対立と矛盾の弁証法(5)・対立の本性
人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司
対立(Gegensatz)の概念を吟味するには、対象である事物のうちにある両極端の対立項において互いに否定し合うような区別を捉えて対立と矛盾をも含めた包括的に規定されたものを認識することにあるだろう。対立を認識するということは、対象をその内部において他のものに対して区別することである。区別を把握するには、区別することを必ずしも認識することではないが反対に認識は必ず区別をその手続きとして対象自身のうちに含んでいることを捉えることである。つまり区別は、認識としては自由におこなわれるものではなく対象自身の内的または外的な区別を反映して認識されるのである。このように区別は、主としてこうした認識であるが問題の対立は区別の仕方である差異に対して互いに否定し合うように各々を区別する仕方や在り方であるだろう。対立一般を規定すれば、論理的にも現実的にもすべて否定しあう区別が対立と呼ばれているのである。ヘーゲルは「自己に即した区別は本質的な区別、肯定的なものと否定的なものである。肯定的なものは、否定的なものでないという仕方で自己との同一関係であり、否定的なものは、肯定的なものでないという仕方でそれ自身区別されたものである。両者の各々は、それが他者でない程度に応じて独立的なものであるから、各々は他者のうちに反照し、他者がある限りにおいてのみ存在する。したがって本質の区別は対立であり、区別されたものは自己に対して他者一般をではなく、自己に固有の他者を持っている。」(18)と述べている。
観念的な意味での対立は、現実的なものではあるがまだ抽象的で形式的な対立であって過程の最後に矛盾そのものではないにしても矛盾の核心をなす真に現実的な対立であるだろう。対象である事物の対立とその形態の特色は、初めにこの対立が内包している対立一般の契機から吟味することで各々がもっている論理的な意義を明らかにすることになるだろう。ヘーゲルは、「本質的な区別は、すべてのものは本質的な区別である、あるいは別の言い方によれば、二つの対立した述語のうち、一方のみがあるものに属し第三のものは存在しない、という命題を与える。この対立の命題は、きわめて明白に同一の命題に矛盾している。というのは、後者によれば或るものは自己関係に過ぎないのに、前者によればそれは対立したもの、自己に固有の他者へ関係するものと考えられているからである。」(19)と述べている。このような、観念的な否定の意味は、より深く考察して見れば区別されるものが分極的な対立項によって共通に規定されその位置が互いに逆になり否定し合うものである。生産と消費は、まだそれだけで完全に否定し合っているものではないがこうした分極性はそれ自身がまた否定し合うものなのである。
このような、生産と消費の二要因は、或る物と人間を捉えて見ると物質はすでにそれ自身のうちに生命の可能性と人間の可能性を持っている。一方において人間は、物質から構成されておりどちらも人間的なものと物質的なものを二要因としてあるだろう。こうした関係から一方では、物質的なものが支配的であって人間的なものが単に可能性において存在し、他方は物質のうえに人間が顕現して物質を単なる材料や基礎においている。こうしたものは、物と人間自身が互いに二要因である否定し合う関係にあるだろう。つまり、各々が逆の関係では、対立的な二要因の統一になっているような二つのものが対立なのである。このような対立は、互いにその意味のうえで否定しあって同じ主語と主体にその述語を属性として所属し得ないものであるだろう。対立を見ると言うことの意味は、単に量のうえでの違いではないのであってそうした量的なものでも無規定なものでもなくて互いに反対の関係で規定されたものとしてどちらも対象自身のうちに内在的で質的に規定されたものである。また各々の関係からして相対的には、積極的なものと消極的なものとして区別されるにしてもどちらと見てもよいものであるだろう。
対立と区別は、両極端の対立項をなす関係にあるが互いに否定し合うように最も明確な区別された正反対のものであるだろう。そのことの意味は、或る事物の両極端に見られる分極性による完全に異なったものでかえって最も密接な関係にもたらされたものである。対立する二つのものは、両極端に見られる分極性を持って規定され普遍的な共通の類を持っていてそれが各々反対の関係にあるだろう。したがって、対立する両極端のものは、また互いに制約しあい相互に反省しあって相互浸透をしている関係の内にあり、こうした対立する両極端のものは不可分離的なものになっている。対立の一体性は、これが対立物の相互浸透との統一である。ここで対立する両極端の対立項を吟味することは、このような類の共通性と相互浸透や相互制約といった対立の統一を示す全ての否定と対立のための本質的な条件であるだろう。このような対立の意味は、対象である事物や事柄に内在的にすでに内包されていたことであってその内包されていたものを取り出して明確化したに過ぎないことである。対立物の相互浸透と言うことは、対立を見るだけでなくさらに進んで同一的な統一をも見ようと言うことを意味するものだろう。
弁証法的な矛盾に関して言えば、それは対立物の関係のいくつかの形態である両極端の同一的な一体性として表現されるものである。G・シュティラー(1924―1989)は、一般的な対立と矛盾との関係について述べている。「一般に対立関係は、弁証法的な矛盾よりもいっそう大きな普遍性をもっている。すべての現象は、あれこれの仕方で、もろもろの対立関係の諸項として規定されうる。しかしそれらの諸項は、対立物が一つの系の内部で能動的な関係を作り出すときにはじめて、矛盾し合うようになるのである。」(20)としている。さらにシュティラーは、対立的な本性が吟味される場合に対立が矛盾を構成する要素である限りにおいて「弁証法的な矛盾の最初の本質規定がおこなわれるわけである。しかしながら、矛盾の属する存在規定よりもより普遍的な、より包括的な存在規定が分析される。対立項はその場合一つの関係の極として定義される。」(21)と述べている。一般的に対立という言葉には、弁証法的な関係の両極端を捉える場合と対立という言葉が各現象の関係の一定の局面を表すのに役立っている場合があるだろう。だから、そのことの意味は、対立関係と矛盾との再生とその関連や対立の本性について把握することである。
具体的な対立の意味は、これらの場合に対立は実在的な現象であると捉えられていることである。対立については、各々の概念と判断の関係として表現するとさらに諸々の変容をもたらすことになるだろう。すべての現象は、あれこれの仕方で諸々の対立関係の両極端の対立項として規定され得るものである。しかし、それら両極端の対立項は、対立物の同一的な一体性がその内部で能動的な関係を作りだす時に初めて相互的な排除性が伴い矛盾し合う関係になるだろう。だから、対立の概念が吟味される場合は、対立が矛盾を構成する要素である限りにおいて弁証法的な矛盾の初めの本質的な規定がおこなわれる。こうしたことから弁証法的な矛盾は、それは対立物の相互浸透とその関係のいくつかの形態において同一的な一体性と抗争のうちに表現されるだろう。この対立関係は、弁証法的な矛盾よりも一層大きな普遍性を持っている。同時に矛盾に属する存在規定よりは、より普遍的で包括的な存在規定が吟味され分析されるだろう。両極端の対立項は、一つの関係の分極として定義されこの関係全体を対立関係と規定されるのである。
対立を根本的に特色付けているものは、対立関係のうちにある両極端に見られる対立項と現象の分極性である。この対立する分極性は、或る事物の一体性をなす連関の両極端である対立項の各々の現象が相互に前提し合いながらもかつ排除しあうと言う関係として定義されるだろう。この分極性という概念は、事物に内在する対立関係をいわば感覚的な対象であることを指し示すものである。われわれは、生産と消費という関係における諸々の対立状態を分極関係として特徴づけることができるであろう。この生産と消費という社会関係とは、相互に従属し合い互いに制約し合う不可分離的な二契機でありしかも同時に互いに排除しあうと言う対立している両極端が対立関係をなす両極の対立項である。この両極の対立項は、互いに関係させられる相異なった分極的な構造をこうした規定から次の二契機を対立に特徴的なものと見なしたことは明らかであるだろう。両極端の同一的な一体性は、それらの共存的な関係と相互の制約性とが一体性の内部での両極端の相互的な排除性をも保持している関係にある。つまり、対立関係と対立物の一体性は、分極的に定立しあう各々の二側面がどちらの側からも制約し合うと言う統一した形式を持つだろう。対立項の両者は、互いに制約し合うと言うことによってどちらの側からも前提し合い矛盾した同一的な統一体を形成しているのである。
われわれの認識は、対立が或る一つの事物に内在する同一関係の両側面であることで対立物の相互制約の本質を捉えることにあるだろう。そして、対立物の相互制約は、常に対立する分極的な両端が現存する具体的な各々の側面の内に根源をおいている。そのことの意味は、単に両極端の対立項の相互の弁証法的な関係だけを表現するのではなく、同時にこれら両極端が関係する統一的で全体的なものの不可欠な契機であることをも表現するのである。或る対立物が両極端として出現する関係は、あらゆる仕方によってその他の諸関係と結び付けられている。これらの対立関係は、両極の同一的な一体性を形作りその系の性状によって一般的には具体的な対立物の同一的な一体性が特殊的には具体的な対立物の個別的な本質が確定されるだろう。対立物の相互制約は、両極端の相互の単なる関係なのではなくそれが両極端の対立項の具体的な存在条件のうちに相関関係となって具体化されているのである。このような相関関係は、しばしば見落とされそれによって対立物の相互制約の表象は抽象的な性格を帯びることになる。対立する概念のこの関係は、その関係という形態においてだけ吟味されるならば対立物の相互制約はもっぱらその関係そのもののうちで自足している関係であるかのように現象するだろう。
【引用文献】
- 注(18) G.W.F.Hegel Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften T Suhrkamp taschenbuch
Wissenschaft §.119. 邦訳、ヘーゲル著、松村 一人訳『小論理学』下巻、岩波文庫、昭和39年p.28
- 〃(19) ibid.§.119.邦訳、同上書、下巻 p.29
- 〃(20) G・シュティーラー著、福田静夫訳『弁証法と矛盾』青木書店、1976年p.15
- 〃(21) 同上書、p.15