対立と矛盾の弁証法(4)・対立と統一

人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司

 対立(Gegensatz)と統一については、われわれが直接目にする対立物の統一としての直接的で偶然的なものとなっている対立物のその不一致や不照応を分析することにある。たとえば、生産と消費の関係は、これらの偶然的な変動を通じて自らを実現していく傾向であり内面的な法則としての自己同一的な統一(Einheit)であるだろう。このことの意味は、自己同一的な統一された或る事物の統一の概念そのものに基づいている。一般的には、或る二つの事物が全く自立的に存立しているならばそこに同一的な一体性がないのも当然のことであるだろう。だがしかし、それとは反対にそこに完全な照応があって少しも自立性がないならば、そこに自立的な二つの事物が区別できないことからして同一的な一体性が存在することになる。すなわち、対立的な事物の統一は、或る個物の二つの側面と対立項の同一であり統一される両端の自立性を前提としているのである。したがって、対立的な事物や事柄は、不均等な発展と不一致や不照応を内包しているのである。だから、対立の統一は、対立物の同一的な一体性を示すものであって対立の特性であるだろう。このことの意味は、対立的な事物を単に意味の上だけでなくその現実的な関係の内に対立と区別を見ることでより具体的な認識をすることができるのである。

 このような対立は、二つの事物が現実的に制約しあい依存しあって統一していることである。この対立と統一は、二つの事物の現実的な区別(Unterschied)と関係を見たものであるから一見したところ具体的な事物の具体的な区別との関係のように見えるだろう。だがしかし、この対立と統一は、生産と消費の統一に対して見られるような統一や関係は歴史的に規定された生きた全体となる一つの主要な規定性や性質を持った一つの事物ではないのである。このことの意味は、あらゆる歴史的な形態を通じて見られる生産一般と消費一般との抽象的な関係を見たに過ぎないものである。そこにおいては、平均的で自立的な二つの事物があってその一つの事物が他の事物の条件であると見ることができるだろう。このような把握の仕方は、事物の内部や本質とするものを捉えることでなくその事物の他の事物との外面的な関係を見るに過ぎない事物をそれ自体に関係することのない認識である。このような対立的な把握は、一つの事物の内部に入り込んでその両極の二側面を対立的に捉えることでその統一を捉えることができるだろう。

 しかし、その場合の対立的な把握は、この二つの側面を平均的に自立する二つの事物においてその事物を一つの事物とする具体的な統一を見落としてしまうことになるだろう。そして、一つの事物を二つの事物と捉えたことは、或る一つの事物内の各々の両極の関係を捉えられないことを意味することである。対立という立場は、両極端に見られる対立項と現象の分極性をただその範囲だけでものを見てそれ以上なのも加えないことである。その限りにおいて対立の立場は、物を積極的なものと消極的なものとして互いに取り替える得る平均的なものに区別し、その立場ではどちらが基本的でどちらが派生的かどちらかが支配的でどちらが被支配的かは区別できないだろう。こうした対立の統一は、物を真に統一するのではなくかえって生きた統一物を二つのものに分解してしまいその連関は外面的な連関に留まっているのである。そのことの意味は、自然科学上の解剖や分析が生きた統一を破壊しその生命を捉えないものと同じである。このような非科学的な外面性は、この対立の立場の現実性を欠いた抽象性が現れているものだろう。

 そのようなことは、現実の世界に対する一つの抽象的で一面的な認識に過ぎないものである。このような見方は、目的と手段を固定化しその制約を相互的に見ないで形而上学的な見方に対しての事物に対する内的運動と連関を捉える弁証法的な見方と対峙させるものであるだろう。弁証法的な見方は、われわれの認識にとって貴重な法則であることは言うまでもない。こうしたことからヘーゲルは、事物の対立を一方では差異と区別して本質的な区別としながらも他方ではそれを差異性と同一性との統一としているのである。対立については、差異性に対してみると対立項の間に同一性を見出して各々の自立性を否定し、これを単に相対的な自立性を把握したものであり、その否定が相互的であるが故に各々の自立性が平均的にのこされているのである。この点において対立は、単に区別一般としてあくまで差異性と同じ性質を持っているものであるだろう。差異性においては、区別される二つのものの間に同一性がなくかえって区別される対立項が各々において自己同一性を持っているのである。しかし、そのことの意味は、現実の世界に対する一つの抽象的で一面的な認識に過ぎないものである。そこにおいては、具体的な対立の具体的な統一としての矛盾との区別があるところに見られるだろう。

 これに対して対立においては、区別される対立項の間に同一性が見出され両端の自己同一性は相対的なものに示されているこれが二つの違いであるだろう。だがしかし、両極的なものが平均的に相対的な自立性を持っている限りは、それはまだ両極の自立的なものであって対立の同一性といってもまだ抽象的な同一でありそれはまだ生きた全体としての事物が持っている具体的な同一性ではないのである。そのことの意味は、個でも普遍でもなくその点では単なる区別として差異と同じ性質を持っている内容であるだろう。このことから対立は、差異性と同一性との統一といわれる理由なのである。対立によって区別される分極的な対立項の同一的な統一は、これは生産あるいは消費という一つの規定された事物であってそれは各々の平均的に自立する物の統一ではなく主要な側面と主要でない副次的な側面との統一となっているものであるだろう。ヘーゲルは、このことの意味を具体的な統一ではなく平均的で自立的な二つの事物の統一を捉えたもので対立の各々の項を具体的な統一と捉えることで矛盾と見たのである。

 生産と消費における統一される各々の対立項は、主要な側面と主要でない副次的な側面を捉えてみると生産では生産が主要な側面であり消費が主要でない副次的な側面であるだろう。消費が主要でない側面であるのは、それは生産が自立的なものでなく消費にとって条件付けられているからに過ぎないものである。つまり、生産が消費によって条件付けられたものだと言うことの意味は、消費が生産の主要でない側面をなしているとしたまでのことである。だから、ここで二つの側面というのは、生産の現実の過程を分析して見出したところのその生産過程の中に現実にある生産関係や具体的な二側面を言ったものではないのである。端的に言えば、如何にも現実の生産内部における生産様式や現実的な二つの側面のように見えるが内実は生産とその外部にある消費との外観的な関係を言ったものであるだろう。だから、生産と消費の関係は、現実的に切り離しえないものだということを一方の側面である生産に即して見たまでのことである。こうした対立の統一は、いわば対立の一方の側である生産の上に反映しているに過ぎないのである。

 このような関係は、生産の過程そのものを分析したわけではなく自律して存立しているように見える事物の内実は自立しているのではなく互いに制約しあって統一していることを見出しただけである。ヘーゲルは「対立において、規定的反省、即ち区別が完成する。対立は同一性と差異性との統一である。その契機はただ一つの同一性のなかにあって互いに差異するところの契機である。」(16)と述べている。或る事物や事柄の過程において対立する諸傾向は、相互浸透と統一がある時その過程には或る矛盾が存在するだろう。さらにヘーゲルは「有限なものは、あるものとして他のものに無関係に対峙しているのではなく、即時的に自分自身の他者であり、したがって変化するものである」(17)としている。つまり生産は、消費でないものとしてそれによって限界付けられているがそれだからこそ消費と無関係なものでなくこの否定者を即時的に自分の内に含んでいる。だからそれは、矛盾でありこのために事物が変化するとしているのである。

 しかし、或る一つの事物は、他の或る事物ではないがそれなしにはありえないと言うことの意味は少しもその事物の内に二つの現実的な側面を見出したものではないだろう。そして事物は、その現実的な二側面の抗争によって変化するのであって生産は消費でないが消費と不可分離的であると言うことによって生産が発展したり、停滞したり生産が消費に変化したりするわけではない。そこで対立の立場は、区別に関係していると言う二つの事物そのものにおいてはその主要な側面と主要でない副次的な側面を区別するように見えるがそれは観念的にそうしているだけのことであるだろう。現実に二つの事物は、切り離しえない関係にあるという対立の統一をその一方の事物に即して言ったに過ぎないのである。結局のところこの立場は、二つの事物を平均的に自立的なものに区別しそれらの自立的な事物の間の一般的・抽象的・外面的な関係であるだろう。だから、対立のもう一つの特色は、事物の現実的な関係において現実的な否定と抗争の面を捨象して現実的な関係のうちの単に相互制約や相互依存の面だけを見ることである。

 このような、対立における否定性は、実際は分極的な対立項の相互浸透や統一と同じ内容のものであり現実的に統一しているものである。そしてこの統一は、直接的な不一致や不照応を内包するものではあるがそれは必然的ではなく偶然的なものであるだろう。したがって、そこでは生産と消費のあいだの生産力と生産関係などの照応や統一の見地は、それ自身のうちに現実的な否定性を含む一つの矛盾物としての具体的な事物の生きた統一を捉えられえない抽象的な捉え方である。そのことの意味は、平均的な自立物の統一でなく主要な側面と副次的な側面との否定的な統一であることは具体的な事物の生きた統一のある一つの部分が特色であるがそれが全てではないだろう。具体的な統一は、それ自身のうちに自己の現実的な否定者を含む矛盾としての統一なのである。矛盾としての具体的な事物は、単に主要な側面と副次的な側面の統一であるだけでなくてそれは主要な側面と副次的な側面が互いに現実的な否定者となっている関係のうちに平均的に自立した単に観念的に否定しあう二側面の統一であるだろう。



【引用文献】
総合社会情報研究科ホームページへ 電子マガジンTOPへ