E.M.フォースター雑感
第1回  E.M.フォースターという作家

博士後期課程満期退学 博士(2010年) 松山 献

はじめに
 E.M.フォースター(Edward Morgan Forster, 1879-1970)という作家をご存じだろうか。1879年にロンドンに生まれ、1970年に亡くなった生粋の英国人作家である。作品の素晴らしさに比して、あまり人気が上がらないので、彼に魅せられた私としては、いてもたってもいられない毎日が続いている。チャンスをとらえては彼を存分に紹介していきたいと思い、まずは本誌に連載させていただくことにした。何回になるかわからないが、この不思議な魅力を持った作家について、様々な角度から語らせていただきたい。E.M.フォースターという人物の人となりや作品を通じて、その素晴らしさをお伝えしたいと思う。
 この連載では、生涯を時系列で追ってみたり、作品のあらすじをたどってみたり、という従来の手法はとらない。いったんバラバラにしたジグソーパズルを完成させるがごとく、彼の生き様や作品をいつたん切り砕いて、必要に応じてそれらの断片を取り出して紡いでいくという手法で展開していきたいからだ。その結果、最終回が掲載される時点には、それなりのE.M.フォースター像が完成していれば幸いである。ただ、何よりもかによりも、読者の方に彼の作品に接していただくことが目的なので、この連載を読んでいただける方は、ぜひとも書店で彼の著作を購入して作品を読んでほしいと思う。

フォースターが生きた時代
 彼が生まれた1879年というと、イギリスではまだヴィクリア女王存命中であり、ヴィクトリア朝末期と呼ばれる時代である。一方、日本ではまだ明治維新直後で政治的諸改革がなされていたころである。そして、亡くなった1970年といえば、日本では万国博が開催された年であり、イギリスでは全世界を一大ブームに巻き込んだビートルズがもう解散してしまった年である。つまり、フォースターは相当な長寿をまっとうし、大英帝国の繁栄と没落、ふたつの世界大戦、重大な政治的経済的局面を迎えた戦間期、平和への模索期としての戦後、そしてビートルズまでをも見てきた作家なのである。
 彼が小説作品を発表した20世紀初頭という時代は、夏目漱石の作品発表期間とほとんど一致する。漱石が『吾輩は猫である』(1906年)から『明暗』(1916年)にいたる多数の名作を発表するまでの時期である。この事実を想い起こすと、フォースターはそんなに古い作家だったのだと思ってしまう。そうかと思えば、フォースター存命中に、日本ではもう柴田翔の「されど我らが日々」(1964年)や庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』(1969年)などという新しいタイプの作品が世に登場していた事実を想い起すと、フォースターも時代的に身近な作家だと思ってしまう。いずれにせよ、フォースターは世界のいろいろな事態と出来事を目の当たりにしてきた長寿作家なのである。

フォースターの小説作品
 フォースターは長寿であったにもかかわらず、創作活動の時期はごく限られている。彼は、創作活動に関してきわめて旺盛な作家であったが、作品数は決して多くない。長編小説は六作品のみである。その中でもっとも有名と思われるのが、イタリアのフィレンツェを舞台にした恋物語とされる『眺めのいい部屋』(A Room with a View,1908)と、イギリスの植民地におけるインド人社会と英国人社会の葛藤を描いた『インドへの道』(A Passage to India,1924)であろう。いずれも映画化されたことで知名度が急激にアップした。ほかにも『ハワーズ・エンド』(Howards End,1910)、『果てしなき旅』(The Longest Journey,1907)、『天使も踏むを恐れるところ』(Where Angels Fear to Tread, 1905)がある。ケンブリッジ大学の男子学生の同性愛模様を描いた『モリス』(Maurice,1971)という作品は、1905年に執筆されたが公刊されたのは没後であった。これらの主要六作品も、残念ながら日本では数多く読まれているとは言い難い。海外では、ペンギン・ブックスで全作品が発刊されているが、日本では買いやすいかたちで本が出ていない。文庫本として出版されているのは、『眺めのいい部屋』と『インドへの道』が「ちくま文庫」で、『果てしなき旅』が「岩波文庫」で刊行されているのみである。あとは、著作集全12巻が「みすず書房」から発刊されているが、これにはなぜか第一作『天使も踏むを恐れるところ』は含まれていない。最近、池澤夏樹個人編集による世界文学全集(河出書房新社)に『ハワーズ・エンド』が含められて、吉田健一訳の同作品が復刊されたのはたいへんうれしいことであった。そんなわけで、他の有名作家や古典的作家のように文庫本で出揃っているということもなく、かといって全集があるわけでもなくというところで、本屋で目にすることも少ない作家なのである。
 英文学では、ロレンスやハーディのほうがよほど有名だし、英国文学史においても取り上げられないケースが多い。かりに取り上げられても他の作家に比べてかわいそうなほど少ししか言及されない。そのような扱いを受ける理由のひとつに、彼の小説が読みにくい、わかりにくい、ということがある。しかし、私にとっては、だからこそ至極魅力的な作家であり、読めば読むほど味が出てくる作家なのである。何度読んでも面白いし新しい発見があるという意味でも、フォースターは稀有な作家である。

フォースターの思想
 彼には主義がない。信条がない。信念がない。というと、何にでも同調かつ迎合、カメレオン型の人物かと誤解されそうだが、むしろその逆であり、主張するときは情熱的で激しい。そして、彼は多種多様な側面をもつ。言い換えるならば、ある特定のひとつの信条とか信念といったものを持たないというのが彼の唯一の主義なのである。彼は多種多様なイズムを合わせ持つ。しかし、それはイズムそのものではなく、イズムを支えている精神という意味である。いろいろな考え方やイズムの良いところを自分の中にも取り入れる。しかし、受け入れられないところはどこまでも受け入れようとしない。私は、個人主義、自由主義、懐疑主義など十以上のイズムに含まれる精神を彼の中に見るのであるが、その最たるものはやはり多くの識者が述べるようにヒューマニズムの精神である。
 彼が標榜するヒューマニズムの基本理念は、「寛容」の精神である。キリスト教はひたすら「愛」を説く。しかし、フォースターにとって愛は理想であって、どこまでも不完全であり続ける人間には実現困難なものである。愛を語っても机上の空論に終わることを彼は知っているのである。フォースターほど愛について考えた作家はいないのではと思うくらい、彼の愛へのこだわりは深い。愛は人間が追い求めるべき最大のものである。しかし、だからこそ、キリスト教の説くような愛は実現困難だという結論に達したのである。では、愛の次に重要なことは何か、それが寛容であるというのだ。寛容であることなら実践できる。寛容の精神を実践するうちに、本来めざすところの愛が実現するのを待つのである。
 私がもっとも好きな大作『ハワーズ・エンド』の冒頭に ‘ Only connect … ’ というエピグラフが記されている。つまり、相反する二項があるとすれば、それらを結びつけることが肝要だというのである。世の中には、いろいろな場面で対立する二項が存在する。多くの場合、それは異なる文化のなかにいる異なる人間の価値観の相違である。フォースターはそれらを結びつけるということをめざす。そのために求められるのが寛容の精神である。対立する二項だけではない。あらゆるものを結びつけようとする。しかし、そのためには寛容の精神がなければ結びつかないのである。
 さて、私は、この結びつけるということのうちに、究極的には神と人間を結びつけるということを彼が考えていると思っている。そこで、キリスト教信仰を捨てたといわれるフォースターの神概念、宗教観に踏み込まざるを得ない。

フォースターの信仰
 欧米の作家で避けて通ることのできないのは、その信仰的背景である。欧米に生まれ育った以上、拒否するにせよ心酔するにせよ、キリスト教が思考回路の基盤となっている。キリスト教というものは、その人物の生き様や創作活動に必ず反映されている。欧米において例外はないといっていい。フォースターも英国教会の土壌のなかで生まれ育ったが、彼はケンブリッジ大学在学中に棄教した。それは、当時増えていたケース、すなわち教会の礼拝に行かなくなったというような単純なことではなく、自覚的にいくつかの教義を捨て、自覚的に信仰から離れたのである。
 しかし、フォースターは宗教の本質である「見えないもの」を大切にした。たとえば、「土地の霊」の存在を信じていた。人生には、回心に似た「象徴的瞬間」というものがあると考えた。個人と個人の関係は神聖なものであり、それこそが人生にとって最も大切なものであると考えた。そして、精神的なものも過去から現在、現在から未来へと連続していると考えた。その連続性には、起こるべくして起こる、なるべくしてなっていくという必然性があるとも考えた。これらがフォースターの考える「見えないもの」である。したがって、彼は現実を超えるものによって現実を把握しようしとしたといえる。この点において、フォースターは他のヒューマニストたちとは一線を画す。小説の中に超現実として「見えないもの」を描写し、それによって現実あるいは現実のなかにある真実を描こうとしたのである。 彼は徹底的にキリスト教を批判した。しかし、それは、イエス以後に形成された教会を批判したのであって、キリスト教という宗教がイエスの本来の教えをそのまま継承していたならば、違った態度をとったであろう。宗教は、組織あるいは制度化することよって堕落する。彼は、英国教会という巨大に組織化して自己目的化して、ひとびとの精神的支柱となりえなかった教会組織の現状に批判を加えたわけである。彼は、キリスト教を、宗教を、神と人間の関係を、その真実を探求し続けたからこそ、当時のキリスト教会から離れざるを得なかったのである。

フォースターの醍醐味
 フォースターの語りには、こうくるかと思えばすっとひいてしまったり、ここはあっさりしているかと思ひきや今度はたいへんしつこかったり、というものが多い。引いては返す波のように行ったり来たりすることが多いのである。彼の小説には明確な結末がなく、主題にかんする回答は読者にゆだねられるのである。複数の選択肢を残したまま結論を読者にわたしてしまうのである。そして、彼の小説作品には、作者が背後に退いてしまう部分と、作者が傲慢にも自己主帳する部分が錯綜する。内容がわかりやすくなる半面、ストーリーとしては流れがとまるので読みにくいことにもなりかねない。しかし、ここにこそ面白さがあるといえる。この面白さの理由は、この世の中には、決定的なことや唯一絶対のことなどない、絶対にこれが正しいとか間違っているとかは言い切れないのだ、というフォースターの達観である。
 さらに、それを補強するような素晴らしい文体。それはフォースターが一言一句きわめて精緻に言葉を吟味しているからだ。彼がひとつの言葉に与えた意味と内容はあまりにも奥深い。だからこそ一度読んだだけでは到底その深さを消化しきれないのである。音楽の分野でよく言われることだが、ベートーヴェンやモーツァルトの音に無駄な音符はひとつもない。フォースターの小説の言葉ひとつひとつにも無駄な言葉は一切ない。だから、何度読んでも新しい発見が待っていてくれるのである。
 さて、少しは興味を持っていただけたであろうか。ぜひ、本文の中に挙げた作品の中から、一作品でも読んでいただければ、と願う。ストーリー展開的にも、購入しやすさの点でも、対象を決めつけてはいけないが、若い方には「ちくま文庫」の『眺めのいい部屋』、中高年の方には「池澤夏樹個人編集=世界文学全集」(河出書房新社)の第7巻『ハワーズ・エンド』をぜひおすすめしたい。



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