対立と矛盾の弁証法(3)・対立と区別
人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司
対立(Gegensatz)という概念は、或る事物や事柄の内にある両極端な区別を指し示す言葉であって上と下・右と左・東と西・南と北等々の区別(Unterschied)を言うものである。そして、こうした対立的な区別は、或る事物についての本質的で必然的な区別を示すものであるだろう。だから、事物の対立的なものは、その規定性に関して相互に排斥し合う関係にあって互いに両極端の対立項で自分は他方の対立項ではないと言うことが直接に自分自身の規定と合致するという関係にある。さらに、差異的な区別は、対立的な区別とは異なり必ずしも事物にとって必要で不可欠な区別と言うものではないだろう。一般的に或るものは、自己の内にある他者がそのものではない自己内の否定性を包含したものである。だがしかし、このことの意味は、必ずしも両極端の関係にある一方の対立項のものが他方の対立項の存在そのものを否定する関係にあることを意味するものではないだろう。むしろ両極端の対立項は、自己内の不可分の両側面が互いに前提しあい相互に依存しあう関係にある。この両極端の対立項の関係は、対立物の分極の片方が本質的で肯定的な側面であり他方の分極の方は非本質的で否定的な側面であるような区別をいうものではないだろう。このような規定性は、各々において相互に排斥的で両極的な関係にあるものがその存在に関しては相互間においての前提的な関係が対立である。
この対立の意味については、事物や事柄の対立的なものが互いにその内的な意味において関連し相互に依存し合って相手を認め相互に理解する関係にある。他の対立の意味は、対立する具体的な事物の現実的な関係のことであって単にその意味において相互制約と現実に相互の存立条件の前提となり現実的に依存し合う不可分の統一が成り立つ関係にあるだろう。そして、さらなる最後の対立についての意味は、矛盾そのものについての現実的な意味内容を言うものである。こうした対立物は、その意味からして現実的に制約し合い相互に依存し現実的に排除し合うという互いに抗争の関係におかれている。このようなことから、たとえば、生産と消費の関係は、各々人間の物象化あるいは主体の客観化と物の人間化あるいは客体の主体化としてその対立性を捉えることができるだろう。このことの意味は、生産と消費という対立物について具体的に各々の規定を明らかにすることで深く吟味して見ると生産とは人間がその目的に従って自然を改良することであるからこれは人間の物象化あるいは主体の客観化と言うことであるだろう。これと反対に消費は、こうして出来上がった生産物を利用して人間を再生産するのであるから物の人間化ないしは客体の主体化として対立の規定が明らかになるのである。
客体と主体という二つの同一性は、対立と相互浸透が明らかにされることで生産は消費が何であるかを認識し、消費は生産が何であるかを認識することで生産と消費との関係の意味を把握することができる。こうした純粋化した規定は、同じ人間の客体と主体という二つの要因の相互作用にほかならないだろう。そして、この生産と消費と言う二つの関係するものは、統一と互いに反省し合っていることも明らかにされる。このようなことの意味は、対立物の根底にある同一性と反省の意味での相互浸透を捉えることにあるだろう。すなわち生産は、消費にとって不可欠の外的な対象を与え消費は生産にとって不可欠の目的と動機である内在的な対象を与えることになる。同時に生産は、消費の仕方や様式を現実的に規定することで消費的な欲望を形成し創造するのである。反対に消費は、生産物を消費することによって初めて生活過程における具体的な事実となるだろう。しかし、生産と消費とは、単に意味の上で観念的な統一にあるだけではなくて生産と消費は対立的に規定すると同時に生産と消費の媒介的な統一が発生するのである。こうした生産と消費の関係は、具体的な生産過程と生活過程において互いに現実的な各々の前提や条件となることで現実的に不可分の統一にあることを捉えたものだろう。
生産と消費は、単に同一と反省と現実的な統一の意味において対立し統一されているばかりではないのである。生産と消費の関係は、対立物の相互浸透が行われ現実的に統一されて相互依存としてその比例関係にあることが必然でなければならないだろう。見田石介氏は、生産と消費という社会関係について「生産の発展は消費の発展をその必然の条件としているのに、この社会では剰余価値生産が生産の推進力となっているために、生産の発展は、その条件である消費の発展をむしろ最低限に抑止することを必然としている。」(13)と矛盾する今日の社会発展について適確に捉え詳述されている。こうした生産の発展は、生産の無政府状態のためにそれは必然的なものでなく偶然的なものになっていて直接には生産と消費の存在と発展はむしろ比例関係にあるものではないだろう。だから、生産と消費の均衡状態が必然であるのは、それが偶然であるばかりかむしろその不一致が必然的である。こういう生産と消費の関係は、同一性(Identität)と反省と現実的な統一の対立の場合と違った新しい事態が生まれて生産と消費が互いに現実的に排除し合い抗争する関係となりこれが矛盾の発生なのである。
生産と消費の均衡状態は、具体的で現実的な関係において相互依存の関係にあるがいずれは資本制的な生産様式におけるその時々の新しい均衡状態に取って代わられることになるだろう。このような関係を弁証法は、対立の相互浸透と規定するがそこにはそれなりの区別される意味がある。対立の最後に見られる矛盾は、とりわけ同一性と反省と現実的な統一の対立に対して本質的に区別されるものである。そのこと意味は、同一性と反省と現実的な統一の対立の統一では対立はいずれも互いに補足しあい調和していることを言ったものである。これに対して最後の対立は、反対に互いに抗争しあい調和しがたいものであってこれが矛盾と言うものである。また同一性と反省と現実的な統一の対立では、対立の相互浸透はむしろ永遠であるのに対して最後の矛盾はその形式上の違いを見ても理解することができるだろう。そして、最後の対立関係における相互浸透は、常に一時的で条件的でありその崩壊が必然的なものであることは対立と矛盾が同一でないことを示している。この単なる対立は、調和すべきものであるその統一がいわば永遠のものである。これに対して矛盾は、調和しがたいものであってその統一は一時的で条件的なものであるだろう。こうした対立と矛盾は、外観的には同じように見られるが内的な意味からしてこの関係は明らかに本質的に同一なものではないだろう。
対立については、対立と矛盾があることを捉えて単なる対立を矛盾と同じものとして認識することはできないだろう。対立と矛盾の違いは、弁証法的には二つの側面がある事を捉えることが必要である。だから、対立を把握するには、ヘーゲルのように矛盾を捨象し反対に矛盾を吟味するに対立を捨象して矛盾だけを検討すると言うことをしてはならないだろう。すべてのものは、現実的に対立物と相互に制約し合い不可分の関係にあるという側面でありもう一つは事物の生命と運動の源泉は矛盾であるという側面を捉えることにある。だから、すべてにおいて各々の概念は、固定的に捉えてはならないと言うことであるだろう。このことの意味は、弁証法において事物を相互連関と運動において捉えると言う意味である。対立の相互浸透という意味は、対立する二側面の相互移行の関係を一つの言葉で概括したものにすぎないだろう。われわれは、弁証法のこの二側面の区別を認めるならば対立と矛盾の区別を認めざるを得ないのである。この対立と矛盾は、区別しなければ弁証法のこの二側面が混同されてしまうことを意味するだろう。対立と矛盾の区別は、このように弁証法の根本に関する重要な区別に照応しているのである。
M・コンフォースは、資本主義社会について「資本家と労働者の二つの階級が搾取するものと、搾取されるものとが対立する矛盾でありこれが、資本主義社会の本性である。」(14)と述べている。ここにおいては、階級矛盾として単に労働者と資本家が互いに相手なしには存在し得ない相互補足的な関係であることだけが捉えられている。こうした見方に対して見田石介氏は、「明らかにそれは一面的であり、一面化によって階級的な矛盾の本性を歪曲するものである。事実は、労働者はただ搾取されているだけのものでなく、羊でなく人間である以上、この搾取と搾取制度に反抗してこれと闘争し、それを打ち破るものである。したがって資本家もただ搾取するだけのものでなく、現在制度の維持のために、この反抗を抑圧し労働者階級と闘争するものである。これが二つの階級の矛盾である。搾取と被搾取というのは単なる対立で矛盾ではない。こうした単なる対立からはこの社会を止揚する力は生まれようがない。」(15)と述べている。このようにコンフォースの捉え方は、社会関係を可変的に把握することができないものであって、現実社会における内実はそれを打破することを志向するものと現在制度の維持とさらなる搾取と非搾取の関係強化のために展開することを理解する必要があるだろう。
このような、対立と矛盾を同一視して区別しないことは、常に誤りに陥る可能性を持っているのであって主観的な世界観の根本的な性格であると言うことが出来るだろう。ヘーゲルが対立と矛盾を区別しなかったことは、その論理学において有と無・上と下・東と西・南と北・同一と区別といった人間の思考に過ぎない抽象的な対立規定である相関関係を矛盾物として捉えたことにあるだろう。周知のようにヘーゲルは、自らの弁証法において対立と矛盾について大きな成果を後世に残したのである。だがしかし、他方においては、対立と矛盾について明確な区別をされていなかったのであってこれが明確に区別されねばならぬことは極めて重要な問題を含んでいるのである。これとは反対にヘーゲルは、プロシャの君主と市民社会との階級的矛盾を調和的な統一として弁証法的に神聖化したこととは深い関連を持っているものであるだろう。このような、対立と矛盾についての区別は、各々の意味内容において検討が不十分であったことや対立と矛盾の混同が発生した原因となっている。だから、対立と矛盾については、その内的意義を現実的に吟味して探求することが求められているのである。
【引用文献】
- 注(13) 見田石介著『見田石介著作集』1巻「対立と矛盾」大月書店、1976年p.31
- 〃(14) M・コンフォース著、小松摂郎訳『唯物論と弁証法』理論社1963年p.13
- 〃(15) 同上書、p.13