ヘーゲル弁証法と自己運動

人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司

 ヘーゲル弁証法の根幹をなす思想は、内在的思考の方法に基づいた否定性を包括したものであり、最も本質的な特徴を表現するものである。こうした内在性は、対象の中に入ってそこに内在する自己を止揚(Aufheben)するという対象の内在的な否定性を意味するものである。内在的な否定性の問題は、現実的なものである対象からの出発がその前提であり、事実から生じるとおりの発展と自分自身の自己運動を追及するという立場が要請されている。そのことは、対象自身によって自らを自己展開させることのうちに自らを語らせるのである。そのことの意味は、対象である事物や事柄の内在的な意味を吟味し自己運動において捉えることにある。対象である事物は、自分自身の内的運動を通じて自らの内的本性を外へ超出することにある。この自己運動とは、対象が自分を措定することなのである。したがって、対象である事物の自己運動は、内在的思考にとっては絶対的な前提をなすものであるだろう。われわれは、内在的思考において対象自身がその自己運動において展開される側面の措定するところのものを探求的に認識するのである。

 自己運動とは、あるものが自分自身を止揚して他のものに変化することであり、つまり対象自身の内在的な超出こそが運動なのである。その運動の根拠は、自己運動の過程に内在するものと考えることができる。われわれの任務は、対象の内在的思考において対象自身が如何にして自らを批判し、自己否定を通して真なるものにまで高めていくうえで内在的必然性においてその内容を純粋に捉えることである。弁証法の立場は、対象自身の自己運動を内的発見的に超出する立場であるとみることができる。対象の内在的思考にとって重要なことは、対象自身の自己運動の契機を対象自身の内部に求めるという内在性の立場を堅持することである。このように弁証法とは、内在的超出の立場なのである。ヘーゲルよると有限なものは、当為と制限という二つの弁証法的モメントによって発生と消滅を繰り返しながら、自己運動と自己関係により統一し生成へと至るという無限に発展を続ける歴史的で過程的なものである。したがって、すべての有限なものは、過渡的で歴史的な存在と捉えることにある。

 事物の発展とは、単純なものから複雑なものへの運動であり、新しい質の発生にかかわるものである。こうした有限なる無限の弁証法的な過程には、無限なる歴史的な過程のもとにのみ存するのである。こうした運動の過程的な性格は、ヘーゲルの論理学において最初の思弁的概念として生成というカテゴリーのもとに定式化されているのである。この生成とは、発生と消滅という自己運動を通しての歴史的な過程の統一としての成果である。そして発生とは、無から有への自己運動であり反対に消滅とは有から無への自己運動である。だから生成とは、こうした発生と消滅との過程的な統一のことを示した概念である。すべてのものは、生成の見地において捉えるということは弁証法的なものの捉え方なのである。したがって、このような見地からは、すべてのものの自己運動を発生と消滅の過程の内にあるものとして捉えることにある。つまり、すべてのものは、発生と消滅との過渡的状態に置かれているものであり、その意味において有と無との過渡的な状態でないものはこの世にまったく存在しえないのである。

 この生成の見地は、ヘーゲル哲学の全体をつらぬき主体的な歴史的な方法となって表現されている。こうしてヘーゲルは、すべての事物に対してそれ自身の生成をそれ自身に内在する固有な歴史の産物として捉えているのである。したがって彼は、全てのものにおいて出来上がったもの完成したもの与えられたものとして前提しなかったのである。つまり、こうした生成は、発生と消滅という歴史的な過程の成果として捉えるべきであって、出発点として捉えるべきではないとしている。ではなぜわれわれは、最高のものである生成をつまり具体的で真なるものをもって端初としないのだろうか。そのことの意味は、真なるものを成果の形で見ようとするからであり、歴史的な方法において真なるものは前提ではなく結果でなくてはならないからである。つまり、ヘーゲルにあっては、自分自身の成果として生じたものだけが真なるものだからなのである。ヘーゲルは、歴史を考える場合それを純粋な内的発展関係において論理的に捉えようとして純粋な内的発展関係の本質を、止揚という関係のうちにあることを発見的に示したのである。

 そのことの意味は、より先なるものとより後のものとの関係がまさに止揚の関係になっていてこそ、初めて両者を発展関係として配列するのであって時間的で外面的な歴史を、そのまま発展関係と見なすことはしなかったのである。発展関係の内実は、まさにこの止揚ということの内にあるだろう。止揚という語のうちには、否定すると言う意味と保存するという意味がありさらに高めるという意味がある。したがって、或るものが止揚されるには、そのものの形式が否定されそこに達せられた内容が保存されて、高いもののモメントへとより高められなければならない。だからこそ、後のものは、より先のものよりも益々具体的で包括的なものとなってゆくのである。ヘーゲルは、こうした止揚関係を捉えることによって歴史を外面的な歴史から純化させて内面的な歴史展開を、理解することができたのである。ヘーゲルは「人々は哲学の発生および発展の外面的な歴史に特有な形態を哲学の歴史と考えている。こうした形態からみるとき、理念の発展の諸段階は偶然的な継起にすぎず、それぞれの哲学体系がそれぞれの仕方で具体化しているさまざまの連絡のない諸原理に過ぎないように見える。」(1)と述べている。

 このようにヘーゲルが、歴史を捉えるに偶然性からの見地を捨象して外面的で歴史的な関連性ではなく、あくまで内面的な歴史認識として合理的に理解しようとした功績は極めて画期的なことである。歴史的に見ても彼以前には、哲学史を一つの必然的な発展関係にあるものとして理解して叙述したものがいなかったのである。さらに、ヘーゲルが、発展関係の本質を止揚のうちに見たことは内在的否定性と肯定的側面を捉えたことに重要な意義をもつものである。つまり、ある哲学を反駁することは、その哲学のあるがままの制限された形式を解体させ、そこに達せられた成果の内容を保存してより高次なるものへの発展が求められている。その意味においては、ヘーゲルの言うように哲学史上の「あらゆる哲学が反駁されたことを承認しなければならないと同じ程度に、一つの哲学も反駁されなかったし、また反駁されえない、と主張しなければならない。」(2)としていることは重要なことである。なぜなら、あらゆる先発の哲学は、より後続の哲学のモメントへと止揚され内容的に保存され高められていったからなのである。

 このようにヘーゲルの論理は、単純なものから複雑なものへ抽象的なものから具体的物への概念の自己運動と、自己発展という歴史的な論理であった。だから彼は、論理的なものが歴史的なものに本質上一致しなければならないと考えたのである。対象である有限な事物は、不断なる自己運動として発生と消滅を繰り返しながら内在する否定性によって自己を超出し、自己を発展的に進行するものと捉えたのである。このように論理の場合においても有限な概念は、それ自身うちに内在する否定性によって内在的に自己を超出し、絶え間なく他の概念へと自己発展してゆくとしたのである。だからこそヘーゲルは、概念に内在する否定性を概念運動の転回点をなすものとして捉えることによってそれを「一切の活動性、即ち生命的な自己運動と精神的な自己運動とのもっとも内奥の源であり、すべての真なるものをそれ自らの中にもち、すべての真なるものを真なるものたらしめるところの弁証法的魂である。」(3)としたのである。このように、ヘーゲルが否定性のモメントを重視しているのは、彼が弁証法的で歴史的な見地に立っていたからである。

 すべてのものは、自己のうちに内在する自己発展性と自己運動と内在する否定性のモメントなしには自己を超出し止揚することはできないだろう。有限なものは、自己の内にある内在的限界との矛盾(Widerspruch)によってのみ自己を超出させられるのである。したがって、矛盾なしでは、歴史は存立し得ないのであり逆に矛盾の認識は歴史的方法なしには成立しえない。対象である或るものの限界は、それを超出しようとする当為のモメントなしにはその限界は制限として自覚されないのである。同じ様に歴史的発展の見地に立つことなしには、矛盾は矛盾として自覚されずまた承認もされないのである。そして、この絶対的な認識は、ヘーゲル自身の哲学体系の中で実現されているとしたのである。対象である事物の内在的な発展については、それは対象の中に入ってそこに内在する発展的な要素を吟味することによって、自己を止揚するという対象の内在的否定性を意味するものである。だがしかし、ヘーゲル自身においては、この内在主義的な見地も概念の自己運動である自己発展として捉えられたのである。

 このような、ヘーゲルの内在的否定性の問題は、その前提である現実的なものからの出発が捨象されて発展を追及するという概念内の問題へと転化されたのである。だからといってヘーゲル哲学の功績とその意義は、消し去られるものではないだろう。そのことの意義は、こうした一定の制限性を内包しつつも彼の哲学体系において初めて自然的・社会的・及び精神的全世界が一つの系統的過程において発展するものとして展開されたことにある。その哲学は、無限の運動・変化・及び発展において把握されたものとして叙述され、その内在的連関性を普遍的必然的に証明しようとしたことにある。さらには、自らの哲学を基礎にしての弁証法的方法を適用したことにあるだろう。そして、世界のありようについては、出来あがった固定的なものではなく生成し消滅する事物については絶え間なく変化発展する過程において捉えたことにある。ヘーゲルは、このような哲学の根本問題である存在と思考との同一性についての問題を主観的に解決したのである。



【引用文献】
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