対立と矛盾の弁証法(2)・区別と根拠

人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司

 ヘーゲルは、区別と根拠(Grund)についてそれは同一性と区別との統一として「根拠は同一と区別との統一、区別および同一の成果の真理、自己へ反省すると同じ程度に他者へ反省し、他者へ反省すると同じ程度に自己反省するものである。それは統体制として定立された本質である。すべての物はその充分な根拠を持っているというのが、根拠の原理である。------根拠とは、自己のうちにある本質であり、そしてこのような本質は、本質的に根拠である。そして根拠は、それが或る物の根拠、すなわち或る物の根拠である限りにおいてのみ、根拠である。」(9)と述べている。こうした本質的な根拠は、根拠づけられる他のものの基礎としてあるのだがこのような場合は他のものを現実に根拠づけることによって始めて根拠として規定を与えられるのである。したがって根拠は、他と無関係にそれ自体において根拠としてあるのではなく根拠づけられたものとの一定の関係を媒介として成り立っている相対的なものでしかないだろう。

 本質のもう一つの規定は、それが自分以外の他に物の根拠としてあるということである。ヘーゲルにおける認識の仕方は、まず同一と区別(Unterschied)について吟味することで次いで根拠へと移行する展開を見ることにある。このような移行の仕方は、本質の分析において一定の真理性を持っていると言うことが云えるだろう。こうした本質は、同一と区別という二つの側面を常に併せ持っているが故に本質の内的な相互連関を理解するためには本質をまずこの二つの側面に分けて別々に分析し、それらが如何なるものであるかを明らかにする必要があるからである。しかし、このことの意味するものは、ヘーゲルが主張するように同一と区別が根拠に先立って或るところのものより根本的な規定であり、本質はこの二つの規定の統一として捉えるが故に根拠としての規定を持つと言うことを多少なりとも意味するものではないだろう。むしろ根拠こそが、本質のもつ最も根本的でより本質的な規定であり、同一と区別との統一としてあるが故に根拠としてあるのではなく、根拠としてあるが故に同一と区別との統一としてあるのである。

 このように根拠は、根拠づけられる他のものを基礎としてあるが根拠はそれが個々の事実を現実に規定し、根拠づける度合いに応じて根拠の三つの形態をつぎの三つの種類に区分することができるだろう。その一つの根拠と形態については、形式的で抽象的な根拠のことを言うのである。ここにおいては、根拠が根拠づけられたものからその内容上なお未分化であって両者の区別はまだ形式的なものに留まっている根拠を指し示している。たとえば、或る物体については、重さがあるから重いと言う場合がそれである。その二つの根拠と形態については、部分的で相対的な根拠である。この一つのことは、多くの異なった根拠を挙げることが出来るという場合である。たとえば、或る工事現場で起こる事故の根拠として多くの場合は、過重労働や経験不足とか準備不足など幾つものことを指摘することが出来るだろう。その三つの根拠と形態については、完全な根拠についてのことである。ここで一つのことについては、多くの根拠を示すことが出来るとしても主要な根拠とそうでない副次的な根拠とが区別されることになる。しかもそれらの根拠は、主要なものを基礎として一定の必然的な連関において示されるだろう。

 ヘーゲルは、同一の特別な統一が根拠であるとして「現存在とは、根拠から出現し、媒介を揚棄することによって回復された有である。本質は揚棄された有であるから、まず自己における反照であり、そしてこの反照の諸規定は同一・区別・および根拠であった。根拠は同一と区別との統一であり、したがって、同時に自己を自分自身から区別するものである。ところで、根拠から区別されたものは、根拠そのものが単なる同一性でないように、単なる区別ではない。根拠は自己を揚棄するものである。そして根拠が自己を揚棄して移っていくもの、すなわち根拠の否定の結果が現存在である。これは根拠から出現したものであるから、根拠をそのうちに含んでおり、そして根拠は現存在の背後にとどまっているものではなく、自己を揚棄して現存在へ移っていくものである。」(10)と述べている。こうした関係は、普通の意識のうちにも見出される。ヘーゲルは、現存在について個々の事物の持つ本質を同一・区別・根拠という三つの形態において分析し叙述している。しかし、事物については、そこで示されたような一定の本質を持つだけではないのである。

 事物や事柄は、一方において個々に区別され独立して存在していると共に他方では互いに外的な連関のうちにあって様々な作用をし合っているのである。現存在の二つの形態については、事物相互の連関はその担い手となりそれを成り立たせている個々の事物なしにはありえないだろう。個々の事物や事柄は、一方において互いに連関し合い互いに制約し合って不断の変化にさらされている非自立的なものである。現存在とは、このように外的に他と連関し合いながら世界を構成する独立の諸要素として存在している個々の事物や事柄のことであるだろう。しかし他方では、このような連関や変化のもとになっていると言う他の一面をももっている。こうした物とは、このような他との連関の基礎となり他に対して一定の自立性を持った物としての現存在のことであるだろう。現存在としての事物や事柄は、最初の単純で直接的な形態に他ならないのである。一般的に事物や事柄は、認識や歴史の上でもその認識の深まりにつれて単なる物としての形態から順次現象としての形態において考察されるようになる。これに対して現存在は、他の事物や事柄との関係に規定され依存している非自立的なものとして存在するのである。

 ヘーゲルは、物について「物は根拠と現存在という二つの規定が発展して一つの物のうちで定立されているものとして、統体である。それは、そのモメントの一つである他者内反省からすれば、それに即して様々の区別を持ち、これによってそれは規定された、具体的なものである。」(11)と述べている。さらにヘーゲルは「物において、すべての反省規定が、現存在するものとして再び現れてくる。かくして物は、まず物自体としては自己同一なものである。しかしすでに述べたように、同一は区別なしには存在しない。そして物が持っている諸性質は、現存在している区別------である。」(12)と述べている。このように物を構成している様々な質料は、本来的には同じものである。われわれは、区別がそれに対して外的なものとして単なる形式として定立されているような一つの質料一般を持つことになるだろう。あらゆる物は、すべて同一の質料をその基本的な内容のうちに捉えそれらの相違はただ外的にのみ、すなわち、形式においてのみあるに過ぎないとされ反省的な意識には極めてよく知られたものであるだろう。
 このように物においては、本質的な規定がより具体的な形を取って再現されている。物について一方では、異なった多様な諸性質を持っているのだがこれらのことが物における区別の側面を構成している。しかし、他方において物は、これらの区別を統一しそれを成り立たせている根拠として自己同一性の側面を整えている。こうした物を分析するには、物から性質を切り離し他の物を捨象してこの側面だけをと取り出すことでそれは抽象的で無内容な物としてのいわゆる物自体であるだろう。尚、有論で考察されている質とここで言う性質との関係は、区別されなければならないだろう。質と性質という概念については、共に他から区別された個々のものに内属している規定である。しかし、質については、或るものと一体となっていて或るものがそれを失えばそのものでなくなって他のものとなってしまうような規定だが性質はそうではないだろう。たとえば、鉱物である鉛は、固体から溶解してドロドロの液体に代わっても鉛でなくなることはない。ところで、物そのものとその性質との区別の側面は、一面的に強調されるとやがてはその性質が物そのものから独立してそれだけで存在するかのように誤って理解されることにもなる。
 性質については、物そのものとは区別されながらもあくまで物そのものにその根拠を持っていてそれから離れては存在しえないものと規定することができるだろう。物とそのものの構成要素は、物についての認識が深まると性質の担い手としての物そのものももはや無内容な抽象物としての物自体では無くなることになる。たとえば、彫刻像の原材料や建築資材として多く利用されている大理石は、石灰岩が変成作用をうけ方解石の集合塊が結晶質岩石となりそれらによって成り立っている。しかし、これらの各組成物質は、各元素に分解されて今日ではこれらの元素も電子と原子核に分解されることは明らかだろう。そして、各々の組成物質にあっては、これらの要素を結び付け統一しているものが物そのものではなくてこれら要素のあいだに働いている相互作用にほかならないのである。物そのものとは、このような要素と性質の区別と連関の総体であることを指し示すこと以外のものではないだろう。われわれ人間は、このような天然資源物の性質を把握し活用することで様々な発展をしてきたのである。
 このように、同一性と区別の根拠については、区別一般と単なる対立について詳しく規定するにさらなる吟味が求められている。見られたように、単なる対立である上と下との間には、矛盾した関係はないのであってこの二つの規定のものが相互に前提し、また否定しあって他に変化すべき必然性は何も含まれてはいないだろう。こうした対立する両極端の間には、上がなければ下はないのであって上が上であるためには下を必要とするし、下が下であるためには上を必要とすると言う相関的な関係なのである。けれども、ヘーゲルは、この単なる内容上での排斥関係をもその本質においては存在をめぐっての相互排斥関係に他ならないと見なして一切の対立関係を結局のところすべて現実的な矛盾関係に還元してしまったのである。ヘーゲルおいては、思考の過程と現実の過程とを混同することからくる重大な誤りは単なる対立と矛盾とを取り違えたことにあるだろう。上と下・右と左などの両極的な対立物は、内容上において相互排斥の関係にあるとしてもその存在に関しては調和と均衡のうちに存するものである。


【引用文献】
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