対立と矛盾の弁証法(6)・論理的対立
人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司
事物や事柄の対立について見田石介氏は「対立をみることは統一をみることである。対立ということと対立の統一ということは同じことである。根底の同一性やその相互浸透なしには、あるいはそのことが見出されないなら、二つのものが対立的に区別され得ないのである。」(1)と述べている。このことは、例えば人間の社会生活において対立する内的な両側面は生産が主要な側面であって人間力の消費が副次的な側面をなして、全体として生産という一つの規定になっていることに見られる。同じように消費の方は、衣・食・住という生活過程において人間力の生産が主要な側面を消費が副次的な側面をなして、全体としては消費という一つの規定になっている。すなわち、或る事物の統一されている二つの対立項は、平均的な関係ではないだろう。こうした対立においては、区別される二つの側面が各々両極での対立的な二要因の統一であることでその側面が、各々において統一されていてその対立が二重であるように統一も二重になっているのである。
しかし、この二つの統一は、一方は各々の側面で内部の統一と他方で二側面の間の統一としてその位置が異なっているだけでなく、その形態もまた異なっているのである。このような対立を把握するには、対立の内に否定し合っている二つのものが制約し合っていると言うことを捉えることにある。このようなことは、矛盾と対立を区別する点においての重要な違いを意味するものなのである。こうした人間の社会生活における対立の統一は、生産と消費という二つの規定が同じような自立性を持って存立していることで主要な側面と副次的な側面に分かれているものではない。見田石介氏は、対立の区別について述べている。「積極的なものと消極的なものとして区別されるがそれは取替えるものでありどこまでも等価のもの平均的なものとして存立している。これがここで言う対立の統一の一つの特色である。この対立に対してもう一つの区別の仕方である差異は、区別される二つのものがこのように互いに完全に排除し合っていない区別、従ってまたそれらは互いに統一されてもいない区別の仕方である。」(2)としている。
こうした対立の区別と各々の差異性については、同一性が二つのものの間に定立されていないで区別される或る二つのものが各々において自己同一性を持ち、この二つのものが互いに無関心になっているという対立関係である。この二つの区別されたものは、各々が別々に規定されてそれら二つの区別も各々が別々なものであれば、それらの関係も各々が別々なものなのである。これに対しては、区別される或る二つのものが排除関係におかれることによって各々の持っている自立性と自己同一性が否定されるのである。したがって、その相互的な無関心性がなくなることは、或る二つのものが単に相対的で相関的なものになっているのが対立である。つまり差異性は、直接的で感性的な認識であり対立は本質的で理性的な認識であると言うことになる。対象である事物や事柄において一般的で対立的な規定では、その規定が二要因の統一と考えられないような場合にその二つの側面の各々が、二つの要因になっているのである。
見田石介氏は、抽象的な対立規定について「たとえば東は西なしに考え得ないものであり、東といえばすでに西を予想しているのだから東は自分の否定者である西を即時的に含んでいる。反対に西も東を即時的に含んでいる。すなわちそれぞれたがいに東と西とを逆の関係でふくんでいて、互いに否定し合い、対立となっていると考えられる。」(3)と述べている。たとえば、われわれ人間の社会生活において生産と消費という二つの規定は、このような関係における相対的な内実は互いに相手なしには考えられぬものである。その意味においては、互いに相手を即自的に自分のうちに含んでいて相互依存の関係にありながらも、相互排除しあって対立しあっている関係である。だがしかし、ここでの排除というものは、まったく現実的なものではない観念的な意味の排除関係のことである。反対に複雑な事物や事柄は、それは多くの規定の集合であるがそれが発展して転化する事物と対立しているのは、やはりそれらの多くの規定の内で全体の性質を決定する主要で対立的な要因が、互いに反対の関係になっているからである。こうした対立する二つのものは、各々が互いに相手なしには理解できないものであるからこのことは同じことであるが、互いにその自立性を否定しあっている関係なのである。
さらに見田氏は「このように、対立する二つのものは、それ自身否定的な二要因の反対の関係での統一となっていて、たがいに排除し合い、同じ一つの主体に同時にその属性として所属しえないものである。」(4)と述べている。したがって、その統一と言うのは、この二つのものの関係を言うだけであって一つのものを言うわけではない。そして、われわれは、純粋に対立の見地に立ってそれ以外に別の考慮を加えなければ対立的な区別される二つのものは、主要な側面と副次的な側面に分かれない平均的に自立した二つのものなのである。単なる対立の観点からは、われわれの生活過程に見られる生産と消費やこれらすべての関係は互いに積極的なものと消極的なものとして平均的に見られているのである。だがしかし、われわれは、こうした事物の対立性を何か例外的で特殊なものと捉えてはならないだろう。世界のすべての事物や事柄は、われわれの頭脳における反映としての概念であり規定や法則はすべてその本質において質的に規定されたものである。だがすべての規定は、否定でありそれは本質において対立物である。
対立とは、規定的反省と区別が完成する対立の同一性と差異性との統一である。このような二つの契機は、ただ一つの同一性の中にあって互いに差異するところの契機である。そのことは、二つの契機は互いに対立した契機である。われわれは、事物や事柄についてその本質を捉えようとするならば、それを覆っている現象や偶然的で非本質的なものや単に量的な差異に過ぎないものを捨象して、差異的でなく対立的である本質を捉えることである。対立と区別の本質は、事物や事柄の対立こそが真の区別であることの意味を捉えることである。そのような見方は、あらゆるものをその現実的な連関から引き離してそれを無時間的で無空間的な思惟の抽象的な世界に移し、それを単純化して論理的な区別と単なる論理的な連関だけを見ることにある。われわれは、これまでの対立を差異と区別して主としてその一般的な特性を見たのであるが、この対立は同時に観念的な対立でもあるだろう。こうした観念的な対立としての一切のものは、単にその意味の上で区別するところに他の対立と区別されるその特性を持っているのである。
このような論理的な区別と観念的な対立は、現実的な連関と移行がすべて捨象されていることが頻繁に見られるのだが、これがこの対立の抽象的な立場の特徴なのである。われわれの認識の立場は、一面においてこうした現実的な事態のあり方から解放されることによって、一方では大きな自由を得ることになる。たとえば、奴隷と労働者・西洋と日本の封建制等といった問題は、現実にはまるで連関を持たない二つの事物や事柄をもこの抽象的な世界において一緒に並べてそれを対立に規定し、その論理的な意味と連関を見ることができるのである。さらに、封建制度や資本主義制度といった現実の歴史の中では、一方から他方へ現実的に移行し現実的に連関している諸形態をその現実的な連関から引き離して捉えては、封建制や資本制とは何かという問いに対してそれらの一般的な論理的な本性を明確に規定することはできないだろう。また、量と質・プラスとマイナス等は、こう言った現実の存在でない抽象的な規定の意味と連関について、こうした立場からでなくては明らかにすることができないのである。
われわれの思惟は、現実的な時間や空間的な関係を捨象し、互いに現実的に関係のないものや単なる思惟の産物である抽象的な規定を取り扱うことはできない。こうした対立というのは、決して現実の事物とか具体的な事物の二側面を具体的に捉えたものではない。また、その統一と言うものは、二つの事物の現実的な関係でもなく現実の事物の生きた具体的な統一でもない。だが一方においては、このような抽象性こそがその反面においてこの対立の立場が認識として持っている制限性を示すものである。われわれは、敵対的な対立と非敵対的な対立といった二つの規定を対立的に区別し、その統一を見ることができる。しかし、この二つの対立は、各々の両極項の事物の二側面でないと同じくその統一は事物の具体的な統一でもないのである。たとえば、奴隷と労働者を対立的に比較することは、その対立の統一を見るがこの統一というのは決して生きた一つの事物の統一でもなく個別的でも普遍的でもなく、それは単なる意味と規定の上での共通性であるに過ぎないものである。こうした対立は、現実の事物の対立的な二側面の現実的な統一であるから、観念的で抽象的な対立の統一は矛盾ではないのである。
このような対立は、これまでに見てきたことからも明らかなように単なる現象的な認識と感性的な認識である差異に対して、事物や事柄に対しての本質的な認識や理性的な認識である。こう言う対立は、多くの場合に現象の背後に隠されている事物の連関を捉えて初めて可能なものとなるからである。事物や事柄についての対立的な区別は、こうしたもののより深い本質を明確に規定したものであって、それが何であるかを捉えるものがその定義であると言うことができる。一方この対立は、封建制社会と資本制社会といった継起する二つの事物や事柄をも無時間の思惟の世界に移して、単にその論理的な連関を見るのであるからこの封建制社会から資本制社会への現実的な移行は、運動の過程を捉えることができないのも当然のことである。要するにそれは、現実の生きた事物とその運動を捉えるものでなくて単にものの意味における規定なのである。これがこの抽象的な対立が持っている制限的な特性である。対立の意義については、形式論理学において定義はそのものの直接の類と種差とを示すことであるが、対立的な把握における統一がこの類であり対立物の相互否定がこの種差である。
【引用文献】
- (1) 見田石介『見田石介著作集』1巻「対立と矛盾」大月書店、1976年p.35
- (2) 同上書、 p.35
- (3) 同上書、 p.36
- (4) 同上書、 p.37