ローレンツにおける進化論的認識とカントのア・プリオリ論
人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司
この小論の目的は、K・ローレンツ(1903―1989)における進化論的認識論を吟味することで認識対象である物自体の実在性と、その本質を捉える人間の理性的な認識機能としての悟性的な思惟機能の可能性を探求することにある。一般的にI・カント(1724―1804)の認識論は、ア・プリオリな存在自体は否定されなければならないと理解されがちである。だがしかし、ア・プリオリなものはカントが主張するような絶対的に真なるものではないが自然界を認識する理論的な認識機能として存在するものである。われわれの認識は、物自体へのア・プリオリな実在的な世界への適応と我々の経験を通うした実在的な外界との間で持つ交渉との関係について妥当するだろう。われわれが持つ悟性の思惟機能は、人類史的な進化と自然必然的な悟性のア・プリオリな関係を認識(Erkennen)することにある。カントの認識論は、対象である物自体の本質についてわれわれは認識し得ないのでありア・プリオリな悟性法則を通じて現象を認識するに過ぎないとされている。そこで本稿は、こうしたカントのア・プリオリ論に対してローレンツの現代的進化論からの自然必然的な適応作用の理論を駆使して、認識構造の解明を求めるものである。
カントの認識論は、悟性(Verstand)が働かなくては感性が知覚したものをまとめることができず感性(Sinnlichkeit)なくしては、悟性に働きかける材料がないとされている。だから、認識においては、悟性と感性とが互いに区別されつつ協働しなければならない関係なのである。だが両者が協働するために連関するのは、直観形式や純粋直観といわれる空間と時間でありこれが知覚である直観の内にすでに見出されるア・プリオリな形式なのである。われわれは、空間と時間という直観形式によってこの感覚を統一しそこに直観の対象が成立するのである。ところがこれに反して悟性の先験的概念であるカテゴリーの場合には、それがどうして対象に対して客観的な妥当性を持ち得るかという問題がある。その感性の働きは、直観の対象が与えられるのではなくすでに直観の対象が成立する時に悟性のカテゴリーが共に、働いていると言うことである。対象をこのように捉えることは、悟性の先験的概念であるカテゴリーが何故に直観の対象に対して客観的な妥当性を持つかということも理解されるだろう。しかし、空間と時間の形式によっては、感覚的な直観がまとめられ知覚されるがそれはまだ明確に確認されたものではない。
そのことの意味は、空間と時間にまとめられたものを悟性の働きである思考によって統一されなくては普遍的で必然的な対象は、真実の対象となることはできない。カントは、こういう思考の働き方と思考の枠組みを捉える思考の形式をカテゴリーと規定したのである。カテゴリーは、空間と時間によってまとめられた感覚的な直観と知覚された感覚に働きかけそれを材料にして、真実の対象を構成していく形式である。カテゴリーは、感性によって与えられた直観的な表象を材料にして、経験的な対象を構成していくものとしてそれ自身は経験的なものではなく、経験を超えたものなのである。すなわち、それが経験的なものを超えた先験的な形式なのである。カントによるとわれわれの認識は、感性的な直観のみでは成り立ち得ないもので我々が認識活動をする主観にア・プリオリにそなわる感覚における空間と時間との形式が、これと同じような悟性におけるア・プリオリな形式なのである。われわれは、事物の現象を空間や時間の直観形式を通して表象するがそれはただ単に意識しているという意味にすぎない。このような悟性は、直観的な感性に与えられた雑多で感覚的な表象と悟性概念によって思惟されたものが、結合され統一した経験やその対象を構成する、思惟する能力なのである。
このようなカントの認識の方法は、抽象による方法やその他の如何なる方法によってもこのア・プリオリな直観の形式やカテゴリーを、物自体に関係する法則性と関連づけることは不可能なのである。カントによる物自体についての認識は、われわれ人間が確認できることはその存在する物自体の現象と実在性なのである。ローレンツは「人間とは、認識というその高度の能力をも含めて、色々な特性や働きを進化のおかげで手に入れた一生物である」(1)としている。次いで彼は、「人間とは、常に未完成で、常に外界に適応しきれず構造も貧弱だが、しかし、常に世界に向かって開かれており、常に生成する存在である」(2)と述べている。このように、われわれ人間は、外界世界に適応しながらそれに対応する機能と感覚器官の進化の過程で獲得してきたものを自ら生成し自己を創造する生物なのである。さらに、ローレンツは、カントの認識論について「最高の理性原理が持っている妥当性は、カントにとっては絶対的なものであり、この妥当性は、諸現象の背後にあって、それ自体として存在している実在的自然の法則性からは、原則的に独立しており、そこから生じてきたものではない」(3)と考えられる。
カントの認識の仕方は、物自体(Ding an sich)がわれわれの感性を触発し我々の経験世界での現象として現れてくるあらゆる場面での形式と物自体との関係は、カントにとっては全く不充分な関係なのである。カントによる物自体の現象形式は、純粋に観念的な直観の形式とカテゴリーとによって外側から決定されており、この形式は物自体の内在的な実質とは無関係だからこそカントにあっては、物自体が原則的に認識不可能になるのである。カントは、外界世界の認識について「例えば一軒の家屋の経験的直観を、この直観において与えられた多様なものを覚知することによって知覚するような場合には、空間と外的な感性的直観との必然的統一が、私のかかる知覚作用の根底に存する、そして私は、空間における多様なもののかかる綜合的統一に従って、この家屋の形態をいわば描くわけである」(4)このような、綜合的な統一は、われわれが対象となる外界世界の直観における多様なものを結合するためのア・プリオリな条件である。そこでわれわれは、対象となる外界世界の内的直観を捉える形式である時間を度外視すればこの綜合的な統一は現象を捉える原因なのである。
このような実例は、対象である外界世界に対するカントの認識を明らかにしている超越論的な観念論の考え方なのである。だから、カントの認識論は、対象である物自体の現象がわれわれの感性を触発し我々の経験世界で現象として現れてくる形式との関係は、非合理的で不可知なものとなるのである。そのカントの認識の仕方は、例えば経験的な直観によって広がりを持つ一軒の家を見るならば空間と時間の形式に基づき一定の大きさの家の因果関係を成立させる量や原因という綜合的な統一を、必要とすることになる。要するに認識とは、主体と客体の綜合的な統一と言うことなのである。この認識主体の統一の根拠は、純粋な認識能力である悟性と先験的な統覚とその範疇である認識対象としての外界の世界は、認識主体にとっての現象であって物自体でないことになる。ローレンツは、このような実例を捉えることで対象となる外界世界に対するカントの認識の仕方を明らかにしたのである。こうしたカント認識論で問題となるのは、物自体と現象との関係や時空形式とカテゴリーというア・プリオリな物自体の存在なのである。
カントの認識論が捉える物自体の現象形式は、純粋な観念的な直観の形式とカテゴリーとによって内的な思考方法を捨象したものであって、物自体の内的な実質とは何の関係をもたず物自体は原則的に認識不可能なのである。これに対してローレンツは「物自体がわれわれの感性を触発し、我々の経験世界で現象としてあらわれてくる際のあの形式と、物自体との間の関係は、カントにとっては、極端に言えば、非論理的なものである」(5)と述べている。ローレンツは、カントの認識論について感性における時空形式と悟性におけるカテゴリーのうち人類進化の過程で現在までそのままであり得るものは何もないと批判している。ローレンツが捉える物自体の現象形式は、人間の直観形式とカテゴリーによってのみ決定されるのではなく物自体と直観形式に実在論的な関係を認めるべきとしている。そして「われわれが経験として体験するものは常に、我々の内にある実在的ものと我々の外にある実在的なものとの交渉である」(6)このような、実在的なものとの交渉は、われわれの悟性の内にある一つの器官機能と捉えることで悟性の機能形式が実在の世界に適応するように進化するのである。
だから、ア・プリオリなものは、物自体の概念的把握において内容を変えてはいるが形式自体は系統発生的に実在するものとして、解釈されるものではない。すなわち、われわれ人間の理性は、それが捉えているあらゆる直観の形式やカテゴリーを含めて人間の悟性とまったく同じように、自然の諸法則との絶え間ない相互作用のなかで有機的に形成されてきたものである。われわれ人間の思考にとっては、ア・プリオリな必然性を持っているとされる悟性法則もまったく、別の歴史的な発生様式やそれに伴う別種の構造化作用のもとでは、変化していたかもしれないのである。人類進化の過程においては、われわれの作業仮設が供えている媒介項と概念的把握が、実在的な外界のそれとはまったく無関係なはずだという主張も、単なる思い込みに過ぎない。外界世界で自然の諸法則との耐えざる対決のなかでは、こうした対決にふさわしいものとして分化してきた一つの器官がその器官固有の媒介的な作業仮説の合法側性において自然の諸法則から、まったく影響を受けずにいられたなどと言う事はありえないだろう。