ヘーゲルにおける全体論的思考
人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司
ヘーゲル哲学は、思考と存在との同一性の具体的な思考である。具体的な思考とは、対象である事物を生動的に捉えることであり共生するという意味である。それは、諸事物が相互連関の内にありお互いに繋がりあって生成し消滅するという過程として捉えることだろう。この世のすべての事物は、単独では存在しえないのでありそれらの事物は様々な仕方で他のものと結びつき相互に依存し合って関係している。換言するならば、すべてのものは、相互連関のもとにあり他のものによって媒介されているのであってこういう相互媒介の関係のなかで事物を捉えることが具体的な思考というのである。そして、ヘーゲルがいうには、体系的な哲学的思惟は全体性が求められるのであるから「体系を持たぬ哲学的思惟はなんら学問的なものではありえない。非体系的な哲学的思惟は、それ自身としてみれば、むしろ主観的な考え方に過ぎないのみならず、その内容からいえば偶然的である。いかなる内容にせよ、全体のモメントとしてのみ価値を持つのであって、全体を離れては根拠のない前提か、でなければ主観的な確信にすぎない。」(1)と述べている。
だから、非体系的で哲学的な思惟は、主観的な考え方で学問的なものではないだろう。そのことは、体系的で哲学的な思惟の偶然性を否定し哲学的な思考の発展性に触れながらその全体的な思考の必然性を強調してさらに哲学を発生史的に捉えることが求めているのである。ヘーゲルは「人々は哲学の発生および発展の外面的な歴史に、特有な形態を哲学の歴史と考えている。こうした形態から見るとき、理念の発展の諸段階は偶然的な契機に過ぎず、夫々の哲学体系が夫々の仕方で具体化している様々な連絡のない諸原理にすぎないように見える。精神の思惟的本性は、自己が何であるかを自覚すること、そしてかく自己を対象とするやいなや、すでにその対象化された自己を越え、自己のうちで一段高い段階にたつことにある。」(2) と述べている。こうした形態は、哲学の発生および発展の外面的な歴史に特有な形態を哲学の歴史と考えられるだろう。
このようにヘーゲルは、哲学の発生と発展を歴史的なものとして捉えている。そして哲学の歴史が示すことは、その時々で特有な形態で現れる哲学体系は発展段階を異にする一つの哲学に過ぎないし夫々の体系の基礎にある特殊な原理は同じ一つの全体の断片に過ぎないとしている。歴史的に見て最後の哲学は、先行するあらゆる哲学の成果であり従ってあらゆる哲学の原理を含んでいなければならないだろう。それ故に、それが哲学である限りにおいては、最も発展したものでありより豊で具体的な哲学でなければならないのである。そして、全てのものが発展する以上は、いかなる真理も一定の発展段階における真理であって相対的な真理であるにすぎないだろう。そして、その段階をすぎれば、これまで真理としてきたものが虚偽に転化することもあり得るわけである。しかし、こうした真理は、底次の真理であり総合的で全体的な真理の一局面にすぎないだろう。絶対的な真理は、そういう部分的で相対的な真理を自分の契機として含みこれを規定しながら無限に自己発展していく全体的なものであるから真理は全体なのである。
この発展(Entwicklung)という観念は、真理という観念と同様に認識論の場合だけのものではなく現実のすべての面にわたって通用するものである。それは、現実における発展として歴史として現れるだろう。発展とは、新しい質の発生のことであり単純なものから複雑なものへの運動として規定することができるだろう。一般に弁証法的に統一している複雑なものは、多様なものの外的な総和であり単なる諸部分からなる全体ではなくて多様なものの内的で構造的な統一としての自己の関係をなすものであり、そのようなものとして特定の質的な規定性を持つものである。ヘーゲルにおいては、認識が学問的であるということの意味はその認識において体系的であることが求められるのである。そして真理(Wahrhafte)は、全体であり体系としてのみ現存するものであるから認識も体系的な認識としての学問的な形態をとった場合のみ初めて真実の認識であり得るわけである。ヘーゲルにおける学問の対象は、体系的な現実であり総体性としての現実だけである。だがしかし、こうした体系や総体性は、歴史的発展の結果としてのみ初めて生成するものであるだろう。とするならば、体系的であると言うことを本質とする学問的認識は、歴史的展開の終局場面においてのみ初めて成立することになる。
なぜなら、もし対象的現実がそれ自身体系的なものでないとすれば、その認識が体系的でなければならないと言う必然性は失われることになる。ヘーゲルの思考と存在との同一性の原理は、ここにおいても貫かれているのである。真理の現存する真の形態は、ただ学問的な体系をおいてのみ存するのである。この真理は、ただ体系としてのみ現実的なものであり「真理は全体である」(3)というヘーゲルの命題を真に理解するならば、真理を総体性(Totalität)として具体的に把握(Erfassen)しようとした視点が重要であるだろう。如何なるものも全体から切り離されて断片化されるとそれは何の意義も価値も持ち得ないものだろう。なぜなら、意義というものは、一般に普遍的なものとの関連において捉えられるものであり全体性への関係のことであるからである。だから、真理が具体的な全体であるならば、学問もまた必然的で全体的な体系であるだろう。体系を持たない哲学的な思索は、なんら学問的ではありえないのである。このような真理が、具体的な全体を学問的に必然的で体系的なものと捉えているのである。そこには、真理を総体性として具体的に把握しようとする体系を重んじるヘーゲル哲学の特徴が明らかにされているのである。
ヘーゲルは「哲学の諸部分の各々はいずれも一つの哲学的全体であり、それ自身のうちで完結した円であって、そこでは哲学的理念は特殊の規定性あるいは領域のうちにある。しかし個々の円は本来集まって体系的な全体をなすべきものであるからそれは自己の領域の制限をつき破って、より広い世界をうちたてる。したがって全体は、各々が必然的なモメントをなしているところの多くの円からなる一つの円として現れ、諸円に特有な諸領域の体系が完全な理念を構成し、またこの理念はあらゆる領域のうちに姿を現しているのである。」(4)としている。このようにヘーゲルは、哲学の全体は学をなすものとして一つの特殊な学問を構成する特殊な諸部分が必要であるとしている。そして、真実なものであるためには、その諸部分が決して孤立したモメントではなくそれ自身一つの統体でなければならないとしてこれを定めることはできないのである。したがって、哲学の全体は、真に一つの学をなしているのである。しかしまたそれは、多くの特殊の学からなる一つの全体と見ることもできるだろう。自由な本当の思想は、それ自身のうちで具体的でありその完全な普遍性においては必然的な体系でなければならない。ヘーゲルは「真なるものは具体的なものであって、それは自己のうちで自己を展開しながらも自己を統一へと集中し自己を統一のうちに保持するもの------総体性としてのみ存在し、また自己の諸区別を必然的なものとし、かつ全体を自由なものとなしうるからである。」(5)と述べている。
ヘーゲルにとっては、哲学的な思索の基盤も対象もすべて現実的であった。彼の思想は、思索による現実との闘いの結果として得られたものであり現実をその真の姿において把握するものである。現実的な把握の仕方とは、現実を真の姿において根本的なところで具体的に捉えるということである。だから、ヘーゲルの思想は、現実を具体的に捉えるという思考のことである。事物を具体的に捉えるということは、現実社会において共生するという意味であり夫々の物が互いに繋がりあって生成することを把握することにあるだろう。そして、全体性の視点から現実を具体的に捉えることは、現実を全体として理解することなのである。その現実を構成している要素は、単なる寄せ集めではなく要素や部分は相互に密接に連関しながら秩序のある統一体を形成している。われわれを取り巻くこの世の中では、単独にあるものはなくて色々な仕方で他のものと関係し相互に依存しあっているのである。とするとすべてのものは、他のものとの関係を抜きにしては考えることはできないだろう。すべてのものは、他のものによって関係し媒介されているのである。こういう相互媒介の関係の中で事物を捉えることが具体的な思考というのである。
こうした全体は、統一体であり真理とはこういう全体を示すものであるだろう。ヘーゲルは「真理は全体である。だが全体とは、自分から展開を通じて自らを、完成する実在のことに他ならない。」(6)と述べている。このように、全体性の立場から考えるならば、思惟と存在・主観と客観・理念と現実・精神と事物などはすべて同一物の両側面として捉え一体のものとして考えることにあるだろう。このことは、ヘーゲル哲学の形而上学的な前提でありこういう基本的な前提に立つことによってのみ現実を把握し得ると考えたのである。その全体性(Totalität)の中には、媒介(Vermittelung)において見られるような否定性と発展性とが含まれるだろう。このような全体的な考え方は、ヘーゲル哲学の構造そのものにも広く反映している。ヘーゲル哲学には、様々な部門があるが各々は独立したものではなくて相互に関連しながら一つの全体的な体系を形成している。それらの諸部門は、現実に関するヘーゲルの思索による統一的で全体的な哲学の構成部分なのである。体系というのは、そのような有機的な構造をもつ統一体である。だから全体性では、全体のもっている目的が部分の存在や作用を規制し決定するから部分の機能は全体の目的に導かれることになって目的論に似たような構造をもつのである。
【引用文献】
- 注(1) G.W.F.Hegel Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften T Suhrkamp taschenbuch Wissenschaft
§.14. 邦訳、ヘーゲル著、松村 一人訳『小論理学』上巻、岩波文庫、岩波書店、昭和39年p. 84
- 〃(2) ibid.§.13. 邦訳、同上書p.83
- 〃(3) G.W.F.Hegel Phänomenologie des Geistes Johannes Hoffmeister §.21
邦訳、ヘーゲル著、樫山欽四郎訳『精神現象学』河出書房新社、p.24
- 〃(4) G.W.F.Hegel Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften T§.15. 邦訳、
ヘーゲル著、松村 一人訳『小論理学』上巻、岩波文庫、p.85
- 〃(5) ibid.§.14. 邦訳、同上書p.84
- 〃(6) G.W.F.Hegel Phänomenologie des Geistes Johannes Hoffmeister §.21
邦訳、ヘーゲル著、樫山欽四郎訳『精神現象学』河出書房新社、p.24