対立と矛盾の弁証法(7)・現実的対立

人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司

 形式論理学は、定義をそのものの直接的な類と種差だという関係においてこの類と種や種と種の関係がまだ外面的になっている。だがしかし、対立的な把握においては、類は対立的な二つの要因の関係であり種差はその二つの要因が反対の関係になって互いに否定し合っていることから、類と種や種と種の関係は内面的で必然的なものになっている。このことは、日常的な生活過程のいたるところでこのような事物の対立的な関係の把握において考えて見てもわかることである。こうした観念的な対立は、本質的な規定としての独自の意義を持つものである。だがしかし、より深く吟味し探求するならば、その現実的な移行と連関を捨象して事物の深い本質が理解することができるかについて問題が存するのである。だから、それがどう存在するかを離れては、対象である事物や事柄の何であるかを把握することが出来ずに現実を離れての論理となるだろう。こうした事物や事柄は、対立的に区別されるとその本性がわれわれの目前に迫ってくるのである。事物や事柄の対立的な関係の把握は、事物のより深い定義の仕方であると言うことなのである。こうした定義の仕方は、われわれの対立的な区別を把握することによって一つの独自の役割を果たすものであることは言うまでもない。

 こうしたことの意味は、量と質や偶然性と必然性といった抽象的な規定であって認識の発展からしてもそれを掴んでいかねば真に必然的な区別とは言えないのである。事物や事柄の本質を把握するには、そのものの発生と消滅の過程とその発展法則を認識し理解しなければならない。また、事物と事柄の論理的な連関は、その一方から他方への現実的な移行を把握しないことには真に捉えることはできない。したがって、このような、端初的な論理的な規定は、観念的な対立の立場からするまだ抽象的で端初的な本質と連関の規定にすぎないものである。抽象的な対立の見方については、具体的な矛盾と発展の見地にまで進まなければならないものである。したがって、対立的な規定は、矛盾と発展の見地からする把握にいたるための初めの予備段階としての意義を持つものである。他方においては、事物のこのような対立的な規定や定義は事実上それが深く本質を捉えたものである。その内実の把握は、そのものの現実的な発展過程の法則を捉えることではじめて可能となる。様々に行なっている多様で対立的な規定は、現実的な過程におけるその要素や側面の成長と発展関係の把握があって可能となったのである。

 このように対立は、事物や事柄の本質的な区別と現実的な対立の認識であるが対立的な把握がすべて理性的な把握であるわけではない。東西・上下・左右・前後・男女・親子・南北等々の対立は、販売と購買が対立であること等と同じようにそれほど深い洞察を必要とするものではないのである。これらが相互に否定し合うと同時に相互に切り離しがたく結びついていることは、現象の表面に横たわっていることで誰にも容易に認められることである。単なる対立的な区別には、全く感性的で現象的な認識に過ぎないものもあることがわかるだろう。さらに、現実的で対立的な区別は、理性的な認識でも感性的な認識でもなくおよそ認識でさえもないそう言うものがある。しかもそれは、われわれの社会生活に大きな役割を演じている。このような感性的な対立のうちには、東西や上下と左右等の空間の対立的な区別は一方では客観的な区別を反映するものである。だがしかし、このことは、むしろ主として客観的な区別に少しもお構いなしに個人がその時々に任意に選んだ基準に従って、自由自在に空間を区別する仕方にすぎない。こうした区別は、客観的な区別を少しも反映しないものでこれは明らかに認識でない区別である。

 われわれは、このような主観的で自由な空間と時間を区別するのは生活の必要からでありこの区別なしには社会生活を円滑にやっていけないからである。それらのことは、すべてにおける主観と客観の関係に関する問題であって、差異的であろうと対立的であろうと単に物を区別することは、少しも主観や客観の関係の問題ではない。われわれは、そうした認識でない区別をおこなっている事実は誰しもが認めるところである。たとえば、われわれ人間は、すべてにおいて各々の事項をその名前の順に従って区分するがこれもそうした区別の一例である。このように東西や上下などは、主として認識できない区別であると言うことを何か特別な主張のように考えてはならないのである。むしろ、このような単に主観的な区別は、統一を認識できると主張する観念的な見方があるのであって、単に主観的にわれわれが物を区別することはそれだけとしては、客観的でもなくまた真理でも虚偽でもない。見田石介は「対立にはこのように三つの形態が区別されるが、これらすべてがものをたんにその意味の上から見て、抽象的にたんに論理的な区別と連関をみたものである」(5)としている。そこで意味する第一の対立は、単に観念の上での事物の反省関係や観念的な対立とも言われるもので第二の対立は、不可分の統一におかれているような現実の事物の一側面をあらわす反省関係と、抽象的な現実的対立とも言われるものである。さらに第三の対立は、現実的な対立としての矛盾である。

 その対立については「第一の対立から第二、第三の対立に移ってくると、われわれは単なる意味の世界から現実の世界に移ってくることになる。ここでは事物の二側面の現実的な関係、事物と事物の現実的な関係と、それらの現実の移行、発展が、対立的に区別されるのである」(6)このことの意味は、例えば生産は消費の条件となり消費は生産の条件となり各々は相手なしには存在し得ないものである。そのようなことから生産は、即時的に対立物である消費を内包しそれとの統一をなしており、反対に消費は生産を即時的に内包しそれとの統一をなしている関係にある。つまり、反面から言えば、現実的な統一と関連が見られるのである。だから、プラスとマイナスや東と西といった関係は、どんな意味においても互いに現実的に関連しないただ論理的にだけ関連しあっているような対立はここでは問題にならない。第二の対立は、どのような対立であるかを吟味するとこれはいま述べたように現実の世界における現実的な対立である点では第一の対立と違っているが、その形式のうえから見るとそれと全く同じことである。そこにおいて二つは、反対の関係で二要因の統一であり互いに排除しあい対立物となっている。

 対立の内容は、統一の内容であって二つの事物が互いに制約しあっていると言うのが二つの事物が互いに否定し合い対立していると言うことである。対立関係を捉えることは、対立を見てつぎに統一を見ると言う分け合いの物ではなく、統一関係を深く見ていくことが対立的な区別をはっきりさせていくことになる。例えば生産は、消費を条件としそれによって媒介され消費は生産によって条件付けられそれによって媒介されている。こうして二つの物の自立性は、各々において互いに否定されている。このように、否定し合うことで二つの物は、対立している関係にあるのであってどちらにしても第一の場合と同じことである。区別と同一や分離との関係は、ここでも不可分離的なものであってこれが第二の対立の論理的な意義である。日常の用語でも条件付けられるものは、目的と手段や能動と受動などこれらを対立と呼んでいる。この対立の意義をもっと見るためには、いま現実の過程としての生産と消費の制約と統一について考察して見ると、まず生産はその動機や目的と内的な対象を与える消費を条件としている。だから、生産の現実的な条件は、消費であることが理解されるのである。

 この一方的な制約関係の認識では、二つの事物の差異的な自立性は双方の側面において一挙に否定されるだろう。このような生産は、消費なしにはありえないものであって生産は消費によって媒介されるものである。こうした生産は、これによってその自立性を失うのだが一方で消費の方も自己目的ではなくて生産のためのもので、それに役立ち仕えるものとしてその自立性を失うのである。これは主人が、独立性を失うだけでなくそれに依存する主人の身内も独立性を失い奴隷が人間の自己疎外であるのと同じく、主人も別の形での人間の自己疎外であるのと同じ意味である。そして消費は、その外的対象を与えられるものとして新しい欲望を歴史的に形成し創造するものとしてその仕方や様式を、規定するものとして生産が現実的な前提となる。だから消費は、人間力の再生産として生産のための条件となり従って生産を論理的な前提としているのである。しかし消費は、生産に先立つ現実的な前提であるばかりでなく生産が終わった後にも生産物を消費して生産を完成させ、それに意味を与えるものとしてその論理的な前提となる。この制約関係によっては、再び双方の側面の自立性が失われる。だが、これらの関係では、生産の側面から見たものであるが消費の側からも同じようなことが言えるだろう。

 そこで問題は、生産と消費のような質的と同時に量的にも規定されるものは量的にも相互に制約し合い一定の比例関係におかれていることにある。社会的な総生産は、社会的な総消費にその質的な編成においても同じく量的にも照応している。こうして生産と消費の関係は、相互促進的に発展してきたのである。このような関係においては、これが生産と消費の統一の内容でありその対立の内容でもあるだろう。対立と連関の法則は、この第二の対立の統一の法則と同じものであらゆる事物は互いに制約し合い作用し合うことで、不可分な統一にあるという法則を捉えるのである。だから、連関の法則は、ここでいう対立の統一の法則だから連関の法則を捉えるには弁証法の基本法則である、対立物の統一との関連で捉えるという立場が必要である。対立と連関の法則は、すべての事物について言ったもので対立の統一の法則は対立物についてだけ言ったというものではない。すべての事物は、直接的なものであるかその類によって媒介されたものであるかその本質において対立物である。そしてまた、連関の法則は、すべての事物が制約しあい作用しあっているという時にすでにその事物は条件付けられて、原因と結果として対立させられているのである。だから、弁証法の基本的な法則としては、連関の法則と対立の統一を二つ別のものとして並べあげるのは正しい考え方ではないのである。


【引用文献】
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