アーヘン便り

文化情報専攻 13期生 佐藤 敬子

 穏やかで弱いドイツの晩秋の日差しを受ける庭の木を見ながら、このアーヘン便りを書き始めた。普通ドイツでは11月に入ると日中でも薄暗い日が多く、「雨の穴」と異名をとるアーヘンも決まって冷たい雨が降っていたのが、この数年、地球温暖化によって暖かく青空の見える秋の日が多くなった。今年の10月は観測史上最も暖かい記録的な10月だったという。8月9月が雨ばかりの寒い毎日だったこともあって、みな、異常気象についての危惧はどこ吹く風で、明るい日差しを心から楽しんだ。11月に入ってからは流石に気温が下がって、冬の到来が感じられる。 町の中心の旧市庁舎前のマルクトでは、クリスマスのイルミネーションが灯り、毎年観光客で賑わうクリスマス・マーケットの屋台が所狭しと建てられて、来週末の開催を待っている。
 アーヘンの人口は約24万人、ベルギー・オランダ・ドイツ三国の国境が接する町、温泉のある保養地として、また、カール大帝ゆかりの歴史的な町として、一年を通してヨーロッパからの観光客が多い。そのアーヘンのもう一つの顔が、技術系の大学としてドイツ内外から高い評価を受けているアーヘン工科大学を有する大学町としての顔である。

 アーヘン工科大学は7つの学部を持ち、さらに100以上の専門分野に分かれている。学生数は約3万3000人、そのうちの約5000人が130以上の外国からの留学生である。ドイツの大学にはまた、留学生の他に、ドイツで生まれ、ドイツの学校教育を受けた外国籍の学生もいる。第二時世界大戦後に大量に入ってきたトルコ、イタリアなどからの外国人労働者の二世、三世である。外国人労働者の子女の教育対策は長い間大きく立ち後れて社会問題になっているが、大学への進学者数は着実に増えている。ドイツでは10月中旬に大学の新学期が始まって、開講直後のいつものゴタゴタが一段落したところだが、教養科目の一つに過ぎない日本語講座でさえ、新設した3クラス90人の受講者の、約3分の1が外国人の名前である。留学生の増加は近年顕著で、国際競争力の強化を目指し、開かれた大学として国内外から優秀な人材を求める姿勢が、はっきりと見て取れる。

 ちなみに、ドイツの大学はごく少数を除いてほとんどが州の管轄にあり、州と国から援助を受ける公立大学である。つい最近まで学費はなく、学生の自治会費を払うだけであったが、近年、州によっては学期ごとに500ユーロほどの学費を払う制度を設けたところもある。数年前までは、学士課程はなく、大学卒業は修士課程修了を意味し、6年以上かけて卒業する学生も多かった。しかし、大学入試資格のアービートゥアを得るまでにかかる学校教育の年数が13年と他の国より1年長い上に、男子は兵役があったため、大学卒業時には27、8歳になっている者が少なくなく、他の国に比べて大学卒業者の社会参加が大幅に遅いことが問題になっていた。そこでドイツは、EUのボローニャ宣言の採択を受けて、他のヨーロッパ諸国に足並みを合わせるべく大学改革に乗り出し、学士課程(3年)と修士課程(日本の博士課程前期)を設置した。さらに、中高等教育も4年間の基礎教育のあとの9年間を1年減らして8年間とする改革が州ごとに進められ、2年後には全ての州で大学までの学校教育が12年間となる。フランスとともにEU諸国を牽引する国として、ドイツは今、国を挙げて、国際競争力の基礎となる教育の改革に力を入れていると言えよう。ドイツは頑固で保守的な一面もあるが、反面、切り替えが早く、行動も非常にエネルギッシュで速い。様々な政策が計画され着手されている。

 ダイナミックな大学変革の中で、日本語教育をめぐる状況も変わった。 アーヘン工科大学では、日本語講座は2006年まで、人文学部の応用言語学科内に特別枠として設置され、開講の1年2か月後に日本語能力試験を受けることが講座の目的であり、受講を希望する学生はそれぞれの教授の推薦を受ける必要があった。しかし、2007年度に言語センターが新設され、日本語講座も言語センターに所属することになり、学習の目的や動機を問わない一般募集に変わったのである。 以来、他の語学講座同様、日本語講座にも受講希望者が殺到している。大学が語学学習を奨励し、学生の語学学習熱が高まった背景には、グローバル化の中で、ヨーロッパの国家間の連帯を図りながら、国際的なコミュニケーション能力を持つ人材の育成を目指すEUの教育理念がある。その理念は、言語教育についての共通した考え方として、“Commom European Framework of Reference for Languages“ (CEFR)にまとめられ、A1、A2、B1、B2、C1、C2という6段階の語学能力の評価基準も設けられた。その指標は、今では民間の社会人が学ぶ市民大学の語学講座の受講案内にも載っている。

 一口に大学における教養科目としての日本語講座といっても、 各大学の事情や環境などを反映して、様々である。アーヘンは、日本人が非常に少なく、普段日本語に接する機会は皆無である。それにもかかわらず、今や世界の若者文化となったマンガは、町の大きな書店の棚一面を占めており、寿司も大人気である。毎年デュッセルドルフで開催される日本デーには、アーヘンからもたくさんの人が見物に訪れ、アーヘンの中央駅は、デュッセルドルフに向かう電車を待つコスプレの高校生たちで賑わう。しかし、アーヘン工科大学の日本語講座を受講する学生のほとんどは技術、工学系で、授業で、宮崎駿、村上春樹といった名前を挙げても、知らないものが多い。そうした学生にとって、日本は高度に発達した科学と技術、異質でおもしろそうな文化と言語を持つ遠い国というイメージのようだ。アンケートをとると、日本語学習を糸口にヨーロッパとは違う国の文化や言語を知りたい、また、それを契機に、留学や研修の可能性を考えてみたいという希望が多い。そこに、すでに日本への留学・研修が決まっている学生と博士課程(日本の博士課程後期)在籍者が少数混じっている。ドイツの場合、大学教育が公費でおこなわれているのと同様に、留学も研修も、また公費で賄われている。伝統的な家庭教育と国の教育にかける姿勢が、ドイツの教育の特徴である。年間1000ユーロの学費導入は、各州で学生たちの猛反対にあい、アーヘンのあるノルトラインウェストファーレン州でも、3年ほど試された後、今年からまた無償になった。しかし、国や州の財政上、今後も学費の無償が継続できるのかどうか、私は疑問に思っている。話を留学にもどすと、大学への留学は選抜が厳しく、狭き門だが、実は企業での研修を希望する学生のほうが圧倒的に多い。最近のカリキュラムの改革を受けて、一部の学部では、研修を義務づけている。ヨーロッパでは、学生の企業研修が定着しているが、日本企業での研修を望む学生たちは、受け入れ先を探すのに非常な苦戦を強いられている。

 ドイツの学生は、授業のない夏休みや春休みにもレポートや試験があり、一年を通じて忙しい。特に、学士課程が導入されて以来、一定期間に履修が必要な科目が増えて、忙しさに拍車がかかった。一方、言語センターの予算には限りがあり、どちらかというと、一般的な経済状態を受けて節約削減方向にある。何しろ、全てが州や国の予算、国民の税金で賄われている。各語学講座に十分な予算があるわけではない。そうした状況はドイツ全体に見られ、かなり速い学習速度のカリキュラムを組んでいる大学が多い中で、私が比較的緩めな学習速度を設定しているのは、それなりのわけがある。

 いくら優秀な学生が多いといっても、学習速度が速すぎると脱落するものも多くなり、詰め込みすぎると忘れる量も多くなる。講座を修了した後ですぐに日本に行く学生や、引き続き日本語に触れる機会がある学生は、ごく僅かしかいない。次のレベルの日本語講座は、大学はもちろん、アーヘン市内にはないのが現状である。勉強で忙しく、また、教育にお金をかける感覚を持ち合わせていない学生たちが、次の日本語学習の機会や日本との出会いが来るまでに、学習したものをすべて忘れてしまわずに、日本や日本語への興味関心を持ちつづけてくれるような授業を、目指している。また、すぐに日本へ行く学生にとっては、日本人が理解可能な表現力をいくらかでも身につけることができることが、彼らの自信と意欲につながる。ヨーロッパの技術系の学生が日本での留学や研修で必要なのは、生活のための限られた日本語であり、それ以外の学業も職場も全て英語である。日本語を詰め込んでも、「そういえば、授業で聞いたことがある、習ったことがあった」という漠然とした記憶しか残らなければ、使い物にはならない。必要なのは、少しでもいいから使える日本語であり、異文化学習である。メンタリティや考え方の違いを知っているかどうかで、息の長い、よりよい対人関係の構築が可能になる。時には、学生と対話をしながら、日本への理解を育て、必要な日本語がある程度まで身に付く教室指導とは何かを、考えながら教える毎日である。実は、私の夫も20数年前に、博士号をとった後で日本の大学の研究所に2年ほどお世話になり、日本との関係はそれ以来続いて、今は、自分の学生や研究者を日本に送っている。20年間、夫を通して多くの親日家の研究者を知っているが、日本語のできる研究者に会ったことがほとんどない。しかし、日本語を習ってみたり、本を読んで文化やメンタリティの研究をしたりと、それぞれに工夫して、自分たちとは異質な文化やメンタリティを理解しようとしている。そして、それを重要に考えている。驚くほど日本文化についての知識を持っている人も多い。そうした人材を育て、支える日本語教育があってもいいのではないか、と考えている。

 先週、私の講座で日本語を学習して日本に行った学生3人と話す機会があった。一人は、3か月の日本語学習の後、今年1月に大阪へ行った博士課程の学生で、東日本大震災のときに多くのドイツ人が一時帰国したときも留まって研究を続け、9月に帰国した。話を聞くと、研究で忙しく、日本で日本語を習う時間はなかったそうだが、日本語でものの値段を聞くことができたことをうれしそうに報告してくれた。もう一人は、3月1日に埼玉の和光市へ行ったとたん、大震災で一時帰国を余儀なくされた。さぞショックだっただろうと心配していたら、4月に連絡があり、日本に戻って研修をしたいが、両親が反対していると言う。1年半一生懸命日本語を勉強した彼女は、顔に悔しさを滲ませていた。始めたことをやり遂げる一途なドイツ人である。いろいろ考え、夫の研究所から線量計を借り受けて、持たせることにした。気休めでしかないが、幸いなことに彼女の両親には功を奏した。先週、元気に帰って来た彼女に聞くと、研究所で日本語を使うチャンスはなかったが、生活のためには日本語の知識があって助かったと言う。日本語学習の時間は、やはりなかったようである。これから修士論文に集中すると言っていたが、また、いつか、日本との関係がめぐって来ることを願っている。3人目は、博士課程の学生で、約200時間の日本語講座を修了し、その間、4か月日本へ行っている。日本語講座を受講する前も一度日本へ研修に行っているので、既にかなりの日本通だが、それでも、9月には日本についての異文化学習セミナーにも参加し、非常に熱心である。その彼が、大阪からドイツの大学を見学に来た女子学生グループの世話役を言いつかり、私も、急遽セミナーを頼まれたので、いろいろと話をした。日本の女子大生とは英語の合間に、絶妙なタイミングで、「はい、お願いします」とか「それはありません、すみません」などと日本語を挟み、写真を撮るときも、日本語で「1足す1は?」などと笑わせていた。頼もしい限りである。普段は、巣立って行った学生にその後出会うことは滅多にないが、その後の消息を聞くことができるのは、やはりうれしくもあり、また、貴重でもある。



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