対立を場所の対照として表現したり、場所によって作品の章を構成したりしている事実からもわかる。
 『天使も踏むを恐れるところ』においては、作品の主軸をなす異なる二つの価値観の対立がソーストンとモンテリアノという場所の対照として描写される。対立するものは端的にイギリスとイタリアである。各々の場所を代表する人物が登場し、ソーストン的人物はモンテリアノという場所が発する〈土地の霊〉によって変革されていく。彼らが精神的に変化していく場所はすべてモンテリアノである。すべての出来事はイタリアのモンテリアノで起きるのであり、イギリスのソーストンでは起きないのである。イギリスの抑圧的不自由の世界と比べて、イタリア的自由や自然を象徴するモンテリアノという場所が特徴的に描かれる。
 『果てしなき旅』では、 ケンブリッジ、ソーストン、ウィルトシャーという三つの土地別に章が構成されており、それぞれの地名が章名となっている。各章ではそれぞれの土地が特徴的に描かれ、各々の土地を象徴する人物が登場する。
 『眺めのいい部屋』でも、場所による章構成はとっていないものの、舞台となるフィレンツェとロンドン郊外とは、第1部と第2部で明確に区別して描かれる。
 『ハワーズ・エンド』では、作品の舞台がそのままタイトルになるほど場所が重視される。大都会ロンドンと、ハートフォード州の田園地帯にあるハワーズ・エンド邸という場所の対照性が明確にされるのである。『インドへの道』で、モスク、洞窟、寺院と、章構成はその舞台となる場所によって構成されている。このように、フォースターの小説では場所がきわめて重要な要素となっており、それらはすべて〈土地の霊〉という見えないものに起因しているのである。

イタリアの〈土地の霊〉
 映画でも好評を博した『眺めのいい部屋』は、フォースターの小説の中でも最も有名かつ最もよく読まれている作品であるが、イギリスにはないイタリアというものが全編に漂っているという意味では小説全体が〈土地の霊〉に包まれているといってもいい。自分もイタリアに行ってきたような錯覚に陥るほどだ。灼熱の太陽がふりそそぐイタリアには、イギリスにはない底抜けの明るさがあり、それが英国人の憧れの的だった。そこにはイングランドにはない〈土地の霊〉が存在する。フォースターはそれを克明に描いたのである。
 主人公のルーシーは、自己解放を求めてイタリアに旅立つ。そのようなルーシーのイタリアでの姿について、「一瞬イタリアが姿を現し彼女をうっとりさせた」(2-27)、「イタリアの毒を含んだ魅力が彼女に作用した」(2-30)、「イタリアが驚異的な効果を彼女に及ぼした」(2-135)、「イタリアは彼女にあらゆる所有物の中でもっとも貴重なもの−彼女自身の魂を目覚めつつあった」(2-170)、と語られる。ルーシーの監視役であるミス・バートレットという女性も「イタリアはその役割から彼女を逸脱させているのだろうか?」(2-50)と語られ、いつもと違う様子が語られる。
 原文は必ずしもそうではないのだが、イタリアを擬人化して主語にするほど、イタリアという土地の醸し出す独特のものがルーシーを変えるのである。階級社会に毒されていたルーシーはいよいよ「イタリアで−人がみな日光をひとしく浴びるように、その気になれば平等の恩恵に浴するイタリアで−それまでの認識は消滅した。彼女の感覚は解き放たれた」(2-169)と語られる。
 さらに、アルノ川を中心としたフィレンツェの街の風景描写も、〈土地の霊〉を感じさせるに見事なものであるが、ルーシーにとって一大事件が生起するシニョーリア広場の描写も見事である。「海の神ネプトゥヌスの像は、なかば神、なかば亡霊のようにぼうっと浮かび、噴水が縁にたわむれる人間やサテュロスたちに水しぶきを浴びせているさまは夢のような光景だった。広場には宮殿への入り口が三つあり、そこには不死の神々が人間の行き来を見下ろしてひっそりと立っている」(2-62)と、〈土地の霊〉が漂う様子が克明に描写されている。


シニョーリア広場のネプトゥヌス像(© Futta.NET)

宮殿の「輝きはルーシーに催眠術をかけ」(2-63)と語られるのも〈土地の霊〉の強烈な作用を示している。なにか重要な出来事が起こるところには、もともと〈土地の霊〉が漂っている。そして、その漂う霊が本人に作用を及ぼして、何かが起きるのである。その出来事は、本人の人生を変えてしまうほどの大きな影響を与える一大事件なのである。〈土地の霊〉は、どちらかというと木や森や土がある自然の中で感じるものと考えられがちだが、「寂しい自然の中だけではなく、このような場所においても、ヒーローが女神と出会い、ヒロインが神と出会うのだろう」(2-88)と語られる。シニョーリア広場のような石畳にモニュメントというような人工的な場所においても体感できるというのである。
 フォースターにとって〈土地の霊〉が大切なのは、それが一大事件を引き起こすからである。土地の雰囲気がこうだああだというだけであれば、どうということはない。〈土地の霊〉が、そこに足を踏み入れた人間に対して、ある特定の作用を及ぼして甚大な影響を与えるから、面白いし、大切なのである。

次回に続く
 紙数の関係で、今回とりあげる具体例は、イタリアの〈土地の霊〉のみになってしまったが、フォースターの小説には、ほんとうに驚くほど、至るところに〈土地の霊〉が描かれている。次回は、『果てしなき旅』で語られる、イングランドの丘陵地帯という大自然の中の〈土地の霊〉、『ハワーズ・エンド』で語られる、大自然ではなく、家や木、丘、眺めといったものが調和した佇まいとしての〈土地の霊〉、『インドへの道』で語られる、イギリス人にとって未知であり驚異であったインドという土地独特の摩訶不思議な〈土地の霊〉という三つの異なる〈土地の霊〉を見ていくことにしたい。

※引用の翻訳文は、すべて『E.M.フォースター著作集』(みすず書房)を使用し、文末に巻数とページ数を記した。ただし、筆者で変更した部分のある場合は改変と記した。


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